後悔の二重奏
八作目の短編となります。今年は花火大会に行けなかったことが残念です。
1
遠くで花火の音が聞こえた。
そういえば、今日は花火大会だったっけ。
カーテンを開けて、ベランダから空を眺めていると、赤や青、緑の花が咲いては消えていった。
「朝樹も見に行けばよかったじゃないか」と父が言う。
「僕は行きたかったけどさ、受験生だから勉強が云々って言ってたのは父さんだよ」
「そんなこと言ったかな?」
「意地悪」
「まぁ、いいじゃないか。この先、長い人生。花火なんていくらでも見られる。今年は人生の踏み台にして、頑張らないとな」
「でもさ、死んじゃうことだってあるよね」
「そしたら、まぁ、それはその時だ。幽霊になって花火を俯瞰するってのもお洒落だと思うぞ」
「父さんって夢見がちなところあるよね」
「仕方ないな。おれの酒の肴は夢だからな」
そう言うと父は、テーブルに戻ってビールを飲み始めた。僕は居間の机で数学の参考書を解いていた。
「そういえば、よっちゃんは?」
「花火を見に行ったよ」
「誰と?」
「友達でしょ?」
父は眼を伏せて心配そうに言った。
「男友達だろうか?」
「別にそのくらいはいるでしょ。姉ちゃんももう大学生なんだし」
父は不安そうな顔をしているが、これは父が泣き上戸なので、その前兆である。彼は残りのビールをグラスに注ぎきると、一気に飲み干した。そんなに男友達の存在が不安なのだろうか。
「そんなことよりさ、この問題教えてよ」
泣かれても面倒なので、父の気をこちらに逸らす。ちなみに、父は高校で数学教師をしている。
「んー、確率の余事象……か」
「そうそう」
「これをまったく逆のことにすればいいだろ? そしたら、後は計算するだけだ……」
余事象程度なら自分の頭で充分に理解できるのだが、こうしておけば父は泣かない。三度の飯よりも数学が好きという父の性質を利用した方法である。しかし、自分の娘のことよりも数学の方が気になるのは、父親としてどうなのだろうか。
居間のドアが開いて母が顔を出し、「あら? よっちゃんはいないの?」と僕らに訊いた。思い出したようで、途端に父の顔が青くなる。何ともわかりやすい人である。それにしても、間の悪い母だ。
「姉ちゃんは花火大会だよ」と僕もヤケクソで答える。もう、この際、泣かれても喚かれても構わない。録画して教え子に送りつけてやろうか。
「あらあら、この人は」と母が父に近付いて、背中を擦る。
僕は参考書を閉じて、風呂に入ることにした。
風呂に入る前にスマホを開いて、メールをチェックする。数日前に友人に送ったメールが返ってこないのが気掛かりなのだ。サボり癖のある友人なので、何とも言えないが、それでも、数日メールが返ってこないのは初めてなので不安だった。明日辺りにでも訪ねてみようか。
シャワーを浴びると、生きているという気分になるのは不思議だ。ただ、温かい水を浴びているだけなのに、どうして生きていると思えるのだろう。風呂に入ると、一回は考えることのひとつだ。
風呂から出ると、姉が帰宅していて、両親に何かを訴えているようだった。何事かと思って耳を傾けていると、「ストーカーだよ」という声が聞こえた。僕は居間に入った。
「おかえり、姉ちゃん」
「あ、ただいま。で、そう、ストーカーよ、ストーカー。絶対、そうだって。路地とか通って、撒こうとしたけど、ずっと尾けてくるんだよ。怖いったらありゃしない」
「でも、もしかしたら、偶々、同じ方向へ行きたいだけとか」
「違うって。私、路地とか経由したもん。同じ道を行ったり来たりしたもん。それで、同じ方向へ行きたいだけってのは有り得ないよ」
「えー、でもなぁ……」
「ねぇ、しっかりしてよ」
恐らく、父は面倒事にしたくないのだろう。世間体とか、仕事柄とか、意外と気にするタイプのようだ。
「少し考えさせてくれ」
「じゃあ、いいよ、もう」
姉は父の対応に限界を感じたようで、居間を飛び出してしまった。母は「警察に届けましょうよ」と父に言っているが、彼は「まだ、確実ではないから」と曖昧な返事をしている。
