第百五話「密談」
家に帰った俺は母に頼み事をする。このままじゃまずい。何がまずいってそのうち本当に茅さんが暴走しかねない。ゆっくりしている時間はないと思う。
「お母様!近衛様にアポイントメントを取っていただけませんか?」
俺は近衛母にいきなり連絡する手段を持っていない。電話番号も知らないし、そもそも俺がいきなり近衛母に連絡しても取りついでもらえるかどうか……。それに比べて母なら近衛母とも接点はあるだろうし、アポイントメントも取れるはずだ。
「……用件は何ですか?」
お茶を啜りながら静かにそう問い返してくる母を真っ直ぐに見詰める。
「近衛様との許婚候補解消に向けてお話をしたいと思っています」
本来『許婚候補』なら解消というのはおかしい。これは近衛家が伊吹の許婚を決めるにあたって、許婚の候補に誰を選び、今後話し合いをしていくかを、近衛家が一方的に決めているだけのことだ。
許婚候補にされたからといって、結婚しなければならないわけではないどころか、そもそも話し合いに応じる筋合いもない。婚約や許婚が決定した、ということと、近衛家が話し合う相手として許婚候補に決定した、というのでは根本的に次元の違う話だ。
でもそれを大々的に公表された周囲は、近衛家ほどの家がここまで大々的に公表するのだからもう話はそれなりに進んでいる、合意間近だろう、と受け取る。まったく相手に打診もしていない状況であれほど大々的に公表するはずがないと判断されてしまっている。そして恐らく近衛母の狙いもそうだ。
婚約が決まった、許婚になった、と言えば嘘になる。九条家もすぐにあの場で抗議しただろう。でも近衛家が婚約の話をする相手として九条咲耶を選び、これから話し合いをします、と宣言しただけではこちらが口を出すのはおかしい。
こちらに何の相談もなしに公表されたことを不快に思っても、抗議したり訂正を求めたりすることじゃない。
だけど……、このままなし崩しで放っていたら大変なことになる。実際今日は伊吹もかなり危なかったし、俺だってゲームの『恋花』と同じ結末は避けたい。許婚候補宣言を撤回してもらわなければ……。
「わかりました。良いでしょう。今から出掛けます。ついてきなさい」
「え?あっ……、はい!」
学園の荷物を置いた俺は準備を整えて母と一緒に車に乗り込んだのだった。
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どうやら母も近衛家と話し合いをするつもりだったようで、すでにアポは取っていたようだ。そこに俺も便乗させてもらう形で一緒にやってきた。本人も居た方がいいだろう。本人が嫌がっているのに無理やり結婚させても良いことは何もない。
まぁ……、普通の家庭ならそう思うだろうけど、政略結婚が当たり前のこの界隈では本人の意思だの、好いた惚れたは二の次だしな……。俺が伊吹と結婚したくないからという理由だけで許婚候補を解消出来るかと言えば難しい所だろう。
「いらっしゃい咲耶ちゃん!」
「御機嫌よう近衛様……」
満面の笑顔で迎えられたけどこちらは喜べない。むしろ母辺りは冷ややかな反応をしている気がする。ちょっと怖いくらいだ。
近衛母に通されて前と同じリビングで話をする。といってもこちらが用件を切り出す前に近衛母の方から仕掛けてきた。
「何の御用かしら?と言いたいところだけど用件はわかっているわ。先日の許婚候補の話でしょう?」
「はい……」
この時期に突然訪ねてきて他に用件があるとは思えないだろう。普通に考えれば誰でも同じ結論に行き着く。そしてそれは正しい。
「先に言っておくけど私は解消も撤回もするつもりはないから。それは理解しておいて頂戴」
「えっ……」
こちらの話を聞くこともなくいきなり断固拒否か?近衛母は一体どうしてしまったんだ。何故ここまで強引な手段に打って出る?とてもじゃないけど冷静で豪胆な近衛母の手法とは思えない。そうしなければならない何かがあるということか?
