第千二百三十六話「『その時』」
玄関口で出迎えをしているけど暇過ぎる。あまり招待客がいないから待ち時間に比べて挨拶をする時間が短い。ほとんど待ちぼうけで暇なのは当然だろう。それにそろそろ良い時間だ。もうそろそろ……。
「それじゃ九条さん、中に入ろうか」
「はい」
槐は唇を紫色にして手をガタガタ震えさせながらそんなことを言った。軟弱すぎる。これでも招待客が途切れている間は中に入って温まっていた。それでもちょっとたまに外に出て短時間挨拶をしていただけでこの様だ。こんな事では装備もない冬の雪山で生き残れないぞ?
槐が追っ手になったとしても俺が冬の雪山に逃げ込めば逃げられる。そんな確信がある。まぁ鷹司家の御曹司がわざわざ自分自身で追いかけてなんてこないだろうけど……。万が一追いかけっこになっても逃げ切れるだろう。
それはともかく出迎えを切り上げて会場の裏へと回った。少し身だしなみを整えてから会場へと入る。
そこからはいつも通りというか、鷹司家の面々が開始を告げて招待客達からの挨拶を受けた。もちろん一番最初は近衛家から、他の五北家に続き七清家、大臣家と続いていく。五北会に入れるような家やメンバーの家しか呼ばれないパーティーなので挨拶もあっという間に終わった。
「それじゃ九条さん、少し自由に移動してもらって良いよ」
「はい。それではまた後ほど」
挨拶も終わったのでパートナーとして最低限の務めは果たした。あとはダンスの時にまた呼ばれるくらいでそれ以外は好きに歩き回って誰と話そうとも、料理や飲み物をいただこうとも自由だ。
「こっちですよ咲耶ちゃん」
「お疲れ様でした咲耶様!」
「飲み物をどうぞ!咲耶お姉様!」
「ありがとう竜胆ちゃん」
そう広い会場でもないのですぐに皆と合流出来た。竜胆が差し出してくれた飲み物を受け取って喉を潤す。俺がメインではないとはいえ挨拶をしていれば俺に話を振ってくる相手もいる。黙っているわけにもいかないのでそれなりに喉が渇いていた。
「今日のパーティーは空気がピリピリしているのだわ」
「えっ!?茅さん?」
まさか茅さんがそんな貴族的なことを言うとは思ってもいなかったので驚いた。
多分今日の招待客の大半はすでに今日起こることを知っているだろう。何故ならば味方側には父や兄や樽マダム達が、敵側には敵が、それぞれ今日のことを伝えているからだ。貴族の争いは根回しと味方が重要でありどちらの陣営も手を尽くしている。
鷹司家のパーティーに呼ばれるような家は上位の家ばかりであり、どちらの陣営も出来れば味方に引き入れたいと思っているだろう。そして味方に引き入れるのならば事情も起こることも話しておかなければならない。
最終的にどちらに付くつもりかは分からないとしても、今日この場に呼ばれているような家はほとんど既に話を聞いていてやってきているはずだ。もし何も聞かされていない家があったとしたらよほど仲間に引き入れたくない家だろう。
数の力というのは確かに大きい。味方は少ないより多い方が良い場合も多い。でも誰でも彼でも皆仲間に引き入れれば良いかと言えばそうじゃないのは分かるはずだ。
例えばすぐに裏切るような者。あるいは口が軽くてすぐに何でもしゃべってしまう者。足を引っ張るような者を味方に引き入れても数の有利よりも損失の方が多いのなら意味がない。むしろデメリットが上回るのならいない方が良いとすら言える。もしこの場でどちらからも話を聞かされていない家があればそういう家だというわけだ。
もちろんどちらからも誘われていないからといって無能な家とか信用ならない者、あるいは必要ない者とは限らない。有力で有能で口が堅く安易に裏切らない家だってあるだろう。そういう家でも声がかかっていないとすればそれは仕える家が決まっていて絶対裏切らないと思われている家だ。
