第千百三話「新しい担任は……」
担任が倒れて新しい担任として入江枸杞がやってきてから暫く……、そろそろ四月も終わりが近づいてきた。でも状況は何も好転していない。
これまでの所、入江枸杞は真面目に、普通の教師として振る舞っている。途中からやってきて担任になった割には仕事が整いすぎているような気もするけど、まさか元の弱井先生に何かをして交代するようにしたというわけでもないだろう。
まだ新年度が始まって間もなしだったし、どこか他の学校で教師の経験があれば引継ぎ自体は簡単だったのかもしれない。普通だったらもっと時間をかけて交代したり引き継いだりするのだろうけど、その辺りは要領の良い人なら僅かな期間でどうにかしてしまってもおかしくはない。それよりも問題なのは何故このタイミングで入江枸杞がやってきたのかということだ。
普通に考えたら一条家諸大夫で従三位である入江家の娘がこんなタイミングで藤花学園に、それも俺の担任としてやってくるなんて一条派閥、もしくは西園寺家の意向によるものだろう。でも俺を狙って送り込んできたにしては目立ちすぎる。
そもそも入江家は一条家諸大夫であり、しかも極位極冠は地下家でほぼ最高位格である従三位の位を持っている。このレベルだと堂上家の一番下と変わらない。いや、場合によっては実質的には下位の堂上家を上回っている場合もある。
貴族社会は地位や名誉を重んじるから、実質は下手な堂上家よりも大きな力や財力を持っている『地下官人の棟梁』と呼ばれる押小路家の者が従三位を得ても昇殿を許されず、本来の公卿より格下として扱うという風習はあった。ましてや押小路家よりもさらに下に見られている難波家や入江家ではいくら従三位となってももっと軽く見られていたことだろう。
そんな目立つ一条家諸大夫の入江家を俺の担任につけてきても絶対に警戒されるのはわかっているはずだ。もしそんなことも分からずに安易に考えてスパイとして入江枸杞を送り込んでくるような相手だったらここまで梃子摺っていない。これまでのことから考えても相手もそこまで馬鹿じゃないのは明らかだ。
じゃあ何故そんな馬鹿じゃない相手が、見え見えの入江枸杞なんてスパイを送り込んできたのか?普通に考えたら入江枸杞は目くらまし、囮、他から目を逸らさせるための目立つ餌というところだろう。
一条派閥もしくは西園寺実頼には別の狙いや本命の者がいて、その者を支援するため、たまたま俺のクラスの担任が倒れたのを利用して目立つ餌である入江枸杞を送り込んできた、と考えるのが一番しっくりくる。
さすがに元担任が倒れたのは偶然だろう。まさか担任が倒れるように追い込んだり、もしかしたら何か毒でも盛ったということはないと思う。そこまでしてわざわざ入江枸杞を送り込んでくるくらいなら、最初から枸杞本人を学園に採用させて俺の担任になるように校長や理事長に圧力をかければ済む話だ。
そんなことをしたら枸杞を送り込んだ証拠が残ると思うかもしれないけど、そもそも元担任が倒れて後釜として枸杞を送り込んでいる時点で同じだろう。校長や理事長に入江枸杞を雇って三年三組の担任をさせるように圧力をかけているはずだ。それならこんな時期に担任を倒れさせるよりも、普通に雇わせて普通に担任にさせておいた方が目立たずに済んだ。
だから多分担任が倒れたのは本当に偶然で、その偶然を利用してあえて目立つ入江家の娘を俺の担任になるように持って行った。その結果九条家や俺の目が枸杞に向いている間に何かしらの本命の目的を果たそうとしている……、という可能性が一番高い。
でもそうすると結局何かしようとしていると今の俺のように勘付かれてしまうわけで、それなら下手に枸杞を送り込んで目くらましにするよりも、こっそり本命の目的を進めておいた方が無難だったということになる。
でも俺がそう考えることを見越してあえてこうしたという可能性も云々と考えていくと堂々巡りで無限ループに嵌ってしまう。結局の所分かっていることは入江枸杞は一条家諸大夫で従三位の入江家の娘であり、俺の担任になることは決まったということだけだ。
「咲耶ちゃん何やら考え込まれていますね」
「そろそろパーティーも近いからじゃない?」
