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《本編おぼえがき》
☆大岩の家
サラサスーン地方の人里離れた荒野の一軒家。大きな岩壁に囲まれた、秘密の箱庭のような家だ。ヒロトたち三人は、転移直後からここでお世話になっている。
・大岩の家でお世話になった経緯は、本編の『序章 第五、六話』にて。
▽大岩ファミリー▽
☆さゆりさん
二十代前半に熊谷市からパスティア・ラカーナへ飛ばされて来て以来、三十余年をこの地で過ごしている。あらあらうふふの可愛いお婆ちゃんだが、芯が強くヒロトの良きアドバイザー。転移後一年半くらいで、狐の人となった。
名言『この世界で生きてゆこうと決めたから、帰る方法は探さなかった』
・さゆりさんとヒロトの様子は本編『序章 第九、十話』にて。
☆カドゥーンさん
名前が発音しにくいので、もっぱら『爺さん、じいちゃん』と呼ばれてしまう。無愛想で口数も少ないが、非常に暖かく包容力がある。手先が器用で物作りが得意。猫の人。
名言『無理せず、ダメだと思ったら帰って来い。誰も笑わない』
・爺さんの枯れイケメンな様子は、本編『第五章 第六話』等で。
☆リュート
さゆりさんと爺さんの息子で、狐耳のイケメン。現在、妊婦の嫁さんを連れて里帰り中。ヒロトに『まるで下積みの若手芸人を支える、学生時代からの彼女のようだ』と評されるほど、心配性で世話焼き。そろそろ嫁さんのラーナに赤ちゃんが生まれているはず。
名言『俺も父親になりたいと思ったんだ』
・リュートとヒロトの様子は、本編『第一章 第十三話、第五章 第三話』等で。
☆クルミ
砂漠の旅で出会った女子中学生で、武蔵野市からの転移者。破滅的に不器用だが、幼い頃からバレエ一筋で、天性の才能の持ち主。大岩の家でお留守番。きっと日々踊って過ごしている。
名言『この世界でバレエを踊る事は、たぶん何の意味もない事だと思う。意味がないなら――。私がその意味を作ってみせる』
・クルミとの出会いは、本編『第六章 第十六、十七話』にて。
▽ミンミンの街の住民▽
☆ルルリアーナ
愛称ルル、二つ名は『階段の上の魔女』。ミンミンの街の商店街から続く、長い長い階段を上がるとルルとナナミの働く教会がある。教会は医療施設と養護施設も併設されていて、全ての責任者であるルルはいつも大忙しだ。穏やかだが、燃えるような獅子の魂を持つ彼女に二の足を踏む男性が多く、未だに独身。ナナミと同じ年のライオンの人。
名言『自分を盾にするような闘い方は、そう何度もできるものではありません。腕や足を、差し出すのにも限りがあります』
・ルルとナナミの様子は本編『第三章 ナナミ編 ルルリアーナ』等にて。
☆カミュー
教会の養護施設出身で、今は街の自警団の仕事をしている。『既婚者で子供もいる』というナナミの言葉が信じられずに、ナナミに恋してしまった不幸な青年(ナナミは童顔で背も低いので若く見える)。
名言『女の子がそんな風に、み、耳を、見せたりしちゃいけない……』
・カミューの好青年ぶりは『終章 第二十一話』等にて。
「ねぇお父さん、いつごろお家に帰るの?」
ある朝、ハルが雑穀クレープにピリ辛トマトソースを塗って食べながら言った。ミンミンは海辺の街なので、潮風に強い麦に似た穀物が主食だ。
最近ハルは、辛いものにも果敢に挑戦している。顔が真っ赤だしちょっと目が虚ろだ。大丈夫か?
