第百四話「茅さん」
朝の黒板に張り出されていた悪戯は一応念のために証拠を確保して片付けた。でも犯人捜しとか追及をするつもりはない。むしろそんなことをしたら火に油を注ぐことになるだろう。
今回の件は前回のような陰謀とかじゃない。今回こんなことをしたのはそこらにいる一般生徒が、俺への反発や嫉妬で行なったことだ。自分で自分が嫉妬されてるとか言うのは何か嫌だけど、他に言いやすい言葉が浮かばないから仕方がない。
俺からすると伊吹はかなり気持ち悪いし格好良くもないと思う。いや、見た目は良いと思うよ?さすがに乙女ゲーの主要攻略対象の一人なだけあって、現時点でも見た目は整っているし将来の姿も知っている。男である俺が見ても見た目は良いと素直に認めるくらいだ。
でも中身はあの残念王子だ。俺だけじゃなくてサロンで残念王子を見ている薊ちゃんや皐月ちゃんも、伊吹を格好良いとは思っていないだろう。最初の頃は伊吹の追っかけとか婚約者の座を狙ってるような雰囲気はあったけど、いつしかそれもなく、むしろちょっと蔑んでいるんじゃないかなと思うような態度になっている。
伊吹を良く知っている俺達からするとそうだけど、伊吹のことをよく知らない子達は伊吹のファンもたくさんいる。俺には到底信じられないけど一組に行けば伊吹が朝、登校してくるだけでキャーキャーと黄色い声が飛ぶらしい。
そんな熱狂的な伊吹のファン、あるいは伊吹のことが好きな子達からすれば、いきなり伊吹の許婚候補なんて者が出てきたらどう思うだろうか?答えは考えるまでもない。
今朝の犯行はそういう子達によるものである可能性が高い。そんな者を捕まえて、罪に問うような真似をすればますます過激派の感情を逆撫でしてしまうだろう。それは強烈なアンチ咲耶お嬢様を生み出す結果になる。
それ以外にただ単純に近衛家と九条家という二大巨頭が合併するのではないか。そうなると誰も逆らえない巨大な化物が誕生してしまう。と危惧している者もいるだろう。まぁこちらもぶっちゃけただの嫉妬だな。
問題は伊吹と許婚候補になったことを妬む者達と、近衛財閥と九条グループが合併して巨大企業になることを妬む者達の二種類がいるということだ。大まかに言えばどちらも俺に嫉妬しているということになるけど、その本質はまるで違う。
「咲耶様!食堂へ参りましょう!」
「そうですね……」
お昼休みになって皆で食堂に向かう。午前中に、クラスだけじゃなくて学園全体で感じた雰囲気から、大体俺と伊吹の許婚候補宣言に対する反応は大まかに三つだった。
一つは好意的に応援しているグループ。このグループは伊吹と咲耶お嬢様をお似合いとして、事情も知らずにただ無邪気に応援しているグループだ。伊吹が残念王子だとか、俺が少なくとも異性としては伊吹のことを嫌っていることを理解していない者達だろう。
俺は伊吹と友達になろうとは決めたけど、それでも俺が女で伊吹が男として考えた場合には伊吹のことは嫌いだ。伊吹と結婚するくらいなら家出して一人で生きていく方がまだマシだと思っている。友達にはなろうと思ってるよ?それは嘘じゃない。でも男女の仲になるつもりはない。
好意的に応援しているグループはそういうことは知らない。だからただ単純に俺と伊吹の仲を応援している。
二つ目は野次馬だ。別に応援も嫉妬も妨害もしない。ただ話題として乗っかっているグループ。近衛家と九条家という、この界隈では、というかこの国の財界の中でも二大巨頭のご子息とご令嬢の婚約話だ。ゴシップとしてあれやこれやと噂話に花を咲かせている。
このグループは特に応援も敵対もしないから放っておけばそのうち飽きて別の話題に飛びつくだろう。テレビのワイドショーを観ているおばちゃんと同じだ。芸能人の誰と誰が付き合ってるだの、不倫しただの、離婚しただのというのを観ているおばちゃんと思えばわかりやすい。
話題が出た時は飛びつくし、それが近衛家と九条家という大きな話題ならそれなりに興味を持つ。でも時間が経てば飽きるだろうし、他の話題が出ればそちらに飛びつく。そんな程度の反応だ。
三つ目が……、これが一番やばい……。それは伊吹と咲耶お嬢様の許婚候補宣言に否定的なグループだ。大まかに言えば否定的なグループと一括りだけどその中でも色々と分かれる。
