第千九十七話「契約結婚」
昨日は何か凄い一日だったような気がする。結局躑躅は俺を呼び出して何が言いたかったのかわからないままだったし、その後は朝顔、杏、そして後から茅さんというお姉さん達にチヤホヤされて良い気分になってしまったし、新年度が始まってから怒涛の展開すぎる。
まぁJD二人と茅さんという大人のお姉さん三人にチヤホヤされながらカフェでお茶を楽しんだのはとても良かったんだけど、それにしてもたった二日しか経っていないのに内容が濃すぎる。
「いってらっしゃいませ咲耶様」
「いってらっしゃいませ咲耶お嬢様」
「いってまいります」
椛と柚に見送られて三日目が始まる。今日こそは平穏に過ごしたいなぁ……。
「御機嫌よう」
「「「「「きゃーーーっ!咲耶お姉様ぁーーーっ!!!」」」」」
「御機嫌よう咲耶お姉様!」
「咲耶お姉様おはようございますぅ!」
何か新年度になってからこの行列の子達からお姉様と呼ばれている頻度が上がっている気がする。まぁ俺は三年生になったわけで、高等科には同級生か下級生しかいない。これまでだったら上級生も居たから俺より上の人も居たのに、自分自身が最上級生になったからその割合が変化した結果……、なのかな?
「御機嫌よう、西村様、赤尾様」
「御機嫌よう九条様」
「おはようございます!」
今日も先頭付近に立っている三つ葉と南天にも声をかけた。初日には春休みのマナー講習の話を少ししたけど、日頃はあまり接点のない二人と共通の話題というのはあまりない。可愛い女の子達とは仲良くしたいけどあまり下手に会話すると俺がボロを出しかねないしな……。
簡単な挨拶だけで行列を通り抜けた俺は三年三組の教室へとやってきた。前年度までだったら階段辺りで令法が出てくるかもしれないと思ってストレスを感じていたけど、その心配がなくなっただけでも校舎内を歩くのが気楽になった。やっぱりあれは結構なストレスだったようだ。
「御機嫌よう」
「おはようございます咲耶様!」
「御機嫌よう咲耶ちゃん」
「おはよー!」
「咲耶ちゃんおはようございます」
「あら?今朝も皆さん揃っておられるのですね?」
俺が教室に入ると紫苑以外のメンバーが既に揃っていた。新年度になってから皆も朝早くに登校することにしたのかな?
「修学旅行に向けて話し合ってるんです!」
「まぁ……。もう修学旅行のお話ですか?」
確かに俺達の修学旅行は三年の一学期に行われる。だけどまだ学園側から何も説明すらされていないのに皆はもう修学旅行の話をするために集まっているらしい。修学旅行が楽しみで浮かれる気持ちもわからなくはないけど、さすがに今から話そうと思っても何も決められないと思うんだけどな……。
「私達の場合はどうやって咲耶様を堪能するかという話な……、ふぐぅっ!?」
「シッ!薊!余計なことを言わない!」
「そうですよ!咲耶ちゃんが警戒してしまっては失敗してしまいます!」
「えっと……、それ、薊ちゃん大丈夫ですか?」
「…………」
薊ちゃんが何か言いかけていたけど皆に口を塞がれてしまった。それは良いけど何か薊ちゃんぐったりしてない?っていうか皆口だけじゃなくて鼻まで塞いでしまってない?
「大丈夫ですよ。ハッ!」
「かはっ!?」
皐月ちゃんが薊ちゃんの背中に回って手をつくと薊ちゃんは目を覚ましたようだった。これはもしかしてこういう寸劇だったのかな?
