父の死、夕映えにて
他サイト様にて開かれた個人企画に応募した短編です。
普段と異なる作風で正直自分でもどの程度の仕上がりになったか判断しかねますが、良ければ見ていって下さい。
「ここに来るのも何年ぶりになるかねえ」
そんな風にドラマか何かの登場人物を気取りながら、俺は嘗て住んでいたマンションの最上階で嘗て住んでいた街並みを見下ろしていた。見下ろす、とは言っても高さは中途半端だし周囲に似たような高さの建物がいくつもあるから見える範囲も限られるが。
小学生時代に下の階に住んでいた友達と一緒に歩いていた通学路。
定期的にエロ本が落ちている事で有名だった路地裏へと続くちょっとした抜け道。
一時期アルバイトとして働いていて、初恋相手の先輩が店長とデキてる事に絶望して辞めたコンビニ。
懐かしく、そして二度とは戻れないあの日の思い出は逆に言うなら二度と胸から離れてくれない。
「………………」
どうせなら最近ようやく味が解り始めた缶コーヒーでも持ってくりゃ良かった、だなんて頭の中でわざわざ言葉を紡いでも深く広いこの傷は癒せなかった。
わかっていただろうに。この場所に戻って来ても、何も変わらないという事くらい。
別に自殺しようとしてここまで来たわけじゃない。欲しかったのは終わりではなく慰めだ。
俺はただ、今では遠くなってしまったあの日の思い出に浸れればそれで少しはマシになれると勘違いしただけだった。
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高校三年生の夏休み中頃に、父が死んだ。
休憩時間に立ち寄ったコンビニで、知らない爺さんが間違ってアクセル踏み込んじまった車に轢かれたと警察署から来たおっさんは言っていた。
別にその爺さんがどうなろうと知ったこっちゃない。が、ソイツの為にわざわざガキの俺にまで土下座してきた爺さんの家族には同情する。別に直接の加害者に恨みはないから。
ただ問題なのはその結果、未だローンが残っている我が家にこれ以上住めなくなってしまった事だ。
都内のマンションの一室に住んでいた核家族たる我が家には、父以外の収入源は無い。もちろん今後の生活も考えて母はパートを始めると言っていたし、俺もアルバイトに向けて履歴書の準備を進めつつ大学進学は諦めた。
何だかんだ幼稚園の頃から住んでいた家なので、妙に寂しい思いをしたものだ。
友達を呼んでゲームして遊んだり、家族みんなで昔観たアニメ映画をテレビでもう一度観てみたり。
それももう終わると思うと、涙は出なかったが泣きたい気分にはなった。
さてそれとは別に思い出すのは父の葬式で起こったあれこれについてだが、まあ個人的には良い事あり悪い事ありの微妙な葬式だったと思う。
まず俺をイラつかせたのは父方の祖父母だった。
この馬鹿共、何をトチ狂ったのやら父の死の原因を『母に嫁としての能力が不足していたからだ』などとのたまいやがった。
思えば単に八つ当たりする相手が欲しかった事、そして八つ当たりしても反抗しないであろう息子の嫁である母が目の前にいた事が重なって底の浅さが露呈する形で感情が暴発したんじゃなかろうか。
別に今更どうでもいいけどな。散々猫っ可愛がりしてきた孫であるこの俺が怒鳴りつけて蹴り飛ばして二度と父の顔を見せないまま火葬まで終わらせたし、二度と顔を見せないと宣言しといたから多分もう会わない。
今にして思えば俺も感情の抑制が出来てねえじゃねえか、と反省している。
その次に驚かされたのが、父のモテっぷりだ。
うちの母親が息子から見ても若作りで美人なのは知っていたが、俺とも面識のある父のチャット仲間(しかも既婚者)が棺に向かって「好きでした」と涙ながらに言っていたのを見てどんだけだよと思っていたら、今度は幼馴染の親父さんから
「ウチの娘、結局今日来られなかったよ。◆◆君のお父さん、あの子の初恋相手だったからなあ」
と言われてこれまた仰天した。アイツ彼氏いるだろ。まだ引き摺ってたんかい。
こちとら彼女どころか女友達すらいないのに、と嘆くのは場違いだから控えた。母も流石に空気を読んだのか、何も言わずにいた。
そして俺が一番嬉しくって悲しかったのは、父が生前通っていた英会話教室の講師という人の存在だった。
最初こそ「いや何でそんな微妙な距離感の人が来てんだよ」と思ったが、葬儀全体を通しての彼の振る舞いを見て悟った。
男友達なら結構いるから俺にはわかる。あれは大親友を失った男の態度だ。
本当に細かい動作だからわからない人には“マナーに疎くて粗野な人”と思われてしまうかもしれないが、口を引き結んで泣くまいとする彼の姿を見て初めて父が死んでから泣きそうになったのを今でも覚えている。
あの野郎、女にモテてただけでなく良い友達まで持ってんじゃねえか。リア充かよ。いや美人な嫁さんゲットしてる時点で普通にリア充だったわ。
あの葬式以来彼とは会っていないし今や顔も覚えていないが、元気でやっていてくれる事を大親友の息子という微妙極まる立場から願わせて頂こう。
ともあれ、俺が父方の爺さん婆さんを蹴り飛ばして追い出した以外に大したトラブルはなく、葬式自体は綺麗に終わった。
