第千百九十九話「咲耶様のお菓子作り教室」
もう文化祭の開催まで日がない。最後の追い込みをしているけど今日からは毎日時間一杯までクッキーを焼かなければならない。
一等千個、二等二千個の景品を目標値にしているということは三千人以上の客が来ることを見越しているということになる。そうなると当然参加賞であるクッキーも三千人分用意しなければならない。俺が焼いたクッキーは一枚ずつに分けられるそうだけどそれでも三千人分だと三千枚だ。とてもじゃないけど一日や二日で焼けるものじゃない。
既製品のクッキーと違って手作りだとさすがのクッキーでも賞味期限は短くなってしまう。材料や焼き加減を調整して出来るだけ長持ちするようにしても精々一週間ももつかどうかというところだろう。
仮に学園の調理実習室のオーブンで一度に二十枚のクッキーが焼けるとして、百回焼いても二千枚にしかならない。生地の準備は焼いている間にするとして最初の一回目以降は焼く間のタイムロスがないとしても十五分焼くとして百回焼けば千五百分かかる。二千枚焼くだけで二十五時間かかってしまうので一日八時間クッキーを焼き続けても三日かかることになる。
学園でもクッキーを焼き続けて、家に帰ってからも焼けるだけ焼いている。それでも三千枚用意するのは難しい。それを皆に説明したんだけど『あくまで目標枚数だから』と言われて三千枚を目標に焼き続けている。でも終わらない……。どれだけ焼いても終わらない……。
「すみません九条様。クッキーってどうやって作ったら良いんですか?一応レシピ通りにしているんですけどうまく出来なくて……」
「そうですね……。いくつかコツがあるので私がやっているのを一度見ていてください。一通り解説というかポイントだけ実演しながら説明します」
「あっ!私も良いですか?」
「私も聞きたいです!」
俺が説明をすると言うとワラワラとクラスの女子達が集まってきた。俺が一つの調理台とオーブンを使わせてもらっている。クラスメイト達は他のオーブンで焼いてくれているから俺より何倍も多く焼けるはずだ。
調理実習室には六つの調理台とそれぞれに道具やオーブンが揃っている。つまり俺と同じペースで焼き続ければクラスメイトの方が五倍多く焼ける。人手もクラスメイト達は数人で一班になっているから手が足りないとか遅れるということもない。
ただ全員が同時に俺の調理の様子を見ていたら他の班の手が完全に止まってしまう。それだとロスが大きいから順番に交代で解説することにしよう。
「これから手順の解説をいたしますが一班からは一人か二人ずつ見に来るようにしてください。他の方は手を止めずに作業を続けてください。希望者が全員聞けるように何度も解説いたしますので分かれて順番に聞きに来てくださいね」
「「「「「はいっ!」」」」」
とりあえず他の班も手を止めずに作業を続けてもらえるように交代で聞きにきてもらうことにした。これでタイムロスをせずに解説を聞きたい子全員に解説が出来る。
「まずは常温に戻したバターを練ります。そしてそこに砂糖などを加えてよく混ぜます」
実演しながら簡単なポイントを説明していく。こんなことはレシピを見れば書いてあることだけど、やっぱり目の前で見せられて説明されるのと、やったこともない人が文字の上でだけ読むのとでは大きな違いがある。俺だって最初はレシピを読んでもよく意味がわからないことも多々あった。実際にやってみて初めて分かることも多い。
「まずここでしっかり混ぜておかないとサクサクとしたクッキーになりません。よ~く混ぜてください」
「九条様、どうしてハンドミキサーを使われないんでしょうか?」
「あぁ、それはしゅ……」
「「「しゅ???」」」
「手動の方が感覚が分かりやすいからです。皆さんはハンドミキサーでも良いと思いますよ。あくまで私は手で練っているだけです」
「「「「「なるほど!!!」」」」」
あぶねぇ……。ハンドミキサーを使わずに手でやった方が修行になりそうだからって言う所だった。密かに百地流の修行をしているなんて知られるわけにはいかない。
「そして次に溶いた卵黄を加えます。一度に全て入れずに分けて入れて、その都度よく混ぜてください。バターと卵は分離するので細かく分けて入れて乳化するまでよく混ぜるのを忘れないでください。分離しているとこのようにボソボソになります」
練ったバターに卵黄を混ぜると最初は中々混ざらない。油と水が混ざらないのと同じだ。そして油と水が混ざることを乳化という。
