第千百三十八話「珍しく愚痴」
昨日のお茶会はとてもうまくいったと思う。日頃あまり接点のない中等科、初等科五北会メンバー達とも交流出来た。特に中等科五北会の子達とは初等科の頃に一緒だったけど現初等科五北会メンバーとは同じ科に通ったことはない。多少顔を合わせたことはあってもそれほど親密な関係じゃなかったから、昨日のお茶会をきっかけにして今後とも仲良くしたいものだ。
まぁそれで言えば今の中等科一年の子達だって俺達が初等科六年の時に新入生として入ってきて一年しか一緒に過ごしていない。初等科一年の時に一年間だけ一緒だった相手のことなんてあまり覚えていないだろう。そういう意味では現中等科三年生である竜胆達くらいの世代ならともかく、現中等科一年、二年の子達は俺達と過ごした時間も短いし幼い頃過ぎて覚えてもらえていないかもしれない。
初等科でも高学年とか、中等科以上に上がってきた今なら交流していれば覚えてもらえるだろう。それに色々と学園でも派閥などが出来ているはずだ。そういった子達を味方に引き入れることが出来れば咲耶お嬢様断罪の時に少しでも有利に働くかもしれない。
もちろんそんな打算だけじゃなくて可愛い後輩達との交流もとても楽しい。さすがに秋桐達みたいに『お姉ちゃん!』『お姉ちゃん!』って言ってはっきり甘えてくれたりはしないけど、それでもまだ初々しい下級生達の姿はとても可愛らしく癒される。
木通に対してだって初等科五北会会長としてとか、真夏日野流の広橋家として日野流を纏めてもらいたいとか、そういった打算もあるけどやっぱり一番は可愛いってことなんだよな。俺が言ってる下級生達に対する可愛いは別に性的な意味とか恋愛対象としてじゃないけどな!あくまで年下の女の子を見て微笑ましく思うという意味の可愛いだ。
昨日のお茶会で木通達とも随分打ち解けたと思うし、他のテーブルの子達も喜んでくれていたと思う。だからっていきなり何かあった際にも俺の味方をしてくれるというほど親しくなったわけじゃないけど、こういうことの積み重ねや交流が活きてくるはずだ。
「咲耶様、そろそろお出掛けのお時間です」
「はい。今まいります」
今日は朝から百地流の朝練を終えてこれから蕾萌会の夏期講習が始まる。本当なら昨日から夏期講習に行っている子が大半だろうけど俺はお茶会だったからな……。長期休暇の集中講座の時しか菖蒲先生と一日中一緒に居られないし、素敵なお姉さん菖蒲先生との楽しい講習に出掛けよう!
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蕾萌会のビルの前に来ると表で菖蒲先生が立っていた。多分俺を待ってくれていたんだろう。なんだか新婚夫婦で奥さんが出迎えに出てくれているみたいな感じがしてちょっと恥ずかしいけどうれしい。
「御機嫌よう、菖蒲先生」
「おはよう咲耶ちゃん」
向こうも俺の接近に気付いていたのでにっこりと挨拶を返してくれた。菖蒲先生みたいな人が奥さんだったらきっと楽しい結婚生活を送れるだろうな。朝はおはようのキスで起こしてもらって、いってらっしゃいのハグをして、帰ってきたらおかえりのキスをして、『ご飯にする?お風呂にする?』って聞かれたら『もちろん菖蒲だよ』って言って押し倒して……。
「ぐへへっ!」
「咲耶ちゃん?どうしたの?早く席へ向かいましょう?」
「ハッ!?」
ちょっと妄想に耽っていたら菖蒲先生はもうビルへと入ろうとしていた。俺がついてきていないことに気付いたのか不思議そうな顔でこちらを振り返る前にギリギリで正気に戻れてよかった。あのままだらしない笑みを見られていたら幻滅されるところだっただろう。
俺は本物の咲耶お嬢様じゃないかもしれない。でも俺にも見栄だってあるし、良いなと思ってる異性の前で格好もつけたい気持ちはある。中身は成人男性だったとしても、せめて表面的にだけでも皆を幻滅させないように精一杯咲耶お嬢様を演じなくちゃ……。
「すみません菖蒲先生。今向かいます」