「皆はお気楽ですね……。担任の出自から考えれば咲耶ちゃんが悩まれるのも当然でしょう?」
「何よ。じゃあ皐月は何か分かってるわけ?」
「私はもう西園寺家を追い出されてから二年以上も経っているんですよ?分かるわけありません」
「何よそれ。結局分かんないんじゃない」
俺が考え事をしていると皆の話し合いが進んでいたようだ。現実に戻ってきた俺は皆の話に混ぜてもらう。
「それで行き先は決まりましたか?」
「はい。大体は前に決まっていた通りにしようかと」
今は修学旅行の班行動の行き先を決めている。学園からも正式に修学旅行のアナウンスが始まり、班を決めたり、班行動で行く先を決めたりしている所だ。俺達の場合は班はもう校長と理事長に直談判して決まっていたので悩むことはなかった。
本来なら人数の問題やら、クラスを越えた班を作るなんて許されないことかもしれない。でも事前に校長と理事長に伝えて許可は貰ってあったし、藤花学園ではこういう班編成も良くあることなので教職員からも生徒達からも何も言われていない。
班を決める時に伊吹と槐が男子と班を組まないのはおかしいとか言って散々駄々を捏ねていたけど、担任である枸杞が伊吹達にビシッと言って止めてくれたので案外あっさり俺達の班は認められた。この辺りは前の担任だったら出来なかっただろうから枸杞には感謝したい所だ。
班が決まれば次は班行動時の行き先を考える必要がある。俺達以外にも人数やクラスを越えた班も他にもあるかもしれないけど、そもそもクラス単位でバラバラにならず一学年全員が同じ所を同じように回るのでそういう心配はない。
前世だと修学旅行と言っても学年全体が同じ所に行かずに、クラスによってバラバラに行き先が違ったり、することが違ったりするタイミングがあったりしたこともある。今回の藤花学園の修学旅行は海外だからあまり別々に行動すると安全確保が難しいから全員一緒なのかもしれない。
「でも今回の修学旅行は過去に何度も行ったことがあるような所ばかりで……」
「それねー」
「まぁ……、それは止むを得ませんね」
修学旅行なんてベタな定番が多い。そして藤花学園に通っているような子達の家ならば一年のうちに何度も旅行に行く。そうなると定番やベタな行き先なんて何度も行ったことがある子が多いのも当然だろう。中等科の修学旅行もそうだったけど、俺だってグループの皆だって過去に個人的に旅行したことがあるような場所が多い。
完全に同じルートで同じホテルとは限らないけど、似たような所へ行き、近い所に泊まり、同じ観光名所を観てきたことくらいある子の方が多数だ。
「それよりも九条家のパーティーがもうすぐですよね!楽しみです!」
「そうですね。私も楽しみです」
「楽しみにしていただけるのはうれしいですが今は修学旅行の予定を決めましょう」
確かに九条家のパーティーの方が修学旅行より先だけど、今は修学旅行の予定を決めるための時間だ。楽しみにしてくれているのはうれしいけど学園行事を蔑ろにしてはいけない。
「そうですよ。九条様の言われる通りです。今は授業中で修学旅行の予定を決める時間です」
「入江先生……」
丁度俺達の班の所へ回ってきた枸杞がそんなことを言ってきた。それだけなら普通に良い先生のように思える。でも一条家諸大夫である入江家の娘だと思うとどうにも素直に受け取れない。あと何故俺のことを『九条様』と呼ぶのか。担任なんだから『九条さん』くらいに呼ぶべきだろう。
「え~……、入江先生……、今は教師と生徒なのですから様ではなく、せめてさん付けで呼んでください」
「あら、ごめんなさい。つい癖で」
癖で九条様呼びされるほど親しくないはずですけどね?まぁ伊吹や槐にも近衛様、鷹司様と言っているから貴族としての癖という体なのかもしれないけど、どうにも一条派閥の人がやってると思うと何か裏がありそうで警戒してしまう。
無患子のことも警戒しなければならないと思っていたのに、まさかもう片方の関係者である枸杞まで学園にやってくるなんて……、これで無患子が本命でその支援のために枸杞を送り込んできたなんて単純な話ではないと思うけど、今の両者の関係はどうなっているんだろうか?