「ここでのポイントはバターと卵は常温に戻しておくこと。卵を加える前に十分にバターを練っておくことです。それでも分離してボソボソになってしまう場合はぬるま湯で湯煎をして混ぜるか分量内の薄力粉を混ぜてください。ただしバターは溶かしてしまわないこと!練りバターと溶かしバターは別物です。この場合バターを溶かしてはいけません」
「「「なるほど……」」」
大体お菓子を作ろうと思ったら無塩バター、砂糖、卵の組み合わせがほとんどだ。ここで今言ったポイントをしっかり抑えて混ぜておけば大体のお菓子作りはそう大失敗はしない。
「最後に薄力粉を加えてさっくり混ぜます。小麦粉は混ぜすぎるとグルテンが出来て硬くなってしまいますのでサクサクしたクッキーを作るために小麦粉を入れてから練り過ぎないこと。あくまで粉っぽさがなくなる程度にさっくりです」
お菓子作りでよく出てくるのがこの『さっくり混ぜる』というやつだ。これは今説明した通りだけど加減が難しい。言葉で書けば『さっくり混ぜる』の一言だけどそのさっくり混ぜるというのがどの程度のものなのか慣れて理解出来るまで難しい。
「バニラオイルやココアパウダー、チョコレートなどを入れる場合はここで入れておきましょう。さっくり混ぜるコツはボウルにそってヘラを入れてボウルを回しながらこそぐようにして、生地を切るように折り返すことです。平らな面で捏ねるように練ってはいけません」
バニラオイルとバニラエッセンスは似ているようでちょっと違う。代用は可能だけど、エッセンスはアルコールにバニラの香りを溶かし込んでいるもので、オイルは言葉通りオイルに溶かしたものだ。アルコールは火に弱く加熱すると飛んでしまう。だから焼き菓子にはバニラオイル。アイスなど冷たいお菓子にはバニラエッセンスが向いている。
ただオイルの方が高価でエッセンスの方が安い。だからそこまで拘らないのならば安価なエッセンスで代用してもそれほど問題はない。
またバニラじゃなくてココアパウダーを入れたり、チョコレートを入れたりするのも良いと思う。ココナッツを入れるとかシナモンを入れるのもありだろう。基本の生地さえ出来るようになればあとのアレンジは自由自在だ。多少分量で戸惑うことはあるだろうけど何度か作ってみればそれなりに纏まる分量が分かってくる。
また今回は入れていないけどベーキングパウダーを入れるというのもありだと思う。ベーキングパウダーを入れるとふっくら膨らんで柔らかい食感になる。でも言われなければベーキングパウダーを入れたかどうか分からないくらいの違いしかないかもしれない。
「あとは生地を冷蔵庫で寝かせて、冷えたら型を抜いて焼くだけです。オーブンや生地の厚さなどで条件が変わりますが、ざっと170℃~180℃に予熱したオーブンで十五分前後焼けば完成です」
「「「「「おお~~~っ!」」」」」
皆には見本として見せていた生地を冷蔵庫に入れても次の工程は事前に冷やしていた生地を取り出して型抜きしている。そして実際に焼いている間待ってもらっているわけじゃなくて事前に焼いていた物を焼き上がりとして見せた。
最初に見た子達だけじゃなくて、その後俺は交代で何度も説明を聞きたい子達に見本を見せてポイントを解説しながらひたすらクッキーを焼き続けた。
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二日も三日も続けて毎日毎日学園でも家でもひたすらクッキーを焼き続ける。何かクッキーを焼いていない時まで俺の体から甘い匂いがしている気さえしてきた。
「良い匂いですね!咲耶様!」
「薊ちゃん……」
普通だったらクッキーが焼ける甘い匂いでおいしそうだと思うかもしれない。でも俺はここの所毎日毎日この匂いに包まれている。いい加減この甘ったるい匂いに酔いそうだ。パンにしろお菓子にしろ、毎日作っている所で働いているとおいしそうな匂いももうお腹一杯になる。それでも食品工場に勤めている人は凄いと思う。俺はもうこの三日でお腹一杯だ。
「何かトラブルでもありましたか?」
「いえ!むしろ順調に完成したと報告に来たんです!」
「そうですか。それは良かったです」
薊ちゃんは手先があまり器用じゃない。だから景品作りも難しくないエポキシレジン作りに回っていた。お菓子作りもあまり得意じゃないから教室の飾りつけに回ってもらっていた。その教室の改装が無事に終わったと報告に来てくれたようだ。
「内装の出来はどうですか?」
「えっとぉ~……、一部当初の予定とは違う形になりましたけど……、まぁ完成しましたよ!」