近衛家に絶対の忠誠を誓っていて何があっても近衛家を裏切ることがない家があったとすれば、その家がどれほど有力で有能だったとしても父や兄が声をかけることはない。ただそういう場合は結局主家から話が来るだろうから敵や味方から直接話は来ていなくても事情は知ってるだろうけど……。
そういった諸々の陰謀が渦巻く今日のパーティーだけど、まさか茅さんがそれを感じ取って貴族的な考えを持って話していることに驚きを隠せなかった。
そりゃ茅さんも正親町三条家のご令嬢という上位貴族なんだけど、これまでの茅さんの言動からそういった貴族的な思考や風習とは一線を画す人だと思っていた。だけどさっきの言葉はそれを分かった上での言葉だった。あまりそういうことに興味がなく気にもしなさそうな茅さんがそう言ったのだから驚くのは仕方がないだろう。
「九条様は茅お姉ちゃんを侮りすぎですぅ~!」
「そう……、ですね。ごめんなさい」
睡蓮にそう言われたので素直に頭を下げた。茅さんを侮っているつもりなどなかったと思っていた。でも今思ったことは無意識にでも茅さんを侮っていたことだと言われれば否定は出来ない。俺にそのつもりはなかったと言っても相手にそう受け取ったと言われれば否定も反論も出来ないし、実際に俺もどこかでそう思っていたからこそ出た言葉だと思う。
「そんなことどうでも良いのだわ。それよりも咲耶ちゃん、今はパーティーを楽しみましょう?」
「はい……。ありがとうございます」
茅さんはそう言って許してくれた。普通だったら上位貴族のご令嬢としては侮られたら黙っていられないはずだ。でも茅さんは笑って許してくれた。これが……、これがお姉さんの余裕というやつなんだろう。茅お姉様素敵です!って言いたくなってしまう。
「お~っほっほっほっ!わたくしが来て差し上げましたわよ!九条咲耶!」
「御機嫌よう九条様」
「御機嫌よう、一条様、西園寺様」
俺達が話している所へ百合と躑躅もやってきた。今日の展開次第では百合や躑躅、一条家や西園寺家ともどうなるか分からない。でも折角のパーティーをギスギスした空気で過ごす必要もない。俺達は俺達で『その時』まで楽しもう。
「それにしても睡蓮は本当に痩せたわね~」
「そうでしょぅ~?もう十分ですぅ~」
「いや、十分ではないでしょ。まだ小太りよ。一番太ってる時よりは随分スリムになったけどまだまだよ」
「そうですよ睡蓮ちゃん。それに今やめてしまってはまた元通りになってしまいますよ。あの苦労が全部水の泡になっても良いのですか?そして再びまた一からあの苦労を味わいたいのですか?」
薊ちゃんが痩せた睡蓮を褒めていたからヤバイと思って俺も会話に参加した。でも俺が言うまでもなく薊ちゃんもまだまだだと言ってくれていた。これなら俺が慌てて入らなくても良かったかもしれない。
確かに睡蓮は一番太っていた頃よりかなり痩せた。とはいえ薊ちゃんも言った通りまだまだであり標準体重どころか平均体重よりもまだかなり重いと思う。
平均体重とはその年齢、性別の人全体の体重の平均であり、標準体重というのは身長に対して最も理想とされている体重のことを言う。似ているようで微妙に違うし、標準体重というのはあくまで医学的に見て最も病気になりにくいとされている体重ということでしかない。
だから前世の知識で言えば日本人男性の平均体重は標準体重よりやや重いくらいだったはずだ。標準体重は性別に関係なく身長と体重だけで表される。骨格や筋肉が少なく脂肪が多い女性の方が標準体重を下回りやすく、骨格が良く筋肉の多い男性の方が標準体重を上回りやすい。
何をもって良い悪い、太っている痩せているとするかは難しい所ではあるけど、それを差し引いても現段階の睡蓮でも太っているのは間違いない。ここで少し痩せたからと思って油断したら元の木阿弥だ。
まぁ?あえてまた太ることによって百地流式ダイエットをもう一度最初からやりたいというのならそれはそれでありだとは思うけど?