「入江先生はまだご結婚されておりませんよね?どなたかお付き合いされている男性などが居られるのでしょうか?」
「え?私ですか?やっぱり九条様も年頃の女の子だけあって恋話にご興味がおありですか?」
「え~……、あ~……、ソウデスネ」
いや、恋バナには興味はない。でもそう言うとややこしいというか、じゃあ何故そんなことを聞いたんだということになってしまう。ここは適当に興味はないけどあるような体でいった方が無難だろう。
「私は許婚も婚約者も居ませんし、今お付き合いしている方もいませんよ。入江家の娘なのにこの歳になってもまだ結婚もしていないなんてと思われるかもしれませんけど……」
「いえ、まだご結婚されていないことそのものは良いと思いますよ。私の身の回りにも入江先生より年上でもご結婚されていない上位貴族の方も居られますから」
確かに貴族なら高等科卒業と同時に結婚するような子も珍しくはない。藤花学園大学なら既婚者貴族の子女が通っていることも多いくらいだ。だけど俺の周りには堂上家のお嬢様なのに結婚してない女性も多い。茅さんは卒業したてだからまだ良いとしても菖蒲先生とか椛とかな……。
「そうですか!それは朗報ですね!是非九条様からうちの両親にその話をしてもらいたいくらいです。両親には結婚しろとうるさく言われているんですけど……」
「何か思う所やご心配でもおありですか?例えば表立っては言えない人と将来を誓い合っているとか?」
「いえ、そういうわけではありませんよ。ただ……、まだ親に決められたレール通りに結婚したくないというか……」
ふむ……。今の言葉や仕草からはおかしな点は見当たらなかった。嘘を吐いているとしたら相当な嘘吐きということになる。本当は誰か、そう……、無患子と将来を誓い合っているけど表沙汰に出来ないから黙っているとか、そういう嘘は感じられなかった。
竜胆に聞いた話でも、九条家が行った調査でも、無患子と枸杞が何らかの接点を持っているとか、裏で繋がっているという証拠は見つかっていない。ここまできたら本当にお互い大して知りもしないという可能性が高いかもしれない。
ただゲームのシナリオを知っている俺としてはそのまま黙ってはいそうですかとは納得出来ない。二人が許婚だとか恋仲だとは思わないけど、何らかの繋がりや裏がある可能性はまだ捨て切れないと思う。油断して失敗するくらいなら徒労に終わっても警戒しておくくらいで丁度良い。
「先生、修学旅行の班行動を決める時間だったんじゃなかったんですか?」
「あっ!そうでしたね!それではお邪魔してはいけませんので私は他の班も見てきますね」
薊ちゃんにそう言われた枸杞は俺達の班から離れて他の班をまた見回り始めた。こうして見ていると枸杞が一条派閥や西園寺実頼から命令されて行動しているようには見えない。一見して普通の良い先生のように思える。
「皐月ちゃんが西園寺家に居た頃は西園寺家と入江家はどのような関係だったのでしょうか?」
「そうですね……。特にこれといって表立った接点はなかったように思います。もちろん私の知らない所でお爺様が何かされていた可能性はありますが、頻繁に家に訪ねてくるということもなかったと思いますし、一条派閥の集まりやパーティーで顔を合わせれば挨拶をするくらいではないでしょうか」
「そうですか……。ありがとうございます」
まぁ悪巧みをするのに孫にまでバレバレの形でこれみよがしに密談をしたりするとは思えない。本当に裏で繋がっていて悪巧みをしたり、手足の如くこき使っていたのなら見えない形でしていたことだろう。だけどまったく何の痕跡の残さずに気付かれないというのも無理な話だ。
たまに家に来ている所を見たことがあるとか、電話をしている所を聞いたことがあるとか、一緒に生活していれば何かあるはずだろう。それらが特になかったということはもしかしたら本当に西園寺家と入江家にはそれほど親しい関係や、命令をやり取りするような主従はなかったのかもしれない。
それにしては何もないのにこんなタイミングで入江枸杞が俺達の担任としてやってくるのは出来すぎているし、何度考えても同じ所で無限ループしてしまう。
まぁ……、これ以上こちらで考えるだけじゃ答えは出ないわけだし、一先ず調査が進むまでは保留にして今は九条家のパーティーと修学旅行について出来ることから処理していこうか。