僕は姉の部屋のドアをノックした。
「ねぇ、姉ちゃん。提案があるんだけど」
ドアが開いて、姉が顔を出す。
「ちょっと、入っていい?」
「いいよ。別にノックなんてしなくていいのに」
「親しき仲にも礼儀有りって言うでしょ?」
「それもそうか」
姉の部屋の本棚には英語のタイトルが並んでいた。僕はそのひとつを手に取って、開いてみる。
「『Nine Stories』?」
「サリンジャーの短編集だよ。私は『テディ』って話が好きかな」
「面白いの?」
「面白いから読むんだよ」
「どう面白いの?」
「私は最後のシーンが凄く好きなんだけれど、そんなの読む人それぞれだからさ、まずは自分で読んでみないとわかんないよ。そうだ、それ貸してあげようか?」
「ダメだよ。英語だもん」
「勉強になるよ」
「いや、僕は姉ちゃんと違って理系だし。読むんなら進学後だよ」
「そっか、残念」
僕は本を棚に戻して、言った。
「本題なんだけど」
「うん」
「ストーカーの話だけどさ、父さんの言葉なんか気にしないで通報しちゃおうよ。いざ、被害が出たらヤバいでしょ?」
「大丈夫だよ、そのつもり。明日、警察に行ってみるよ」
僕は「わかった」と言って、姉の部屋を出た。
その日は勉強が手に付かなかったので、もう寝ることにした。暗い部屋の中で思い出したのは、小学生の頃。波打ち際を走る姉の姿だった。
2
翌日、僕は図書館にいた。日本史の参考書を解き進めていたら昼になったので、図書館を出て、コンビニでパンを買った。
夏の正午。図書館までの道で陽炎が揺れているのが見えて、その向こう側の世界を想像してしまう。もしも、行けるのなら行ってみたい気もするが、帰れるか保証はない。
例の友人の家に寄ってみたが、誰もいないようだった。インターホンを鳴らしても反応はない。メールが返ってきているか確認すると、メールボックスに返信があるのを見つけた。どうやら、彼は放浪しているようだ。前にもあったので心配は大丈夫だろう。
三時頃から駅前の塾の自習室で勉強をした。わからない数学の問題を講師に訊きに行こうとしたら、田辺という講師に呼び止められ、何処へ行くのか訊かれた。「問題を訊きに行きます」と答えると、「おれに見せてみろ」と言うので、「すいません、奥塚先生に見てもらいたいので……」と返すと、田辺は怒り出してしまった。
「おれじゃダメなのか?」と言うので、「田辺先生の数学はわかりづらいので」と返しておいた。本当のことだ。田辺は怒りがショックに変換されたようで、何も言わずに突っ立っていた。彼のことを気にしてる時間すら惜しいので、僕はさっさと奥塚先生の元へ向かった。
自動販売機でサイダーを買っていると、永打瀬という友人が声を掛けてきた。
「聞いたぞ、朝樹。あの田辺に言ってやったらしいな」
「ああ、言ってやったよ。だって、わかりにくいのは本当だからさ。田辺に訊くんなら、神旗に訊いた方がずっといい」
「そりゃそうだけど、神旗は変わりもんだからな。どっちもどっちだよ。まぁ、説明する力は神旗の方が断然優れてるけどね」
永打瀬が眼鏡を中指で押し上げる。捉え方にやっては、侮辱も兼ねているように見えるが、どうやら、本人もわかってやっているらしい。以前、「嫌いな奴の前で中指立てながら眼鏡上げてたんだけど、いつの間にか誰の前でもやるようになってた」と言っていた。
「そういえば、藤月と連絡は取れたのか?」
藤月とは例の放浪中の友人である。
「ああ、うん。一応ね。生きてはいるみたいだ」
「あいつ、いつ、何処で、ぽっくりと死んでるかわかんないからね。母親もあんまり帰って来てないって噂だしな」
再び中指で眼鏡を押し上げる。
「じゃあ、僕はそろそろ帰ろうかな。ナガは?」
「まだ残るよ。英語のわからないところを訊かなきゃならない」
「お互い大変だな」