百地流の、百地流による、百地流のための生活。睡蓮もその素晴らしさが分かってきたということだろう。
「ぜっっっっったいにお断りですぅ~~~っ!もう二度とあんな地獄はごめんですぅ~~~!」
「まぁ!睡蓮ちゃんったら!面白い冗談ですね。うふふっ」
「何がおかしいんですかぁ~~~!」
睡蓮ったら面白いんだから。二度とごめんも何もまだ睡蓮のダイエットは終わっていない。そして百地流に終わりなんてない。睡蓮は冬休みの間中もずっと九条家で預かって俺と一緒に百地流に通うことになっている。だから二度とごめんだと言っても明日はまた百地流の道場へ行くんだよ。
「おい咲耶!」
「…………御機嫌よう近衛様」
俺達が女性だけで楽しく話していると伊吹と槐がやってきた。でも槐は伊吹の後ろでいつものニヤケ面をしているだけで何も言わない。また伊吹に絡まれて面倒だとは思ったけど無視するわけにもいかずに挨拶くらいは返しておく。
「よ~く聞けよ、咲耶。これが最後だ。俺様の婚約者になれ!」
「お断りいたします」
伊吹の言葉にいつも通りの感情の篭っていない笑顔できっぱり断りを入れた。もう曖昧にしておく必要もない。そもそも大分前からきっぱり断ってはいたけど今回は意味が違う。
「おい!大事な話なんだよ!いつものようなふざけた態度で済まそうとするな!本当にこれが最後の機会なんだぞ!」
「別に冗談でもふざけてもおりません。これまで何度も、本気で、きっぱりお断り申し上げてきたはずです」
「「…………」」
伊吹と無言で睨み合う。俺は伊吹と婚約するつもりも、ましてや結婚するつもりもない。もちろん伊吹だけじゃなくて槐ともお断りなんだけど今はそれは良い。槐は今も後ろでニヤニヤしているだけで何も言っていない。ここで槐のことまで持ち出す必要はないだろう。
「なぁ……、咲耶……。ちゃんと聞けよ……。今日が最後のチャンスなんだぞ?」
伊吹は泣きそうな表情を浮かべて、今までのような怒鳴り声と違って静かな声でそう言った。
分かってる。分かってるよ。これが最後だ。伊吹と俺が婚約するとか結婚するという話はこれで最後になる。それを知らないからいつものように答えているわけじゃない。それを知った上でこう言ってるんだ。お前こそ分かれよ。
「近衛様……、これが……、今日が最後の機会だと分かった上で申し上げているのです。近衛様と婚約するつもりはありません」
「…………どうしてもか?」
「どうしてもです」
俺の言っていることが伝わったのか伊吹は俯いて最後の確認をした。俺もこれが最後だと分かっている。その上で断っている。その意味がようやく伊吹にも伝わった。
「…………」
「…………」
最後に……、お互いに真っ直ぐ見詰め合った。正直俺はこの伊吹が大嫌いだ。今でもぶん殴ってやりたいとすら思っている。それはゲーム『恋に咲く花』で俺が咲耶お嬢様のことが好きで伊吹や槐のことが嫌いだからというだけじゃない。
この世界での伊吹は本当に最低で最悪の奴だった。どこが『俺様王子』だというのか。『俺様』なのはその通りかもしれないけど『王子』なんて呼ばれるような部分は何一つなかった。強いて言えば近衛家の嫡男ともなれば世間的に見て『王子』と言っても差し支えないかもしれないということくらいだろう。
この十二年近くずっと伊吹と槐のことを見てきて……、俺は心底こいつらのことが嫌いになった。ゲームの時よりももっと……。
それでも……、どんな嫌な奴でも、腐れ縁でも、十二年近くも共に育ってきた同級生だ。そんな伊吹のこれからに対して多少なりとも思う所もある。でも俺の気持ちも考えも変わらない。
俺はお前との対決を避けないよ。
「わかった……」
「……」
呟くように一言そう言った伊吹はスゥーッと息を吸い込むと上を向いた。どんな表情で、どんな気持ちなのかは分からない。ただ今この瞬間、伊吹は心の中で何かを整理しているのかもしれない。そう思った。
「俺様はこの場をもって許婚候補から九条咲耶を排除する!」
「「「――!?」」」
突然の伊吹の大声による宣言に招待客達が大きな反応を示していた。ついに始まる。『その時』が……。
「俺様は今日、この場で一条百合との婚約を発表する!」
「ふぇ?」
突然名指しされた百合は食べかけていた料理を咥えたままポカンとした表情を浮かべていた。あれはとぼけているとか作った表情じゃない。そもそも百合はそんな器用な子じゃない。どうやら百合本人には今の今まで知らされていなかったようだ。
「うむ……。これよりは近衛家と一条家がこの国を引っ張って行く。この婚約はその礎となろう」
「「「…………」」」
そこへ付き人に車椅子を押されながら一人の老人が伊吹に近づいてきた。出たな、西園寺実頼。これで……、これでようやく役者が揃ったわけだ……。
ここからが本当の戦いの始まりだ!




