プロローグ 春の夜
「なるほどねぇ。そりゃあ、地球人なんじゃない?」
ナナミがハナの頭を撫でながら言った。額の汗をぬぐい、寝間着の襟を緩める。
ミョイマーの夜はそう暑くはなく過ごしやすいのだが、子供は寝ると体温が上がるからな。隣で寝ているハルも、同じように汗ばんでいる。
二人の様子が気になって、ついナナミの言葉に上の空になってしまう。それはナナミもお互い様だったようだ。今後の事やこの世界についての、お互いの情報交換をしていたはずなのに。
「ふふふ。ハルはすっかり大人ぶっているけど、寝顔は全然変わってない」
「そう言ってやるなよ。この旅の間、ハルがどんなに頑張ったか……。必死でハナを守って、俺を助けてくれたよ」
「そうねぇ。昼間の顔は、ずいぶんお兄ちゃんになったかな! あー、でも、そんなに急いで大きくならないで欲しいなぁ」
寝ているハルに頬ずりしながら、デレデレの顔を隠そうともせずに笑う。
ナナミは耳が生えてはいたが、少しも変わっていなかった。変わらないでいてくれた事、ナナミを変えてしまわなかったこの街に、頭を下げたいくらいだ。
少しズレてザバトランガに飛ばされていたら、今頃どんな目に遭っていただろう。俺に憎しみの目を向けてきた、トルルザ教会の鳥の人を思い出す。
「で、ヒロくんはどうしたいの?」
「えっ?」
一瞬なんに対しての質問か、頭が追いつかない。
「地球に帰る方法は探さないの? もう帰りたくない?」
帰る方法は、クルミのためにも探そうと思う。でも、俺がどうしても帰りたいかと言うと……。うーん。
「帰りたくないわけじゃないな」
「ずいぶん歯切れが悪い!」
ナナミがからかうように言った。
「色々やりたい事とか、離れがたい人も出来ちまったからな」
「うん。わかるよ……。私も同じ」
俺たちは『完全なる別れ』なんてものは、経験した事がなかった。今のご時世、お互いが生きていて、会いたいと本気で思えば『どうしても連絡すら取れない』などという事態はあまりない。そう思っていた。
あの夏の日に、この世界に飛ばされて来るまでは。
もし今、この場に二つの選択肢があるとしたら、俺はどちらを選ぶのだろう。
『地球に帰り、二度とパスティア・ラカーナの人たちに会えない』
『地球に帰らずに、二度と親父や姉貴、たくさんの知り合いや友人たち会えない』
自由に行ったり来たりできるなら、もちろん帰りたい。せめて連絡を取る手段がないものかと、何度スマホの操作をした事か。
地球に……日本に残してきた肉親や友人たちに、もう二度と会えなくて良いとはとても思えない。だが、この地で、何も持たない俺を支えてくれた人たちとも、分かち難い絆が生まれている。
帰る方法か……。
唯一の可能性は茜岩谷の『忌み地』になにかありそうだという事だろうか。
地球と、この地で過ぎている時間のズレも気になる。
さゆりさんは2004年の熊谷市から、茜岩谷へと飛ばされてきたのに、彼の地で過ごしたのは三十年以上だと言う。さゆりさんは俺と同年生まれだ。
俺たちは2018年に東京から茜岩谷に飛ばされ、約一年が過ぎた。
クルミは2021年の武蔵野市から。この世界では半年と少しというところだろうか。『二ノ宮さん一家失踪事件』は、三年前の出来事だと言っていた。
地球よりも、この世界の方が時間の進み方がはやいのか? 例えばさゆりさんが今、地球に戻れたとしたら。さゆりさんのみが年老いていて、ご両親の年齢に追いついてしまっているのだろうか。
それはあまりに悲しい。
「私が一番気になるのは、なんで電話やメールが使えたのかって事かな」
その通りだな。だがあの奇跡がなかったら、おそらく今もまだ、ナナミの居所さえも特定出来ずにいただろう。
「地球人がこの世界で活動していたとしたら、基地局建てるんじゃないか?」
俺が『耳なし』を、地球人なんじゃないかと思うのは、まさにそれが一番の理由だ。通話が可能になるような電波が、自然界で発生するとはとても思えない。
「うーん。でもさ。じゃあここはどこなの?」
見たことのない地形、獣や鳥の人々、見知らぬ植物や動物。さゆりさんが『異世界』と呼ぶこの『パスティア・ラカーナ』は、本当に異世界なのだろうか。
それとも地球のどこかに、ガラパゴス諸島のように、独自に進化を遂げた土地があるのだろうか?
世界中のどこもかしこも、衛星で丸見えになった現代に、全くの未踏の地などあるのだろうか?
それとも、意図的に隠されているのか?