翌日からウチの母親にラブコール送ってくる独身の親戚どもには辟易したが、あれから親子二人で安いアパートに暮らしている。これはこれで不便もあれど悪くない。
そうして五年の月日が経った今、来月から正社員として雇用される事が決まった俺は嘗て住んでいた場所に戻って来たのだった。
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街中を歩いて、昔ちょくちょく顔を出してた本屋に寄って漫画を数冊買い、自動販売機で買ったガキの頃好きだったジュースの甘ったるさに眉を顰め、通学路のところどころにある“近道”と謳われた遠回りでしかない道を進んで、以前遊んでいた公園の遊具が様変わりしていたのに驚いて。
意外にも懐かしさという感情は沸いてこなかった。五年程度、今の俺には最近の出来事に過ぎない。
それでも夕焼け空はあの頃と変わらず綺麗だったから、写真だけ撮って良しとする。
これ以上この街をうろついても収穫となるものはない。心の傷口は既に傷ではなく、心の形そのものへと変貌してしまった。この隙間は永遠に埋まらないのだと誰より俺が知っている。
さて、と帰る為に振り向こうとしたタイミングで、思わぬ声が聞こえた。
「よう、◆◆。ここにいたのか」
その声を知っているからこそ、俺は一歩も動けなくなった。傍から見ればマンションの住人でもないのに最上階で硬直している間抜けに見える事だろう。
だが、誰が反応できるってんだ。
もう死んでいる父親の声に。
「久し振りだな。無事大きく育ったみたいで安心したよ」
無条件でこっちを安心させる声と言葉を選びやがって。
なんて、返しも出来やしない。
「俺が死んじまったせいで生活も苦しくなっただろうけど、アイツと二人暮らしなら栄養の心配はいらないか。料理、上手いもんな」
向こうは一方的に喋っているが、こっちはそれどころじゃない。
話したい事なんて、山ほどあった。
幼馴染のアイツ、彼氏いんのにあんたの事好きだったんだってよ。
英会話の先生、メチャクチャ良い人そうだったな。やっぱ仲良かったの?
あんたが死んだせいで母さんに言い寄る男が出て来て困ったもんだ。どうにかしてくれ。
山ほどあったはず、なのに。
“相手がもう死んでいる”という、ただ一つの事実が俺の言葉から意味を、意義を、大切さを奪っていく。
それはあまりにも当然で、あまりにも残酷だった。
だってそうだろう。もう死んでる相手に何を言えば良い?
これから先、未来を持たない人間には、今を生きてる人間が、何を言ってやれば。
「なあ、◆◆。お前もこれまで色々と大変だっただろうけど、俺は俺で伝えたい事伝えるぞ」
何だよ、シカトされたと思ってんのか?
勘違いされたくないけど、じゃあでもどう伝えれば。「もう死んでる相手に何を言っても無駄だ」ってか? ふざけんな、相手は父さんだぞ。
どうすれば良い? 何を言えば良い? 俺は、この人に――
「お前は優しい子に育ったよ。本当に、俺なんかには勿体ないくらいの出来た息子だ」
――何をしてやれてたんだ。訃報を告げられてから、今の今まで。
優しくなんかない。出来てなんかいない。あんたにとって勿体ない息子なんかじゃない。
ただ父さんを満足に見送れない、情けない自分でいたくないだけだ。振り切る事を諦めて、引き摺りながら進まざるを得ないと再確認する自分の正当性に酔いしれてるだけだ。傷を受け入れたふりをして、永遠に引っ付く哀しみと共存できたんだと自分を騙していただけだ。
こんな出来の悪い卑怯者を、『優しい』だなんて褒めないでくれ。
「……ま、いきなり死人が声をかければそうもなるわな。でも母さんを責める馬鹿親共を蹴り飛ばしたのも、俺が生きていれば俺の役割だっただろう。それをこの五年間、ずっと続けてくれたんだ。そんなに疲れて泣きそうな顔をしながらでもな」
悪かったな畜生。仕事大変なんだよ。これからもっと大変になるんだよ。
「何はともあれ、ありがとうな。俺も心残りが多い人生になっちまったが、お前と母さんが幸せなら他に何もいらないんだ。父親ってのはそういうもんさ」
うるせえな、俺はあんたとも笑って過ごしたかったんだよ。あんたが好きそうなゲームとか映画とか、あんたが死んでからどんどん出てるんだよ。一緒にゲームやりたかったし、一緒に映画観たかったんだよ。たまに休みの日に笑いながら感想とか言い合いたかったんだよ。できねえのが悔しくてたまらねえんだよ。
「あと、最後にこれだけ」
んだよ。
「就職おめでとう。これから大変だとは思うけど、ちゃんと飯は食えよ」
わかってんだよそんなの。言われんでも食うわ。食いまくるわ。
「「じゃあな」」
声と共に、奇妙な喪失感が全身を覆う。
ああ、これまでずっとそばにいたのか。この感覚は、それがいなくなったって事か。
死んでもそこまでやれるとはな。元気なこって、羨ましいぜ。
「……帰るか」
いつの間にか涙と鼻水でぐしゃぐしゃになってた顔をハンカチで拭いて、今度こそ後ろを振り返る。
誰もいない空間に一抹の寂しさを覚えた。
「あ、そうだ」
この寂しさはきっと消えない。一生心の形として残り続ける。
「缶コーヒー買ってこ」
ただ一つ言える事があるとするならば。
結局最初から最後まで、夕映えの美しさは変わらなかった。