僕は電車に揺られながら帰った。電車のなかでは、暴れる酔っ払い(ちなみにまだ午後八時)がいたが、隣に座っていた青年が「迷惑なのでお静かに」と言うと、彼らは礼儀正しく座った。威圧的ではないが、従わないといけない、という雰囲気の声の青年だった。
家に帰って、部屋に持ち物を投げ捨て、姉の部屋のドアを叩く。すぐに返事がしたので、ドアを開けた。
「ノックなんかいらないって」
「一応だよ、一応。で、警察は?」
「んー、結論から言うと、ダメだって」
「ダメ?」
「そう。実際に被害が出てないから、動けないんだって。恐怖ってのも、立派な被害だと思うけどね」
「で、どうするの?」
「朝樹ならどうする?」
「捕まえる。自分たちの手で」
僕がそう言うと、姉は笑った。
「そうこなくっちゃね」
「じゃあ、早速、明日からやろう。姉ちゃん、明日は何時に大学終わるかわかる?」
「明日はサークルがあるから、七時は過ぎるなぁ」
「だったら、七時頃に駅で待ってるよ」
「わかった。捕まえられるといいね」
姉の不安が滲んだ笑顔を頭に巡らせながら、僕は自分の部屋へ戻った。参考書を開いたけれど、シャーペンを持つ気力すら湧かない。今、胸を一杯にしているのは、正義感と使命感だけだ。時々、浮かぶのは、波打ち際の姉の姿。あの淡いワンシーンだけが進むことも戻ることもないままループしているのだ。走っても、何処へも行けない姉の背中は、少し寂しそうに変わっていくのだった。
「朝樹、よっちゃん、ご飯よ」と居間から母の声がした。ドアを開けると、唐揚げの匂いがする。
居間では父がテレビを見ていた。池下という人が政治や国家間の問題の話をしている番組だが、僕はどうにも、この池下したとかいう人が信用ならなかった。
姉がやって来ると、すぐに険悪な視線を感じた。勿論、視線の先は父だ。当の父は、知ってか知らずかテレビに釘付けである。
「この池下とかいう人、嘘吐いてない?」
「吐いてるさ。この番組で面白いのは、何処で嘘を吐いてるのかを見破ること。こいつは割とクオリティの高い嘘を織り交ぜて喋るからな。そうだな、試験の四択問題とかにありそうな感じのやつだ」
姉は父を睨みながら、コップに麦茶を注いでいる。
「よっちゃん、怖い顔してないの」
母が言うと、「してないよ」と姉。嫌なことがすぐ顔に出る姉である。これは昔から変わらない。あの波打ち際のワンシーンだって、濡れたくないから遊ばない、と姉は駄々を捏ねていたのだ。
唐揚げにマヨネーズをかけていると、「太るよ」と姉が言うので、「勉強で頭を使ってるからプラマイゼロ」と返しておいた。姉は理解できたようで、何も返さなかった。
夕食後、風呂に入って、勉強を始めた。しかし、脳内の半分はストーカーを捕まえることに使われていたので、まったく頭に入らない。英単語なんかも、憶えた端からボロボロと零れていくのだ。こんな調子では気が滅入ってしまうので散歩をすることにした。外では夜だというのに蝉が喚いている。僕は小さい頃の、ひっくり返った蝉をつついたら暴れ出したという記憶が消えないので、蝉は嫌いだ。
マンションの入り口付近にいた大学生(こう言ってはなんだが浪人風)に会釈をしてから、河原への道を歩く。犬の散歩をしている老人、帰宅途中のサラリーマン、ジョギングをしている女性、改めて見ると街には様々な人がいる。この中にストーカーが紛れていても、判別は難しいだろう。河原に出ると、チワワを散歩させている若い男性がいた。彼は僕に近付いて、「受験生?」と訊ねた。
「はい」と僕。
「じゃあ、頑張んなきゃね」
「大学生なんですか?」
「そう、C大の環境科学部に通ってるんだ。最初は何をしていいのかわからなかったけど、段々とやりたいこともでてくるんだ。君はどこを志望してるの?」
「僕はN大の理工学部を」
「じゃあ、尚更、頑張んないとね」
「はい。あ、そうだ、撫でさせてもらっていいですか?」
「いいよ」と青年は自分の頭を突き出した。
「いえ、チワワの」
「はは、わかってるよ」
チワワの頭を撫でると、骨の感触がした。衝撃を加えたら割れてしまいそうな気がして、他人の心を触るみたいな慎重さになってしまった。