「それでは……、何故このような強引な手法で……。九条家と確執が出来る可能性はご理解されておられたはずでしょう?」
「そうね……。まぁ……、ギリギリまで周囲に知られないため……、かしら?近衛と九条様が会談しているなんて話が流れるだけでも色々と噂が流れてしまう家同士だから」
近衛母の言っていることはわかる。ちょっと会食に出掛けただけでもあれこれ調べられ、噂にされるのが五北家というものだ。わかりやすく言えば有名俳優とか売れっ子アイドルと週刊誌の記者という感じだろうか。プライベートまで勝手に後をつけまくって、あることないこと推測で、いや、記者の妄想で書き殴るのと同じことだ。
五北家はその一挙手一投足ですら全て注目されてしまう。誰かと会えばそれだけで何か密談かと邪推される。ましてや近衛と九条が頻繁に会っているなんてことになったら絶対大騒ぎだろう。それはわかるけど、それは俺の質問の答えになっていない。
「何のためにあのようなことをされたのですか?あれでは全員が不幸になるだけです」
近衛母がのらりくらりと話を逸らさないように、もうはっきりと聞く。これなら話は逸らせないだろう。
「本音と建前どちらから聞きたいかしら?」
「…………は?」
悪戯っぽく微笑む近衛母の言葉の意味が理解出来ずに固まった。いや……、いやいや……、普通相手にそれを聞きますか?そもそも建前なんて聞きたくないだろ?本音が聞ければ十分だ。
「ふふっ。建前なんて聞いても仕方がない。そんな顔ね。それじゃ建前からお話しましょう」
おい……。俺に聞いておきながら勝手に決めるなら最初から聞くなよ……。しかも建前から話すって……。
「不意打ち気味に伊吹と咲耶ちゃんの許婚候補宣言をしたのは敵を牽制するためよ」
「…………敵?」
敵って何だ?『恋に咲く花』はただの女性向け恋愛ゲーム。所謂乙女ゲームであって戦闘要素とかは一切ない。敵なんて……、いると言えばいるけど……。それはつまりどの攻略対象に進んでも必ず出てくるライバル令嬢達のことか?
ライバル令嬢は咲耶お嬢様を含めて数名いる。咲耶お嬢様はどのルートに行っても大体絡んでくる女性プレイヤーには嫌われている悪役令嬢だけど、当然それ以外にも攻略対象それぞれにそれなりのシナリオや登場キャラクターが用意されている。
もし『恋に咲く花』で『敵』なんて言葉が出てくるとしたらライバル令嬢達くらいしかいないはずだけど……。
「もうわかっていると思うからはっきり言うわね。咲耶ちゃんは一条家に狙われているわ」
「――ッ!?」
近衛母の言葉に体がビクリと動く……。桑原桂や洞院青木の件……。あれは明らかに一条家の差し金だろう。それくらいは俺にもわかっていた。わかっていたけど……、わかりたくなかったんだ……。
ただあいつらの暴走なだけだってどこかで思いたかった。だって……、一条家と揉めるってことは椛も……。
だから俺は一条家の差し金だってわかっていながら何も対処せず、何も行動しなかった。もちろんまだあれから何もされていない。でも敵がわかっているのならそれに対処しておくべきだろう。俺はそれを先延ばしにしている。
それに比べて近衛母は敵が動いてくる前に次に備えようとしていると……、そういうことだろう。
問題なのは一条家が俺を狙っているかどうかは知らないけど、仮にそれが本当だったとして何故俺を狙うのか。相手の理由や目的がわからないと対処のしようもない。そしてそれがわかったとして何故俺と伊吹が許婚候補になることが関係あるのか。
「九条家と一条家には確執があるわ。咲耶ちゃんが狙われているのはそこからの切り崩しを狙って……、一番狙いやすい所を狙われているから……、ってところかしらね」
つまり……、俺が一番弱くて狙いやすい九条家のウィークポイントだから……?