うん。どうやらやっぱり計画通りにはいかなかったらしい。事前のペーパープランはあくまで脳内での予定に過ぎない。実際にやろうと思ったら色々と実現不可能な部分が出てきてもおかしくはないだろう。それを実際にやりながら適当にそれらしく仕上げる。プロの建築じゃないんだからそれで十分だ。
「咲耶様も見に来てください!」
「え?う~ん……」
そう言われたら行ってあげたいのは山々なんだけど……、まだまだクッキーを焼かなければならない。オーブンには限りがあるから焼いている間に次の仕込みを済ませて、焼き上がったらすぐに次を焼いていかないと時間が無駄になる。ちょっと数分くらい教室を見に行っても……、とも思うけど……。
「行って来てください、咲耶ちゃん。今のクッキーが焼き上がればこちらのクッキーを焼けば良いんですよね?」
「皐月ちゃん……」
次に焼く分はもう準備が出来ている。天板にクッキングシートを敷いてクッキーは置いてあるから、今オーブンで焼いている分が焼き上がれば取り出してこちらの天板を入れて焼くだけだ。焼き時間も決まっているしここまできたら多少皐月ちゃんが手伝ってくれたとしても俺が焼いたと言って良いだろう。
「皐月ちゃん、それでは少しだけお願いしますね」
「はい。お任せください」
皐月ちゃんが取り出して次を焼いてくれることになったので薊ちゃんと一緒に少しだけ教室を見に行くことにした。もう明日が文化祭だからあちこちのクラスが廊下にも飾りをつけて教室を改装している。廊下にまで広げられている準備や道具を踏まないように気をつけながら三年三組の教室へと戻ってきた。
「まぁ!よく出来ているではありませんか」
「ですよね!頑張りましたから!」
薊ちゃんが胸を張っているけどそれだけの仕上がりになっている。一部実現は難しいんじゃないかと思っていた内装のプランも、完璧ではないまでもそれらしく出来上がっている。この辺りの工夫はさすがと言って良いだろう。プロの建築だったらこんないい加減なことをしたら怒られるだろうけど高等科生の文化祭なら十分過ぎる。
「教室内も素敵ですね。こちらが受付でこちらが景品引換所。ミニゲームはここで行うのですね」
「はい!」
薊ちゃんに案内されながら飾りだけじゃなくて店員の立ち位置やお会計、景品の引き換えなども脳内で想像しながらシミュレーションしていく。大体話し合いの時のイメージそのままに出来ているので特に詳しい説明を聞かなくても分かる。
「良いですね。これなら十分過ぎます」
「ありがとうござます!頑張りました!」
そう言って薊ちゃんが頭をややこちらに向けていた。これは頭を撫でて欲しいという意思表示かもしれない。なので少しだけ撫でてあげる。
「えへへっ!咲耶様に撫でていただけました!」
「ふふふっ。喜んでいただけたのなら良かったです」
薊ちゃんが可愛く笑ってくれたから俺もついうれしくなってしまった。もし俺が前世の姿だったらおっさんがJKの頭を撫でるなんて事案になっていただろうけど……。
「うわ……。何あれ……」
「え~?あそこを占拠しちゃうの?」
教室内の様子を確認しているとそんな声が聞こえてきた。
「一体何事でしょうか?」
「見てみましょうか」
声の主達は窓から外を見ている。だから俺達も窓際に移動して外を見てみた。すると……。
「あ~……」
「またあのアホボンですね……」
グラウンドのど真ん中、良い位置にデカデカと大きなテントが張られていた。そのテントには近衛家の家紋である近衛牡丹が見えている。どうやらあれは伊吹達の出し物のようだ。
三年三組を追い出されて、二年一組の出し物に相乗りしようとしたのも阻止された。それから伊吹達がどこで何をしているのか知らなかったけど、どうやらグラウンドにテントを張ってそこで出し物をするようだ。
よくあんな場所を確保出来たなと思う。多分グラウンドとかはプロの露店で出店場所もすでに決まっていたはずだろう。それなのに他のプロの露店のど真ん中に近衛家のテントがあるというのはいかにも後から割り込んだというのがよく分かる。
「まぁ私達に影響がないのであれば近衛様がどこで何をされようと知ったことではないのですが……」
「でもアホボンが何かやらかしたら咲耶様が尻拭いをさせられるんじゃありませんか?」
「「…………」」
薊ちゃんの言葉に『そんな馬鹿な!』って笑い飛ばすことが出来なかった。有り得る。むしろ今まで良くそういうことがあった。まさかとは思うけど本当に薊ちゃんが言ったように文化祭で伊吹達がやらかして、俺達が尻拭いする羽目になったりしないだろうな?そんなフラグはいらないんだよ?