「こいつね、名前はマリンって言うんだ。でも、本当はシーパラダイスが良かったなって思ってるんだよね」
「シーパラダイス?」
「うん。でも、家族に反対されちゃったから」
でしょうね、と思ったが口にはしなかった。
「さて、僕はそろそろ行かないと。受験勉強頑張れよ、少年」
青年が去った後、僕は土手を下って、水辺の石を拾って投げた。石は水に跳ねることなく沈んでしまった。
3
明くる日の夜七時、僕は駅前にいた。シンボルである花時計の前では、弾き語りのリズムに合わせて、そのファンらしき人が左右に揺れている。弾き語りをしている男性は揺れている人に興味はないようで、恐らく、メトロノームの代わりとしか見てないのかもしれない。
そんなことを考えていたら、姉がやって来た。姉は僕の方を一瞥して歩いていく。僕は姉の少し後、他の人から見て、尾けている、と思われない距離感で歩く。
少なくなくとも駅前では誰も姉を尾けていなかった。ストーカーもそんなに暇じゃないか、と思ったのも束の間、少し先のコンビニの角を曲がった辺りから姉の後ろを人影がゆっくり進んでいる。しかし、まだ判別はできない。
姉が路地に曲がると、人影もそちらへ曲がった。あ、と思って、僕も走って路地へ入る。人影は一瞬、僕のことを見てから、路地を走り抜けて姉の進行方向とは逆に逃げていった。
なるほど、本当にストーカーなんだな、と謎に感心してしまった。
帰宅後、姉に「ストーカーいたね」と言うと、「ほらね」と彼女は笑いながら言った。
「でも、逃げちゃったよね。根性なしだな」
姉はホーソンの『緋文字』を読んでいた。「面白い?」と訊くと、「あんまり私好みじゃない」と答えた。
「捕まえられるかな?」
「行けるんじゃないかな? まぁ、今日はもう大丈夫だから。朝樹は勉強してきなよ。ありがとね」
「うん」
僕は自分の部屋に戻って、棚から漫画を取り出して読んだ。久々に読んだのだが、色褪せない面白さがあった。小さい頃、漫画家を夢見た時もあったけれど、自分の画力の乏しさに絶望し、子供ながらに諦めたことを憶えている。もしかしたら、練習したりしていれば……、なんて考えるのも今更なことだ。
翌日の夜七時も駅前で姉を待った。今夜はストーカーは現れなかった。このまま、永遠に引っ込んでてくれればいいのに。
しかし、その翌日にはストーカーは復活していた。やはり、途中で逃げてしまうので、詳細はわからなかった。
そして、一週間が経ち、現れなかったのは二日だけだった。
「改めて見ると完全にストーカーだね」
「明日、捕獲実行ね」
「うん。こっちも援軍は呼ぶよ」
「頼もしい人?」
「うん。とっても」
これは勝ったぞ、なんて僕は盛り上がっている僕の横で、姉はとても冷静な顔をしていた。きっと、明日で不安を除去できるという確信から来る冷静さだろう。
翌日、僕が同じように駅で待っていると、姉はひとりで来た。
「あれ? 援軍は?」
「先にルートで待機してるよ」
「じゃあ、殿は僕が」
「任せたよ」
姉の背中を見送って、僕は意気揚々と歩き出した。
暫くすると、例の如く、姉の背後を歩く人影が見えた。人影が姉の曲がった方に曲がるので、僕は全力でダッシュして、人影の腰を両手で抱え込んだ。
「何しやがる! 離せ!」
男の太く低い怒号だった。男は僕に向かって拳をぶつけようとしたが、僕は既のことでそれを躱して、近くにあった鉄の棒で男を殴った。男から小さな呻き声が聞こえたが、彼は勢いを弱めることなく僕に向かってくる。眼を閉じて棒を振ると、鈍い音がして、何かが崩れる音がした。眼を開けると、男が倒れている。ピクリとも動かない。
もしかして、死んだのだろうか。
そんな考えが頭を過って、少し怖くなったが、「大丈夫、姉ちゃんを守る為」と自分に言い聞かせた。
スマホを開いて姉に捕獲完了のメールを送ろうとしたが、画面には姉からのメールの着信の通知があった。開くと、「ストーカーはこっちにいるよ!」とあった。
え? じゃあ、これは?
