第百六話「伊吹の疑惑」
どうにも気持ちがすっきりしない……。あれから……、近衛家に乗り込んでから数日が経っている。
相変わらず椛は何も言わず、ただ前までと同じように俺に仕えている……。その様子に変わった所はなく、特に何か言うわけでもなく……、平然と……。
モヤモヤしてすっきりしない。兄と付き合っているのならそう言ってくれたらいいじゃないか。兄のパートナーがいなかったから務めただけだというならそう言ってくれたらいいじゃないか。それなのに何故何も言ってくれない?
近衛家から戻ってきた母には伊吹との『許婚候補』はそのままにしておけと言われた。あくまで近衛家側が勝手に決めた『許婚候補』でしかないのだから俺がとやかく言う必要はない、ということらしい。
そんなもので納得出来るか?世の中の……、学園の皆はもう俺と伊吹は婚約してるくらいに考えている。咲耶お嬢様グループの皆はそんな風に思ってないけど、それは俺が伊吹のことを嫌っていると察しているからだ。
口ではっきりとは言っていないけど、咲耶お嬢様グループは皆全体的に伊吹に好意的じゃない。それは俺が伊吹のことを嫌いだからか、伊吹と接触する機会が多いからその本性を知って嫌いになったのかはわからない。ただ俺の周りは皆伊吹を好意的には思っていない。
でも俺と話したこともないような学園の生徒達はそんなこと知らないだろう。ただ鷹司家のパーティーでそう公表されたから相当話し合いが進んでるんだろうなと、勝手にそう解釈しているだけだ。
否定したい。否定した方がいいと思う。
もしこのまま放っていたら……、ゲームの『恋花』と同じ結末になりかねない。それにアンチ咲耶お嬢様が勢いづいてしまう。
今否定して、許婚の話がなかったことになれば近衛家の面子は潰れるだろう。大々的に発表したと思ったら相手に断られました、じゃ面目丸つぶれだ。その代わりポスターに悪戯したような者達は俺、いや、咲耶お嬢様のアンチをする理由もなくなるだろう。伊吹を奪われたと思ってあんな行動をしたのなら伊吹との関係が解消されたとなれば俺を狙う理由もなくなる。
でも……、そう簡単でもないかもしれない。こちらから許婚候補を解消させたとあっては、『伊吹を振った』ということで今度は狙われるかもしれない。伊吹に恥をかかせた、伊吹の面子を潰した、と逆恨みされる可能性もある。
じゃあ向こうから解消してもらうか?どうやって?近衛母は一条牽制のために必要なことだと言っていた。俺が子供の感情として解消をお願いしても聞いてもらえないのは前の通りだ。
後から帰ってきた母も近衛母に同調するようなことを言っていた。二人でどんな話し合いが行なわれたのかは知らないけど、大人の政治判断としてはこのまま近衛・九条連合という形を見せつけておきたいということだろう。
伊吹に嫌われようと思っても難しい。あのドMは俺がいくら追い払ってもやってくる。冷たくすればするほど付き纏ってくる。あれこそストーカーじゃないのか?
…………いや、待てよ?
もしかして……、まさか……、今何気なく言ったけど……、伊吹ってドMなんじゃ?
ゲームの『俺様王子』近衛伊吹は唯我独尊の俺様系王子だ。勉強もスポーツも何でも出来て欠点がない。女子達には常にキャーキャーと黄色い声援を送られて、男子達は全て子分のように付き従う。他校の不良と喧嘩しても一人で無双する。
ゲームでの咲耶お嬢様はそんな伊吹の追っかけの一人だ。確か……、公表されている公式設定では初等科に入学してから二人は出会って、咲耶お嬢様が伊吹にベタ惚れで追っかけまわし、許婚候補を名乗り、実際に近衛家と九条家で話し合いが行なわれている。
近衛財閥と九条グループの合併・統合も視野に話し合いが進められて、高等科入学の頃はもう周囲は完全に伊吹と咲耶お嬢様は結婚するものだと思い込んでいる。
でも実際には伊吹は咲耶お嬢様のことを好きでも何でもなく、それどころか嫌いで常に冷たくあしらっている。それでも伊吹に尽くす咲耶お嬢様だけど、ゲームで高等科に入って主人公が入学してくることから運命が変わってしまう。
常に周囲からチヤホヤされる伊吹に対して主人公は普通に、ただの一個人として接する。そんな主人公に興味を持った伊吹は次第に主人公に惹かれて……、最後は邪魔になった咲耶お嬢様を始末するために九条家を破滅させる。
その徹底振りは異常なほどで、主人公が伊吹ルート以外にいったとしてもわざわざ関係ない所にまで出てきて必ず咲耶お嬢様と九条家を破滅させるくらいだ。
ゲームをプレイしていた身としては主人公が伊吹ルートに行ったとしても、いや、ともかく主人公と伊吹の接触について特に何も思わなかった。だけど……、もし……、伊吹がドMだったとしたら……。
チヤホヤしてくる周囲は伊吹にとって興味がない。それどころかひたすらストレスで鬱陶しいだけの存在じゃないだろうか?