先に言った嫉妬して妨害をしてくる者達ももちろんこのグループだし、そういう者達が一番危ない。今朝の黒板にしてあった嫌がらせもこのグループによる犯行だろう。もし犯人を捕まえて吊るし上げるなんてしたら、このグループの者達はますます反発してくることが予想される。
こういった反発が広まっていけばやがてゲーム通りに咲耶お嬢様バッシングに繋がるだろう。今は好意的や興味本位の残りの二グループの者達まで、このグループの意見に耳を貸してバッシングに回られたら大変なことになる。それはゲーム『恋に咲く花』の結末を見ればわかるだろう。
ただこの三つ目のグループには別の意味での否定派もいるということだ。それはずばり……、薊ちゃんや皐月ちゃん達のような咲耶お嬢様グループの子達だ。
皆は何も嫉妬で、とか、近衛・九条両企業が合併されたら困るとかそんな理由じゃない。薊ちゃん達が否定派なのはつまり俺が伊吹との婚約を望んでいないからだ。伊吹の正体、残念王子の本性も知っているし、俺が伊吹と結婚したいと思っていないことを知っている。だから一緒になって反対してくれている。
同じ否定派でも嫉妬によって悪い意味で反対しているグループと、俺の気持ちを理解して許婚候補解消に協力してくれている否定派がいる。同じ否定派でも両者の中身はまったく別だ。
「何かヒソヒソと……、嫌な感じですね……」
「ごめんなさい椿ちゃん……。私のせいで……」
食堂でいつもの席に座っても周囲にずっとヒソヒソと言われている。もちろん全部が全部否定的なものじゃない。さっき言った通り大まかに分けて三グループの反応があるわけで、ただの興味本位で噂話に花を咲かせている者が圧倒的大多数だ。
問題なのは、今はただの興味本位のこの大多数が将来どうなるかということだろう。否定派に唆されて否定派が増えると咲耶お嬢様の立場が危なくなる。ゲーム通りの結末に行く可能性がますます高まるだろう。
出来れば興味を失ってくれるのが一番良い。応援されても、否定派になられても困るなら、そのままこんな話題も忘れて別の話題に流れてくれれば一番良い。
「咲耶ちゃんのせいじゃないよー」
「ありがとう譲葉ちゃん」
皆は気にするなと言ってくれるけど、やっぱり気になる。どうにかしないといけないんだけど……、どうすればいいのかわからない……。
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前ほど憂鬱な気持ちにはならないけど、焦りは前よりも強い。俺はこの先の未来を知っている。変わりつつあると思った。まったく別の世界になりつつあると安心していた。
でも……、ゲーム通りに伊吹と咲耶お嬢様が許婚候補にされてしまって……、ゲーム通りの結末になるんじゃないかと一気に焦りが強くなった。もしこのまま本当にゲームの結末になってしまったら……。
「御機嫌よう」
「「あっ……」」
サロンの扉を開けた俺はそのままパタンと閉めた。ちょっと深呼吸をしてから再び扉を開ける。
「御機嫌よう」
「「…………」」
再び扉を開けた俺の目に飛び込んできた光景は変わっていなかった。どうやら見間違いではなかったらしい。というか俺が閉じている間に何とかしようというつもりもなかったのか……。せめてその手を放して何もなかったかのような顔をしておいて欲しかった……。
「…………茅さん、手を放してあげないと死んでしまいますよ……」
サロンの中では……、茅さんが伊吹の服を掴んで持ち上げていた。首が絞まってるのか顔色も悪く伊吹はくったりしている。
「そうですね……。焼却場で骨も残さず燃え尽きるか……。日本海溝の底に沈むか……。それくらいは選ばせてあげましょう」
怖い!怖いよ茅さん!伊吹を処分するつもりか!?しかも焼却場とか日本海溝とか具体的で怖い!本気かと思ってしまう。
「証拠がなければ殺人は立証されず殺人罪は適用されません」
だから怖いって!茅さんなりの冗談だろうけど本気かと思ってビビッちゃうよ……。
「とっ……、とりあえず一度その手を放してお話しましょう?」
何でこんなことになっているのか……。サロンの皆も茅さんのことを恐れているのか隅の方に寄って震えながら様子を見てるだけだ。誰も止めに入らない。というか止められない。