僕は、もしかして。
「殺しちゃった?」
唐突な声に僕は振り返った。
「誰だ」
「僕だよ、僕、朝樹。メール返さなくて悪いね」
「……追儺じゃないか、今まで何処にいたんだよ」
「ちょっとね」
声の主は藤月追儺。例の放浪中の彼である。
「ひとまず、こいつを運ぼうよ」
「いや、朝樹。その心配はないよ」
「え?」
彼は僕から棒を取った。
「まず、こいつは恐らく死んでる」
彼は棒で男をつつきながら言う。
「で、これは隠さなくていいよ。そして、君も捕まらなくていい」
「どういうことだ?」
「僕が犯人になってあげるよ」
「はぁ? 追儺が? でも、それって冤罪になるだろ?」
「構わないさ。過去の実績があるから、周囲に冤罪だとはバレないよ」
「過去の実績?」
「うん。あとで説明する。こっちへ来て」
彼は僕の手を取り、影を縫うように移動する。やがて、近くの空き地まで到着すると、彼は放置されたタイヤの上に座った。
「ひとまず、お疲れ様。そして、久しぶり」
「本当だよ。何してたんだ、お前」
「うーん、簡単に言うと隠れてた」
「何から?」
「警察から」
「警察?」
追儺は前髪を手で払ってから言った。
「『高戸芽実ちゃん誘拐殺人事件』って知ってるかな?」
「うん。数週間前の事件だよな。え、まさか?」
「そう、そのまさか。僕は、その少女を連れ出して殺害した。あ、誤解しないで欲しいんだけれど、犯したりはしてないよ? そこだけね」
「でも、どうして、殺したんだ?」
「殺したかったから」
彼は淡々と答える。恐らく、嘘ではない。そもそも、彼は嘘を吐く人間ではない。
「だから、もうひとり増えたところで僕に支障はない」
「……というか、追儺。お前、ひとりだけじゃないだろ?」
「流石は朝樹。うん、全部で三人だな」
「それ、大丈夫なのか?」
「今のところ、遺体は発見されてないから」
「何処に隠した?」
「秘密基地」
その隠し場所には、流石に笑うしかなかった。確かに人気はなく、中も入り組んでいる廃工場に基地はあるのだが、それでも、昔懐かしい我らが基地を遺体の隠し場所に使える追儺の思考回路が、あまりにも彼らしくて笑ってしまったのだ。
「それは、酷いぜ、追儺」
「あぁ、悪い悪い。でも、もうじき、全部いなくなるから大丈夫」
「いくら冷夏とはいえ、夏だぞ。それは酷い臭いだろうな」
「片付ける身にはなりたくないな」
「お前がそうさせてるんだよ」
「そうだな」
追儺が笑うので、僕も笑った。どうしてか落ち着いているのは、追儺が罪を被ると言ってくれたからだろうか。だとしたら、僕は薄情者ではないだろうか。
「そういえば、ナガが心配してたぞ」
「永打瀬が? 接点ないけど」
「いやいや、誰だって夏休み前から連絡すらないとかってなったら心配するよ」
「そういうもんかなぁ?」
「そう。それに、僕はお前の家も訪ねたんだぜ?」
「そりゃ骨折り損だったな。誰も出なかったろ? 生憎、母親は何処か知らない男のところにいる筈だからな」
「相変わらずだな」
「僕は、あんな有毒な親からは、さっさと逃げたいんだけれどね。四人の犠牲は母親への置き土産なのさ。僕が逮捕されれば迷惑くらい被るだろうしな」
「歪んでるよなぁ」
「良い具合にな」
「いや、良くないだろ。法の網をがっつり破ってんだから」
「潜れるほど器用じゃなかっただけ」
「ところで、さっきの男が万が一、生きてたらどうするんだ?」
「いや、僕の経験則から言って、あれは死んでるよ。心配するなよ、罪は僕のものだ」
「何だよ、手柄みたいに」
僕が笑って返すと「手柄だろ?」と彼が笑って言った。
「お前さ、後悔とかないの?」
「範囲がわからないな」
「三人殺したことについて」
「いや、ないね。だって、僕は僕の思うように殺したんだからさ。後悔するなんてバカみたいだろう? じゃあさ、そう言う君は後悔があるってことなんだな?」