今日は初日だし夏期講習を頑張ろう!そう誓って俺も菖蒲先生に遅れないように蕾萌会のビルへと入ったのだった。
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「あんの入江家の娘!今思い出しても腹が立つわ!いくら担任の教師とはいえ蕾萌会の厚意で講義を見せてあげたのにあんな態度ある?ね?マスターもそう思うでしょ?」
「う~ん……。私はその場を見てないから菖蒲先生の言葉だけじゃ何とも言えないわねぇ」
「マスターはどっちの味方なのよ!」
「あらあら……」
菖蒲先生の枸杞への愚痴を聞いてマスターは困った表情をしていた。でもその口調からはまったく困っているような様子は窺えない。
うん……。いや……、違うねん。これはちょっとした手違いなんだ……。
確かに俺は今日夏期講習初日だから頑張ろうと誓った。誓ったはずだった。だけどいつもの机で講習を始めて数時間で俺はかなり先まで進んでしまった。菖蒲先生は二週間分の問題集を用意してくれていたようだけどそれらは全て終わり全問正解だった。これ以上することがないというか、今日やりすぎたら今後もっと困るということで喫茶店に来たんだ。決して俺達は勉強もせずにサボっているわけじゃない。
そして菖蒲先生はずっとマスターに枸杞の愚痴を言っている。その気持ちも分からなくはない。あの時枸杞は強引に蕾萌会まで来て講習内容や風景を視察した。それなのに蕾萌会や菖蒲先生に感謝するどころか一部喧嘩腰とも取れるような悪い態度だったと思う。
蕾萌会側や菖蒲先生は別に枸杞を受け入れる必要なんてなかったはずだ。前世でも学校の先生が塾を見に来るなんて聞いたこともない。それを受け入れてくれた相手に取る言動ではなかった。そのことに菖蒲先生が不満を持つのは分かる。分かるんだけど……。
「私は別に教師になりたかったのになれなかったから塾の講師になったわけじゃないっての!も~!ほんと腹立つ!」
「先生も大変ねぇ」
分かるんだけど……、そのことに無関係なマスターが延々とそれを聞かされても困るだけだよね?あと何かその愚痴が仕事帰りに居酒屋で酔っ払って会社や上司の愚痴を言っているサラリーマンみたいだ。そりゃ女の人でもそういうことはあるだろうけど……、おっさんのように見えるというか何というか……。
「菖蒲先生、お気持ちは分かりますがマスターも困っておられますしその辺で……」
「あっ……。ごめんなさいマスター。咲耶ちゃんも……。折角喫茶店に来たのに空気を悪くしてしまったわね」
俺がやんわり言うと菖蒲先生はすぐに察してくれた。やっぱり基本は良い先生なんだよな。だけどそういう先生でもたまには愚痴を言いたくなる時もあるし、不満が溜まることもあるだろう。俺だって前世で社会人をしていたから分かる。
俺だけだったらそれを聞いてあげても良いんだけど、さすがに仕事中のマスターまで席に着かせて長々と話すことじゃないと思う。そこだけ分かってくれれば良い。
「ですが同じ教育者として菖蒲先生も入江先生と通じる所もあるのではありませんか?」
「え?う~ん……。そうねぇ……」
この話題をきっぱり終わらせてしまうというのも一つの方法だけどそれじゃ根本的解決にはならない。ここで菖蒲先生の愚痴をやめさせるだけじゃまたどこかでその不満が噴出しかねないし、会わない限りはこれ以上不満も増えないとしても両者の関係が改善されることもない。
だったら折角話題に上っているんだからここで菖蒲先生の認識を変えるというか、枸杞に対して持っている感情や印象を良い方向に変えてみても良いんじゃないだろうか?
俺としては若くて綺麗な女教師同士……、まぁ菖蒲先生は教師なわけじゃないけど、が仲良くしてくれる方がうれしい。まだ完全に枸杞が敵ではないと決まったわけじゃないし、先日の俺の家にだけ家庭訪問に来たことも何か怪しいと言えば怪しいんだけど、敵でないのなら菖蒲先生とも仲良くしてもらいたいと思っている。
別に!決して!色気のある大人の女性同士の絡みが見たいとか、女教師二人に可愛がられたいとか、そんな妄想をしているわけじゃない!