それに比べて主人公はあくまで普通に接してくる。ゲームを主人公サイドから見ればそれはチヤホヤされていた伊吹が、普通に接してくる主人公に興味を持つってことになるけど……。
もし……、もし万が一……、伊吹がドMだった場合……、主人公の接し方は周囲に比べて冷たいと感じたんじゃないか?そうだよな?いつも周囲はチヤホヤしてくるのが当たり前だった。そんな中で主人公はあくまで普通に接してくる。それは伊吹にとってはとても冷たくされていると思ったんじゃないだろうか?
つまり……、伊吹にとっては……、ドMにとっては主人公の普通に接してくる対応だけでも冷たく感じてしまった。気持ちよくなってしまった……。
だとすれば……、俺が伊吹を冷たくあしらったり、投げ飛ばしたり、殴り飛ばしたり、言葉で罵ったりしていたのは……、全て伊吹を気持ちよくしていただけなんじゃ……?
「うぅっ!」
想像しただけでブルブルと背中に悪寒が走る。
じゃあ……、俺の行動は全て裏目だったんじゃないのか?もし……、もしそうだとすれば……。どうすればいい?今から優しくするか?伊吹の追っかけになるか?
…………駄目だ。伊吹だって最初に主人公に興味を持つのは普通に接されたことでだけど、途中からは主人公とも普通にラブラブになってくる。興味を持たれた後で優しくしても手遅れだ。むしろ一層仲が進展してしまう。
いや……。待て。落ち着け。まだ伊吹がそうだと決まったわけじゃない。もしかしてそうなのかなと思っただけだ。俺の妄想だ。根拠は何もない。まずは……、そう、まずは確認だ。
許婚候補解消のためにも、どちらにしろ俺は伊吹のことを知らなければならない。どうすれば許婚候補をやめさせられるのか。伊吹に嫌われるのか。そのためにもまずは敵を知る必要がある。
しかもただ嫌われるだけじゃ駄目だ。やりすぎて逆恨みされて結局破滅させられたんじゃ意味がない。あくまで自然に……、さりげなく……。
理想は……、伊吹に他の好きな相手を作らせて、そっちに興味を持っていかせることだ。そして俺から許婚候補解消を持ち出せば断る理由はなくなる。
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サロンでさりげなく伊吹の観察をしてみる。あれ以来茅さんは伊吹を消そうと狙っているのか、物凄い形相で睨んでいることが多々ある。
「茅さん……、近衛様などを消して茅さんが罪を背負われては私は悲しいです。いずれ近衛様との許婚候補の話もなくなりますので先走った事はしないでくださいね?」
「うぅ~~~っ!うううぅ~~~~~っ!」
俺にそう言われて茅さんはソワソワしながら伊吹を睨みつけていた。今にもハンカチを噛みそうな雰囲気だ。
伊吹を始末して茅さんが捕まるなんてことになったら俺は悲しい。何度もそう言ったら一応抑えてくれるようにはなっている。あれ以来手も出していないようだし、案外落ち着いているのかもしれない。時々こう言っておけば馬鹿な真似はしないだろう。
それより問題は伊吹だな……。
やっぱりサロンでも皆にチヤホヤされている。そりゃ集まってるのは近衛門流の者ばかりだから当たり前と言えば当たり前だけど……。
そう言えばゲームでは伊吹に意見出来るのは母親か槐だけという設定だったな。こちらではそれに加えて水木にも頭が上がらないような様子ではある。
伊吹がドMだから自分にも構わず意見してくる水木や槐を信頼しているのか?気持ちよくなっちゃうのか?俺はそんな性癖がないからいまいち伊吹の考えていることがわからない。
「やっ!咲耶ちゃん。伊吹に興味があるのかな?」
「広幡様……」
ちょっと露骨に見すぎだったか……。水木がやってきて余計なことを言ってきた。まぁある意味においては興味があるというか、観察しているというのは本当だけど……。いっそ水木に伊吹の性癖について聞いてみるか?