「あるよ。殺したんだから」
追儺が首を傾げる。
「でも、君はストーカーだと思って殺したんだろ? 考えることに間違いはないだろ?」
「でも、違った」
「じゃあ、本物のストーカーだったら、後悔してたか?」
「さぁね」
「君はさ、姉に対して過保護すぎやしないか。夜花さんが大切なのはわかるけどさ」
「……」
「昼菜さんみたいな目には合わせたくない、ってのは充分にわかるけど、それを理由に殺しまで発展するのは如何なものかな?」
「昼菜姉と夜花姉を重ねてる節はあるけど……」
「まぁ、いいさ、後悔しときな。そして、それを抱えて生きていきな。その後悔の二重奏は君の糧だよ」
「何かそれらしいこと言うね」
「君より人生経験が豊富だからね」
「これからどうするんだ?」
「適当に逃げるよ。本当に心配しないでくれ。あの罪は僕のものだ」
「わかってるよ」
彼は手をこちらに振りつつ、足早に視界から消えていった。
「後悔か……」
抱えていけるだろうか。あの後悔と、この後悔のふたつを。
取り敢えず、家に帰って、姉と話がしたい。
4
昼菜が亡くなったのは十四歳、僕が十二、夜花が十五の時だった。
あの青い記憶。忌まわしき記憶。
家に戻ると、姉の声が外まで聞こえた。中に入ると、姉と両親と他の誰かの声がする。
「ただいま」
「お帰り、遅かったね。ストーカーなら捕まえたよ」
姉の顔はここ最近で一番の笑顔だった。
「あれ、あの時の少年じゃないか」
その声は、河原で会った大学生だった。
「あ、朝樹、紹介するね。こっちが青浜煌汰郎。で、こっちの冷めた顔してるのが天無弥生」
「よろしく、弟くん」と煌汰郎。
弥生は手を挙げただけだった。よく見れば、彼は電車内で見掛けた青年のようだ。
「いやー、おふたりともお疲れ様」
父が赤い顔でふたりの肩を叩く。
「ストーカーが本当にいたなんて驚いたよ。うちのよっちゃんも捨てたもんじゃないなぁ」
「失礼だなぁ」
「ストーカーはどうしたの?」
「警察に引き渡してしやったよ。現物付きじゃ、警察も認めざるを得ないからね」
彼は手に持っていたグラスのジュースを飲み干した。
「それにしても、ストーカーが顔見知りだとは思わなかったな」
「そう? 私は気付いてたけどね」
「あいつ、大学に落ちたってことだけは知ってたけど、ストーカーに成り下がるとは思わなかったな」
弥生が小説を読みながら言う。小説は姉の『Nine Stories』で、それを凄まじいスピードで読み進めている。
「煌汰郎さん、姉の彼氏なんですか?」
「こら、朝樹」
「一応ね、彼氏をやらさせてもらってるよ」
「ふぅん」
まぁ、この人なら大丈夫だろう。それに、この弥生という青年もいる。僕なんかよりも頼りになるのは間違いない。
僕は自分の部屋の行き、ベッドで仰向けになった。
昼菜と夜花と三人で映った写真を眺める。
後悔。
あの時、ひとりにしてしまった後悔。
今日、人を殺してしまった後悔。
けれども、前者の方が悔やまれる。
あの海。
あの空。
あの雲。
あの夏。
あの景色が色褪せないまま消えない。
あの背中が色褪せないまま消えない。
失ったものは戻らないかもしれない。
けれども、失わないようにすることはできる。
だから、もう、失わないように。
守ったこと。殺したこと。
しかし、殺したのは僕の間違い。
あれはストーカーではないのだから。
追儺が罪を被ってくれると言っても、僕の中から黒いものは消えない。消えないまま、どんどん熟して、腐っていく。
腐ったらどうなる?
固張りついて消えなくなる。
「後悔の二重奏は糧になる」
追儺はそう言っていたが、僕はそうは思わない。後悔する度、人は弱くなって滅んでいく。
「ありがとう」
姉の扉越しの感謝が、胸に刺さるのがわかった。
藤月くんのお話は「狩人はひとりずつ」を参照してください。