「学期の途中からでも教師になろうという気概は買うわよ。普通だったらそんなタイミングで教師になろうなんて中々思わないでしょうしね。……まぁそれが本人の意思で教師になりたかったならだけど」
「あぁ……、そうですね……」
菖蒲先生も暗に枸杞は一条派閥の差し金でやってきたんじゃないかと疑っているというわけだ。別に菖蒲先生は学園での俺の立ち位置とか一条家との確執を知っているわけじゃない。ゲーム『恋に咲く花』で咲耶お嬢様が断罪されることだって知らないだろう。それでも一条門流である高辻家のご令嬢として言われなくともそれくらいは察している。
枸杞があんなタイミングでやってきて俺の担任になるなんて一条派閥からの指示や、少なくとも何らかの思惑があってねじ込まれたと誰でも思うはずだ。向こうだってそれが分かっているはずなのにわざわざ目立つ入江家の娘をねじ込んできてまで何がしたいのか……。
「入江先生が一条派閥の意向に沿ってやってきたのだとしたら一体何が目的でしょうか?学園関係者でない菖蒲先生でも話を聞いただけで怪しいと思われるような状況ですよね?」
「高辻家で一条派閥のことを見てきた身としてはそんなに不思議でもないと思うわよ」
「そうなのですか?」
俺は菖蒲先生の言葉に少し驚いた。
「ええ。一条派閥じゃそれくらい露骨なことでも平気でやる空気だったわ。相手にバレてないと思ってるわけじゃなくてバレてようがお構いなしっていうつもりだったと言えば良いのかしら」
「なるほど……」
これまでも一条派閥の行動は露骨すぎるというか、分かりやすすぎるというか、『相手にバレバレだろうがお構いなし』という行動は確かに多かったように思う。バレてようが相手に効果があれば良いし、追及されようが適当にはぐらかして誤魔化せば良いと思っていそうな節はあった。
今回の件も元一条派閥として過ごしていた菖蒲先生でも枸杞は一条派閥からの回し者だと思われるくらいには疑わしいということだろう。枸杞自身にそこまで露骨な目的や狙いがなかったとしても、一条派閥は何らかの目的や狙いで枸杞を送り込んできた可能性が高い。
「お婆ちゃん、来たよ。あっ!咲耶お姉ちゃん!」
「まぁ!秋桐ちゃん、御機嫌よう」
ドアベルがカランカランと鳴ったかと思うと秋桐がひょっこり顔を覗かせた。こちらに気付くとてててーっと駆け寄ってきて目の前で止まる。昔だったらそのままタックルしてきてくれていたはずなのに、最近は大きくなってきたからかタックルしてくれなくなった。
まぁ秋桐達ももう中等科三年生なわけだし、まだまだ子供とはいえ昔の頃のような子供とはもう違うだろう。これからもっと大人になってきて俺からも離れてしまうんだろうな……。本当なら今でも恋愛とかに興味を持って彼氏とかとデートにでも行っていてもおかしくないわけだし……。
「こんにちは咲耶お姉ちゃん!一緒に座ってもいい?」
「ええ、どうぞ」
隣の席を勧めるとニパッと笑って座ってくれた。この子が彼氏が出来たとか言ってデートに行くなんて……、そんなの絶対に許せない!俺の可愛い天使である秋桐を穢す野郎はどいつだ!ぶっ殺してやる!
「あ~ぁ……。秋桐ちゃんが来ちゃうと咲耶ちゃんを取られちゃうのよねぇ~……。やっぱり若い子には勝てないのかしら?」
「あら?そんなことないわよ菖蒲先生。確かに咲耶ちゃんは秋桐に良くしてくれているけど菖蒲先生のことも大好きよ」
「そうですか?私はむしろ咲耶ちゃんはマスターとかの方が大好きそうに感じてますけどね……」
秋桐の相手ばかりしていると菖蒲先生とマスターが俺が二人を放ってるかのような話をしていた。確かに秋桐が来たら秋桐の相手をしているけど二人のことだって放っているわけじゃない。あと俺は大人の女性である菖蒲先生もマスター……、緋桐さんも大好きだ。
緋桐さんは孫までいるし俺との年齢差から考えてもお婆ちゃんに近いかもしれない。それでもあのおっとり余裕のある母性というか、包容力というか、そういう部分はとても素敵だと思う。何も若い子を相手に性欲を持つことばかりが恋愛でもないだろう。
もちろん緋桐さんには同性と思われているわけだし相手には旦那さんもいるし家庭もある。俺がちょっかいをかけて家庭を壊そうとも思っていない。ただちょっと母性に惹かれるというか、ついつい甘えたくなってしまうというか……。
「先生も気持ちが若いのは良いけどもう少し落ち着いたら咲耶ちゃんもきっとまた違う目で見てくれるわ」
「そうですか?……そうかも!私もマスターみたいな素敵な女性になれるように精進しますね!」
お?菖蒲先生がこれ以上素敵な女性になったら俺も本当に色々と我慢出来なくなってしまいそうだな……。それはとても良いことのはずだけど、俺の欲が暴走してしまわないように俺も気をつけなくちゃな。