「咲耶ちゃんをうちの伊吹の許婚のようにするのは一条家を牽制するためよ。咲耶ちゃんが九条家のみならず近衛家からも庇護されているとなればそう簡単には手出し出来ないはずよ」
「それは……」
そう言われたら俺は強く反論出来ない……。俺を守るためにわざわざそんなことをしてくれているのだと言われたら、文句を言うのは筋違いのような気さえしてしまう。
「それで本音は?」
「それは咲耶ちゃんがうちに嫁入りして欲しいからよ!今はまだ伊吹とうまくいっていないようだけど、こうして許婚候補として話しているうちに徐々に打ち解けたりして……、ね?咲耶ちゃん!うちに嫁いできなさい。そうすれば一条なんかに手出しさせないわよ!」
いやどす。
とは言えないのが悲しい所だな……。伊吹との結婚はお断りだと何度もはっきり言っている。でも相手がそれに向かって努力することを俺がやめろとは言えない。結婚は断れるけど……、結婚してもらおうと相手が努力していることまで俺がとやかく言うのはおかしいだろう。
「……咲耶、貴女は先に帰っていなさい。私は近衛様とお話があります」
「…………はい」
俺にも色々言いたいことはあったけど……、母の視線と圧力を受けて引き下がるしかなかった。俺はすごすごと下がる。
俺の意思は伝えてある。伊吹と結婚するつもりはない。許婚候補宣言も撤回して欲しい。それは伝えた。それでも近衛母は一条を牽制するために近衛と九条の結束を示す方が良いと言った。それにそれは俺を守るためでもあるという……。
本音の……、どさくさに紛れて俺と伊吹を婚約させて……、最初のうちは嫌でもそのうち慣れて諦めて嫁いでこないかな?みたいな話は最悪だけど……。それは近衛家側が勝手にそうならないかと努力しているだけの話で、俺がそうならなければ何も問題はない。
あ……、一つだけあったわ、問題……。そんなことをしていたら伊吹が茅さんに消されても知らないよとは思うけど……。それは二人の問題……、とも言えないんだよなぁ……。茅さんに犯罪者になってもらいたくないし……。
とはいえここから先は政治の話だ。俺のような子供が、自分の感情だけで騒いでいると思われても誰にも聞いてもらえないだろう。
近衛母は言っていた。振りでいいと……。今の関係はあくまで『許婚候補』というだけで婚約したわけでも許婚になったわけでもない。ただ近衛と九条が結びつこうとしているという形を見せて牽制すればいいのだと……。
その上で俺が伊吹と親しくなって、それで結婚する気になってくれたら近衛母にとっても万々歳ということらしい。
確かに言っていることはわかるけど……。でもそれって……、ゲームでの伊吹が咲耶お嬢様を利用していたのと同じことじゃないのか?
ゲーム『恋に咲く花』では伊吹は婚約話をあちこちから持ってこられるのを嫌って、咲耶お嬢様の許婚候補宣言を表立って否定することなく利用していた。近衛と九条の婚約話に割って入る者は少ない。少なくとも表立って両者を敵に回そうとする者は皆無だろう。
俺はゲームの伊吹が大嫌いだ。こちらの世界の伊吹の何倍、何十倍も……。むしろいっそ憎んでいるとすら言えるかもしれない。咲耶お嬢様をあんな目に遭わせた伊吹が許せない。
それなのに……、俺が……、俺自身がそのゲームの伊吹と同じことをしていいのか?伊吹と結婚なんてする気もなく、ただ利用するためだけに許婚候補という名前をおいておく。そんなことをして……。
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「おかえりなさいませ咲耶様」
「――ッ!椛……」
母を置いて俺だけ先に帰ってきたら……、椛に出迎えられた。パーティーの後から椛はいなかった。いつもうちで生活していたのに、突然一日も二日も家を空けてどうしたのかと思っていたけど……、今あっさりここにいる。
その様子に変わった所はなく、まったく、平然と、ただいつも通りにメイド服を着ている。俺に対して何かないのか?言い訳をするとか、説明をするとか……。何もないのか?
「椛……、鷹司家のパーティーで……、兄のペアのパートナーになっていたことで……、何か言うことはありませんか?」
「……何も、申し上げることはございません」
「――ッ!」
椛の言葉を聞いて俺は自室に駆け込んだ。何も言うことはない?あるだろう?何故何も言ってくれない?
兄のパートナーがいなかったから椛が務めたというのならそれはそれでいい。そう言ってくれたら良い話だろう?
それなのに何故俺に黙っていた?何故何も言ってくれない?この胸のモヤモヤは何だ?
この胸のつっかえが何なのか。どうすれば良いのか。それすらもわからない俺はベッドに入って頭から布団を被っていたのだった。