でもなぁ……。何て聞くんだよ?伊吹はドMですか?って聞くのか?殴られたら気持ちよくなっちゃうんですか?って聞くのか?そんなの聞けるわけがない。
あっ!そうだ!それならもう一つ……。
「広幡様は近衛様に後ろを狙われたりしているのですか?」
「……え?」
「あ……」
間違えた……。何か変な感じになってしまったぞ……。もうちょっと考えてから質問すればよかった。
でもこれも何て聞くんだよ?伊吹に尻を狙われてますか?とか聞くのか?聞けるわけがないだろ?ちょっとは常識的に考えろよ。じゃあ何と聞くのか?伊吹はBLですか?槐とあやしい関係ですか?
だめだ……。思い浮かばん……。
というか今はそれよりもこの変な質問をどうやって誤魔化すかだ。もっと自然に、それとわからないように聞きたかったのにあまりにストレートに聞いてしまった。これはやばい。
「あっ……、あ~……。あれかな……?うん……。確かに普段は伊吹とお手合わせしているからね」
「えっ!?」
「ん?」
おい……、おいおい……。こいつ堂々と宣言しちゃったぞ……。普段伊吹とそういうことをしているのか!?しかもこんな場でも堂々と宣言するとは……。
やっぱり……、伊吹はBLなんだ……。そうか……。そうだよな。女性は男キャラ同士の絡みが大好きだ。いや、俺の個人的な偏見だけどね?でもそういう男のカップリングを作って喜んでるよな?腐っている……、というやつか?
ここは乙女ゲーが基本になっている世界だ。ということはそういう女性の好みが反映されている可能性が高い。つまり伊吹は水木や槐とそういう仲である……、ということだな……。しかも堂々と言い放てるほどの関係……。あるいは近衛門流では当たり前なのか?
「もしかして……、それは近衛門流において公然の秘密というものなのでしょうか?」
「咲耶ちゃんは難しい言葉を知ってるね。まぁ……、広幡家は代々そういう家系だから」
「えっ!?」
「ん?」
代々そういう家系!?え?え?寝所を守ると言いながら一緒に寝ちゃうような?そういう家系みたいな?そんなのがあるのか?
そうかぁ……。伊吹はそっち系で、水木や槐とそういう関係ということか……。前も近衛家に行った時に当たり前のように二人で服を肌蹴させて抱き合っていたもんな……。そうかぁ……。
じゃあ何で俺と許婚候補なんて……。
あれか?男も女もイケちゃうタイプなのか?どっちもオッケーみたいな?あっ……。そう言えば男同士なら当然どちらかが攻める方でどちらかが攻められる方だよな?ということは……、伊吹は攻められるのがお好き!?だから槐の時も下になっていた……。
全て……、辻褄が合う!?
そうか……。伊吹はBLでドMなんだ。だから受けなんだ。しかも男女どっちもイケるとか最低だな。
ということは……、俺が性格が男っぽくて伊吹をビシバシ攻めるから、伊吹にとっては理想のいじめてくれる相手に見えたということか?
どうしよう……。どうしたらいいんだ?何か……、何とかこの変態性癖の残念王子から逃れる術はないか?
理想は誰かに押し付けることだ。その相手が伊吹と結ばれることを望んでいたらなお良し。とはいえ作り上げられた幻想の俺様王子に憧れる女子は多いだろうけど、この変態残念王子の本性を知ってまで追っかけてくれる相手がいるかなぁ……。
あっ!それにこの前は茅さんが伊吹を滅茶苦茶にしちゃったな。やばいんじゃないか?伊吹の興味が茅さんにいってしまうのでは?
他の子に流れるのなら勝手に伊吹と付き合ってくれればいいけど、茅さんは駄目だ。茅さんが取られたら嫌だからという俺の感情の問題じゃない。茅さんなら本当に伊吹を昇天させかねない。それはまずい。
「茅さん!茅さんは近衛様のことを異性として意識しておられますか?」
「はっ?あんなゴミのことをですか?そんなこと有りえません」
うわぁ……。茅さんの伊吹をゴミとか虫けらを見るような目よ……。これは本気で言ってそうで怖い……。
とりあえず茅さんの方には伊吹に興味はないようでよかった。後は伊吹の方が茅さんをいじめてくれる人だと思って寄り付かないようにしなければな……。
「茅さん。もし茅さんが近衛様に狙われるようなことがあったら私に言ってください!私が何とかしますから!」
茅さんのことを女王様と思って寄り付かれたら大変だ。俺で止められるかはわからないけど、茅さんが伊吹を始末することだけは避けなければ……。
「あぁ!咲耶ちゃん!お姉さんのことを心配してくれているのね!でも大丈夫よ!お姉さんはそんな簡単にやられないから!でもありがとう!大好きよ咲耶ちゃん!」
何故か茅さんに抱きつかれてしまった。まぁ……、茅さんが伊吹を始末することさえなければそれでいいか……。