一番怖いのはキレている人間だ。力が強い。権力を握っている。お金を持っている。そういう者は実社会では大きな力と権限を持っていて上位の立ち位置にいるだろう。でもそんなものはその組織から離れたら関係ない。
会社の社長や上司だったとしても自分がその会社をやめればその相手に命令される謂れはない。むしろ会社では上司でも私生活までとやかく言われる筋合いはない。その程度の怖さだ。
それに比べて……、キレている人間はとことん怖い……。何を仕出かすかわからない。いきなりナイフを振り回すかもしれない。殺されるかもしれない。そういう恐怖を抱かせるキレた者というのが一番怖い存在だ。
とくにこの学園に通っているような上流階級のお嬢ちゃんお坊ちゃんなら余計にそうだろう。金や権力で言うことを聞かせられる相手は怖くも何ともない。普段からそういう者達に対して自分が優位に立っている。それがいざそういったことが通用しない相手に出会ったらどう思うだろうか。それはとんでもない恐怖だ。
茅さんはまさにそれだ。権力や地位から言えば伊吹の方が上だ。それは間違いない。正親町三条家と近衛家では規模が違う。近衛家は正親町三条家が所属する派閥や門流の長でもある。普通に考えたら近衛家には逆らえないはずだし、ましてやこんな暴力を揮うなんてことが出来るはずがない。
でもキレた人間にはそんなことは関係ない。相打ちだろうが自分が罪に問われようが関係ないんだ。そんな相手が一番の恐怖だろう。
「この愚か者を始末するからちょっと待っていてね」
やばい……。完全に目が据わってる。このままじゃ本当に伊吹を○しかねない……。
何か……、何か方法はないか……。茅さんが伊吹を放すような……。どうすればいい?茅さんが伊吹を持ち上げているんだからその手を放させればいい。そうすれば近衛門流の者達が伊吹を救出するだろう。
「茅さ~ん……、咲耶、胸が苦しいの……。背中さすっていただけますか?」
…………自分でも何を言っているのかわからない。ただちょっとくたっと科を作って椅子に逆向きに腰掛けて背中を前に向ける。もし茅さんが俺の背中をさすろうと思ったら掴んでいる伊吹を放す必要がある。
さぁ……、どうなる!?
「ぶっ!!?さっ、咲耶ちゃんのお背中を……、さする……。任せて咲耶ちゃん!お姉さんが気持ちよ~くしてあげるからね!」
べちゃっと音がして伊吹が床に落とされた。ピクピクしてるけどまだ生きているようだ。よかった。さすがに茅さんに人殺しをさせるわけにはいかない。
「ここ?ここがいいの?咲耶ちゃん!それともこっち?さぁ!お姉さんに身も心も全て任せて!」
「ちょっ!茅さん!強い!力を入れすぎです!」
椅子に腰掛けた俺の背中を茅さんがさする。俺が痛いというと手の力を緩めてくれた。
「ごめんね!お姉さんも初めてだから加減がわからなかったの。こう?これがいいのね?ハァハァ!」
「あっ……、そうですね……。それくらいなら……」
茅さんが優しく背中をさすってくれる。別に苦しくなかったけど、こうしてさすってもらうと何だか気持ち良いような気がする。薊ちゃんと皐月ちゃんがじっとりした目で見てきているけど止むを得ない。こうでもしないと本当に伊吹が昇天するところだった。
しばらく俺の背中をさすり続けた茅さんは別の意味で興奮し始めたようだけど、ある程度さすってもらっていたら満足したのか収まっていた。
「それで……、どうしてあのようなことになっていたのですか?」
ようやく落ち着いたらしい茅さんと向かい合って話を聞いてみる。何で近衛門流の茅さんが伊吹をあんな目に遭わせていたのか。それがわからないことには対処のしようもない。もし放ったままにしていたら本当にやってしまいかねない。
「あの虫けらが咲耶ちゃんとの許婚候補宣言を取り消さないというから、ならば存在を消してあげようと思っただけよ」
虫けら!?近衛財閥の御曹司で自分の門流の長を虫けら呼ばわりの上、消すとまで言っちゃったよこの人!?
「確かに許婚候補宣言は困りましたがそんな手段を使っては駄目ですよ。それに茅さんが犯罪者になってしまうのは悲しいです」
「大丈夫よ。証拠がなければ犯罪の立証は成立しないの。だから大丈夫よ」
それは大丈夫とは言わない!この人もしかしてやばい人なんじゃ……。