そう言えば、この世界に飛ばされたばかりの頃、よく同じような事を口にしていたな。東京のマンションのベランダに置いた、ヘチマの鉢植えや、夏休みの宿題の心配をしていたっけ。
「そろそろ、リュート兄ちゃんちの赤ちゃんが生まれるころでしょ? ぼく、はやく帰って抱っこしたい」
『お家』は大岩の家の事か。
「ばーばのなんしぇ、たべちゃいのー」
ハナの言う『ばーば』はさゆりさんの事。『なんしぇ』はフィナンシェ。さゆりさんの作ってくれるフィナンシェは、実際絶品だ。
二人にとって『帰るべき家』は、もうとっくに大岩の家なんだな。
「お母さんはこの教会の治療師だろう? ルルは治療師だしシスターもやってる。二人が一緒に居なくなっちゃったらこの街の人が困っちゃうんだよ。もうすぐ代わりの人が来るから、それまで待とうな!」
ルルは俺たち家族が大岩の家に帰る旅に、同行する予定だ。パスティア・ラカーナで三十年以上を過ごし、この世界の言葉を、ネイティブレベルで話せるさゆりさんに会う事を望んでいる。
ナナミの持っている医学的な知識を、現地の知識で応用できるルルに、全て伝えたい。それは命の現場で日々抗っている二人の悲願に他ならない。
この地の人の身体と、地球人の身体は根本的に異なる部分も多い。骨格……特に足や首にそれぞれ獣の特徴が強く現れているらしい。
だが、使える知識も確実にある。臓器や血液の役割や免疫に関する知識、生活習慣病、感染症の仕組みや依存症の事……。とても俺やナナミの語彙で伝えられるものではない。
『ナナミは怖くないのか? 自分の知識がこの世界を変えてしまう事が』
ある日の夕方、ナナミの希望で絵を描いている時に聞いてみた。感染症の疑いのある患者への、手洗いうがいとマスクの着用の重要性を訴える絵だ。待合室に貼ると言っていた。
「人が死ななくなって、人口が増えて生態系のバランスが崩れるとか? 赤ん坊が死ななくなって、出生率のバランスが狂うとか?」
「技術が秘匿されて、命を盾に莫大な医療費を要求したり……。特権階級のみがその恩恵に与るようになれば、身分制度が生まれるかも知れない」
教会という組織が、今よりも大きな力と富を得ればそうなり得る可能性がある。パスティア・ラカーナで、街や地方を越えた組織は、教会しか存在していない。
ナナミが驚いたように、目を見開いて俺を見る。
「ヒロくん、もしかして、そんな事ずっと考えていたの?」
大きな組織は危険だ。パスティア・ラカーナが不自然なほど平和で平等なのは、街や村が分断されているからだ。動物は大きすぎる群れを嫌う。この地の人々は、本能でそれを避けているようにさえ見える。
俺は怖い。怖くて仕方がない。この美しく平和な世界の均衡を、俺が……俺たち家族が狂わせてしまう事が。できれば大岩の家に引きこもって、家族と大切な人だけ守って暮らしたい。さゆりさんがそうしたように。
ナナミやルルの気持ちは、痛いほどわかる。目の前で泣いている赤ん坊に、手を差し伸べるなという方が無理だ。手のひらから溢れていく命を、必死になって掬っているのだ。
「大丈夫だよヒロくん」
ナナミが脇に立ち、俺の頭をふわりと抱える。そっと抱きしめて、後頭部の髪の毛を指で掬う。
「怖がらなくても大丈夫。ルルはそんな事、絶対にしないし、もしそんな陰謀に巻き込まれたら、私も一緒に戦う」
「ナナミがそんな陰謀に巻き込まれるのは、嫌だ」
「ふふふ。でもさ、この世界の人って、みんなびっくりするくらい善良だと思わない? こっちが心配になるくらい」
「それは……俺も感じていたけど。でも砂漠の旅では盗賊に襲われた事があるぞ」
「うん。でもきっと事情があったんだよ。養護施設には虐待されていた子供がいるけど、その子のお父さんもとても可哀想な人だった」
「ナナミ……」
「この世界の人たちも、先に進んでいくよ。私たち家族は、もう完全な異分子じゃない。私はね、歴史書に大罪人って記されても良いと思ってる。そんな先の事より、今、この手で救える命を落としてしまう方が怖い」
ナナミが、そっと俺の後ろ髪を梳く。小さな手がうなじに触れてくすぐったい。
俺は右手をナナミの腰に回して、そっと引き寄せる。ああ、ナナミを抱きしめる手が足りない。
「両手で抱きしめたいのに、手が足りない」
「そう? 私には充分だけど?」
ナナミが柔らかく、いたずらっぽく笑う。全く敵わないな。ナナミのこの顔に、俺はずいぶん唆された。その気にさせられて、つい……勇気が湧いて来ちまう。
そうだな。まだ何もしていない。まだ何も起きていない。俺は居もしない『しまっちゃうおじさん』を怖がっている、ぼのぼのみたいだな。
ナナミがいる。さゆりさんも爺さんも、リュートもいる。ルルもカミューも、キャラバンの連中もいる。
俺は洞窟の中で一人で怯えている、ぼのぼのじゃない。
ぼのぼのを知らない方には、本当に申し訳ない話になってしまいました。ぼのぼのは妄想好きのラッコの少年のアニメです。しまっちゃうおじさんは、ぼのぼのの妄想の中の人で『どんどんしまっちゃうよ〜』などと言いながら、ぼのぼのを岩壁に閉じ込めようとする怖い人です。