~~~~~~~
「おい咲耶!この書類にサインしろ!」
「はぁ?」
皆と話していると伊吹がやってきてそんなことを言った。一応差し出された書類に軽く目を通す。
「……お断りいたします」
「何故だ!」
『何故だ!』じゃない。誰がこんな書類にサインするか。伊吹が持ってきた書類は契約書だった。俺が伊吹と結婚するという契約内容だ。これにサインしたからといって未成年の俺達の契約なんて無効だと言えるかもしれない。でも面倒なことになるのは目に見えている。
そもそもそんなつもりもないのに何故伊吹と結婚する契約を結ばなければならないのか。そこからして間違っているだろう。
「私には近衛様と婚約も結婚もする意思はありません。それなのに何故近衛様との結婚に関する契約を結ばなければならないのでしょうか?」
「咲耶がまだ俺様のことを愛していなくても結婚出来るようにこの契約書を作ってやったんだ!だからサインすれば良いんだ!」
「はぁ……」
こいつの相手は疲れる……。確かにこの契約書には色々と俺に譲歩している『つもり』らしい項目はある。
例えば結婚しても俺が望まなければ肉体関係を結ばなくて良いとか、結婚後も別居を認めるとか、つまり俺が伊吹との結婚生活を望まないのならばあくまで戸籍上だけの仮面夫婦として過ごしても良いというような感じだ。それを事細かに書式を整えて書いてある。
恐らくこれを作ったのは伊吹の案じゃなくて誰か近衛家の法律関係に関わっている者だろう。その人が必死に考えてどうにか俺が妥協出来そうなラインを伊吹に説明しながら説得して作り上げたに違いない。
俺がどうしても伊吹と結婚しなければならないのならばこれに飛びついただろう。これは恋愛結婚やお見合い結婚というちゃんとした形ではなく、とりあえず契約上結婚するというものだ。少なくとも契約上は俺が同意しない限り例え夫婦になっても体を許す必要がないというのも大きい。
だけど俺からしたら別にどうしても伊吹と結婚しなければならない理由はないわけで、この契約に飛びついてサインを急ぐ必要はない。むしろうちの両親はもう俺に無理に婚約しろとか結婚しろと言ってきていない。もしかしたらもう俺が普通に男と結婚することは諦めているんじゃないかとすら思える。
どうしても政略結婚しなければならず、その相手の最有力候補が伊吹だというのなら俺も焦ってこの契約にサインしたかもしれない。でもその心配がない今はこんな馬鹿げた契約結婚に同意するはずがないだろう。
「私には近衛様と結婚する意志はありません。それなのにどうしてこのような契約を結ばなければならないのでしょうか?」
「これは俺様からの譲歩だぞ!こんな譲歩はもう二度とないぞ!どうせ咲耶は俺様のことが好きになるんだ!今のうちにここでサインをしておいた方が良いだろう!」
う~ん……。何か詐欺の常套句みたいなことを言っているな……。
そもそも未成年の俺達が親の合意なしに契約を結んでも無効だとか、そういう問題もあるんだけど……、何より疑問なのはどうして俺が伊吹のことを好きになると思い込んでいるのかわからないという点だ。
そりゃゲーム『恋に咲く花』の九条咲耶お嬢様は伊吹のことが好きだったのかもしれない。それが本当に恋愛感情だったのか、ただ『九条家と近衛家の繋がりが欲しかったから』なのか、全校生徒の憧れだった『俺様王子』と結ばれる自分が特別だと思いたかったのかはわからない。
ただ一つ言えることは確かにゲーム内では咲耶お嬢様は伊吹との結婚に拘っていた。でもそれはゲームの咲耶お嬢様であって俺じゃない。俺はこの世界で一度も伊吹と婚約したいとか結婚したいと言ったこともないはずだ。それなのに伊吹はどうして俺がいつかそう思うと思っているのか。それがわからない。
「私はこれまで近衛様に対して恋愛感情を抱いたこともなければ今後抱くこともありません」
「「「「「…………」」」」」
教室内でそう言い切ったことで辺りは静まり返ってしまった。これだけ大勢の前ではっきり言ったんだからもう俺はその言葉をなかったことにすることは出来ない。でもそれでいい。もう疲れた。なるべくやんわり断ろうとか、九条家と近衛家の間が険悪にならないように配慮しようとか全部無駄だ。
いくらこちらがそう思って気を回してやっても向こうはそれに気付かないどころか悪用までしてくる。だったらこっちももうはっきり言うしかない。ここまで周囲に九条家と近衛家が決裂していると知らしめるのは本来大きな損失だろう。俺と伊吹が結婚しないとしてももっとやんわりとした形で否定していけば双方にとって最上だったはずだ。それを壊したのは伊吹の方に他ならない。
「こっ……」
「こ?」
「これまではそうだったかもしれない!でもこれからもないなんて言い切れないだろ!」
「え~……」
伊吹の叫びに俺はどうしたものかと思った。ここで徹底的にはっきりさせてしまうのか。それともこれ以上は関係が悪化しないようにまた配慮してやるのか。九条家と近衛家のことを思えばやんわりにしておいた方が良いんだろうけど……。
「近衛様はご自身がそのように振る舞われていて女性に好かれるとお思いですか?今の近衛様を見て地位や権力やお金目当て以外に誰かついてきてくれると本気でお思いですか?それがわからない限りはこれからもないと言い切れます」
「「「「「…………」」」」」
何か居た堪れない空気だなぁ……。俺がきっぱり言い切ったせいだけど、はっきり言わないとまた同じことの繰り返しになるしなぁ……。
「ほらみろ!じゃあやっぱり言い切れないんじゃないか!俺様が変われば変わるということだろう!」
「あ~……、そういう風に解釈されてしまいましたか……」
違うんだよなぁ……。もうお前がこれからその性格が変わるとか態度を改めるという可能性は皆無なんだよ。これがまだ初等科低学年の頃だったら伊吹も変わる可能性があると思えたかもしれない。でもこの歳になるまで変われなかった奴が今更急に変わるわけがない。三つ子の魂百までという言葉があるのには相応に理由と歴史がある。
「これから俺様は生まれ変わる!だから待ってろ咲耶!絶対に俺様のことを好きにさせてやる!」
「いや……、あの……」
それだけ言うと伊吹は俺の話も聞かずに教室を出て行ってしまった。クラスメイト達もポカンとしている。この空気どうするつもりだ?