いや、それでは時間のズレが説明できない。
ナナミは意外なほど、情報を持っていなかった。耳なしクロルの昔話や、黒猫の英雄の話も知らなかった程だ。俺がちょっと呆れた顔をすると、ぶーっと膨れて言った。
「ヒロくんはこの世界の言葉を教えてくれる人が、すぐ側に三人もいた! 私はルルと二人で、ゼロからはじめたんだよ? だから『ナナミ踊り』なんてものが出来ちゃったんだよ」
おまけにヒロくんは、絵が描けるじゃない!
そう言って、もう一段階ぶーっと膨れた。
ナナミ、フグみたいになってるぞ。
ナナミは家族の前では、喜怒哀楽が激しい。これは看護師の職業病みたいなものだな、きっと。患者の機密情報を預かる、命の現場では何もかもを顔に出す訳にはいかない。
想えば俺は、このギャップにやられた気がする。
「そうだな。俺は甘やかされていたよ。大岩の家族にも、キャラバンの連中にも」
ナナミの膨れた頰を、ムニっとつついて潰してから、
「これからは、俺がナナミを甘やかすからな! 覚悟しておけよ!」
宣戦布告してやった。俺の甘やかしは、家族・親族内でなかなか定評がある。ナナミの頰が緩み、唇に甘えた色が滲む。うん、良い手応えだ。
甘い雰囲気が流れた……ような気がした。気がした途端に、ハルが急にガバッと起き上がった。
寝ぼけまなこでキョロキョロと、あたりを見回したかと思ったら、ナナミを見つけてホッとした表情を浮かべる。
まだハルは、不安の中にいるのかも知れない。多感な時期に母親と生き別れ、命がけの旅をするなどトラウマになっても仕方のない出来事だ。
ナナミと二人で、ハルを両側から抱き締める。背中をトントンと叩くと、ナナミの膝にコロンと頭を乗せて眠りについた。
ハルもハナも、たくさん甘やかそう。
そんな事を心に決めた、波の音が穏やかに寄せては返す……ある春の夜の出来事だ。
ルルの旅準備が整い次第、茜岩谷へと向かう予定だ。ザバトランガは全力で駆け抜ける。まだしばらくは俺とハルにとっては、危険な土地だろう。トルルザの教会とロレンのお母さん、ひまわり娘へはルルの名前で手紙を書いた。無事にナナミと会えた報告の手紙だ。
帰りに半獣の村に寄ろうと思う。
さて、どんな旅になる事やら。
お久しぶりの方、初めましての方。思い出して下さり、興味を持って頂き、ありがとうございます。
蛇足となってしまうかも知れませんが、もうしばらくお付き合い下さい。
▽登場人物▽
★ヒロト 二ノ宮ヒロト
本作の狂言回し役をつとめてくれている、お父さん。三十台半ばくらい。ハルとハナを連れて、ナナミを探す旅をしていた。ようやく家族揃って、只今幸せ満喫中。旅の途中で左腕を失っている。
名言『俺はこの重さを手放す気など、さらさらない』
★ナナミ 二ノ宮ナナミ
ヒロトの嫁。三十台前半。日本では看護師の仕事をしていた。転移時に別の場所に飛ばされてしまい、ようやく合流できた。現地の人々と同化し、ユキヒョウの『獣の人』になった。
名言『だったら私は、絶望に打ちひしがれる必要はない』
★ハル 二ノ宮ハル
二ノ宮家の長男。ヒロトと一緒にいくつもの旅を経て、少しずつ逞しく成長しています。引っ込み思案も克服しましたよ!
名言『ぼくは耳なし! 耳なしのハル! お父さんを返せ!』
★ハナ 二ノ宮ハナ
二ノ宮家の長女で三歳、天真爛漫なユキヒョウ幼女。もりもり食べてコロリと寝る。割とどこででもユキヒョウ姿になり、そのあと素っ裸で走り回る。
名言『とーたんいじめるひとは、ハナちゃん、もふもふになって、がぶってしゅるよ!』
★あくび
砂漠の旅で出会った、パラシュという騎乗トカゲ。二ノ宮家唯一の武闘派。頼れる訳あり熟女。
名言 『いつでも呼びなさい。すぐに駆けつけてあげるから。あくびがそう、言っているような気がした』
▽地名・その他▽
★パスティア・ラカーナ ヒロトたちがいる大陸の名前。日本語で『羽ばたく鳥』という意味。
★ミンミン ミョイマー地方の街の名前。ナナミはこの街の教会で治療師として働いている。『耳なしに会うと良い事がある』という民話が伝わっていて、呑気でノリの良い人々が多い。
★ザバトランガ 耳なしに迫害を受けた人々の、末裔が住む地方。『黒猫の英雄』と一緒に耳なしと戦ったという伝承が残っていて、耳なしは『鉄の玉を撒き散らし、笑いながら人を殺す悪魔』と恐れられている。
★サラサスーン ヒロトたちの本拠地『大岩の家』がある。日本語で『夕焼け色の岩の谷』。ヒロトたちは『茜岩谷』と呼んでいる。耳なしの事は、昔話の中の存在だと思っている人が多い。