~~~~~~~
はぁ……。本当に伊吹や槐と同じクラスになって最悪だ。今日も伊吹があんなことをしたせいでクラスの空気が悪くなっていた。いずれ槐も何かしてくるかもしれない。あのコンビは咲耶お嬢様を破滅させる諸悪の根源だからな。槐だけこのまま何もしないなんてあるはずもない。
「こんにちは咲耶様!」
「……御機嫌よう澤様」
放課後に廊下を歩いていると人が大勢いる場所で令法が話しかけてきた。私服姿でいかにも大学生という感じだ。まぁ実際に隣の大学に通ってる大学生なんだけど……。
いくら隣の大学とフリーパスで繋がっているといっても大学生が高等科の校舎に勝手に入ってくるんじゃないよ。茅さんのように卒業生なのに来るよりはマシなんだろうけど、それでも大学生がホイホイ来るものじゃないだろう。朝顔とか杏も昨日来たけどな。そして多分今日も来るんだろうけどな。
「澤様、私の名前を呼ぶことを許した覚えはありませんが?どういうつもりで名前で呼ばれているのでしょうか?」
俺は令法を睨みながらそう言った。親しい関係でもない男女が名前呼びを許したわけでもないのに名前で呼び合うのはおかしいだろう。逆に何も注意しなければ名前で呼ぶことを許している間柄ということになってしまう。そんなことを許すわけにはいかない。
「そんな……、酷いじゃないですか咲耶様。僕が卒業するまでは男女の仲だったじゃありませんか。卒業したらもう僕との関係はなかったことにしようとされているんですか?」
はぁ……。本当に面倒臭い。ようやく令法も卒業して縁が切れると思ったのに、こうしてわざわざ高等科にやってきてまでこんな嫌がらせをしてくるなんて……。
「そのような出鱈目を広めようとされるということがどういう結果に繋がるか分かった上でされているのでしょうか?私と澤様の間には九条門流の堂上家という以上の関係はありません。何が目的でそのような嘘を吐かれているのですか?」
「酷いです咲耶様……。僕達はあんなに愛し合ったじゃないですか」
駄目だ。まるで話が通じない。令法は伊吹のように本当に思い込みが激しくて話が通じないわけじゃない。本当はわかっているのに引っ掻き回す目的でわざととぼけたフリをしてこう言っている。こういう輩が一番厄介だ。
本当に分かっていなかったり思い込みが激しいのなら説明や説得のしようもあるかもしれない。でも本当は分かっているのに分かった上でわざとやっている相手には説明も説得も意味をなさない。この手の手合いを相手にすると無駄に疲れるだけで何も好転しないと相場が決まっている。
「澤様と特別な関係にあったことは一度たりともありません。あまり出鱈目なことばかり言い触らされるようですとこちらも相応の対応をしなければならなくなりますよ」
「僕達の関係を否定するだけに飽き足らず澤家を脅そうと言われるんですね……。僕はまだこんなにも咲耶様のことを愛しているのに……。悲しいです……」
「「「「「…………」」」」」
まずいな……。放課後の廊下とはいえ段々と人が集まってきている。ギャラリー達も固唾を飲んで俺達の様子を見ているし、ここは下手な対応をすればまずいかもしれない。どうにかしたいけど一体どうすれば良いんだ?




