その1
未だ太陽が欠片も顔を出していない暗闇の中、一振りの剣を抱えながら気配を殺して歩く影があった。
少し大きめのログハウスと形容するのが最も適していると思われる、とある不動産屋の店舗兼従業員寮の裏口から音も無く外に出て、自身に可能な身隠しの技術━━と言っても精々が素人に毛が生えた程度で、気配を僅かに薄めることが出来るぐらいでしかないのだが━━を総動員しながら、虫の鳴き声の一つすらない静寂を壊さぬよう、一歩、また一歩と、湧き水を引いて作られた洗い場の方へと向かっているのは、褪せた金色の髪の青年だった。
青年の名は、アーネスト・ルベルニクス。
【レッドウッド不動産】で働き始めてからそろそろ半年を迎えようとしているが、未だ新人と呼んで差し支えのない雑用係である。
自分から望んで勤めることになったわけではなかったからか、色々と思うところがあったようで、初めの一ヶ月などは職場の雰囲気にも人間関係にも馴染むことが出来ず、それはもう酷い有り様であったのだが、最近では当初の痛々しい程の刺々しさも和らいで随分と仕事も覚え、公私共に問題なくやれているように見える。
生来小器用な人間ではあるので、今後はさして心配せずに済みそうな気配であった。
その彼が、暗闇と身を切るような冷たい空気の中、草木も未だ微睡みどころか深い夢から覚めやらぬような、朝と言うにも多分に早すぎる時間に、物騒な物を片手に一体何をしているのかといえば━━
只管に素振りをしていた。
店舗から息を潜めながら歩くこと五十秒。
一見すると四阿のような屋根付きの洗い場の手前には、ちょっとした家のひとつぐらいなら余裕で収まりそうな広さの、程好く平らに踏み固められた空間がある。
暖かい季節になると、休日の昼などに肉焼き会をしたりして使われている空間であるが、時刻も時刻であるため、現在は他に人の姿などある筈もなく、真ん中にぽつんと一人、アーネストが立っているのみだった。
片手用として考えると、もう少しだけ短いほうが扱い易そうに思える両刃の剣を右手一本で抜き放った彼は、一旦洗い場に備え付けの物置台に鞘を置いてから広場へ向かうと、一人黙々と剣を振り始めた。
眼前に本人の心の目でしか見ることのできない仮想の敵を想定しているのか、防御や回避の姿勢も交えながら斬って斬って蹴って払って突いて斬って斬って避わして受け流して斬って殴って蹴ってまた斬って…… と繰り返される動きは、誰に師事する訳でもなく彼が己が身ひとつで作り上げ、磨き上げてきたものだ。
延々と途切れることなく繋がっていくそれらの動きは、夜の帳を斬り裂きながら荒々しくも独特の間と緩急をもって、宛らひとつの舞のようにも見えた。
◆ ◆ ◆ ◆
店舗兼従業員寮であるログハウスからそれなりの距離はあるものの、あまり大きな音を立てて良い時間帯とは言い難いため、時折発したくなる気合を抑えながら無心に剣を振り続けていると、すっかり暖気の済んだ身体から汗が蒸気となって立ち昇り始めた。
「ふぅ…… そろそろ夏季に入るはずだってのに、いつまで経っても寒いなぁ、ココは」
苦笑しながら洗い場の方に足を向け、丸太を切り出して申し訳程度に形を整えて作られたらしい簡素な椅子に引っ掛けておいたタオルで汗を拭ってから、また広場に戻る。
ほぐれた筋肉の状況を考慮して、威力と速度を上げてもう一度。
「ッ!!」
最後を横一文字に振り抜いて一連の流れの〆とし、大暴れする心臓を宥めながら再び洗い場まで赴いて汗を拭う。
先程よりも力を込めて、しかも倍以上の時間を動き続けていただけあって、すっかり息が上がってしまっていた。
「ハッ……ハハッ…… 流石に、結構、鈍っちまってる、なっ」
汗を拭いながら呼吸が落ち着くのを待って、更にもう一度。
今度は一切加減無しの全力だ。
爪先、足首、脹脛、膝、腿、股、腰、腹、胸、背中、肩、二の腕、肘、前腕、手首、手を経て剣へ。
力が身体の中を移動していくことを自覚しながら、先ずは左袈裟に一閃。
一年以上怠けていたツケは無視できる筈もなく、会心と言うには程遠いものではあったが、思ったよりもしっかりと力の乗った刃が鋭い音を発しながら大気を斬り裂いた。
想像していたよりかは悪くない。
しかし、そう思った次の瞬間、星明りを纏って夜の闇に走った一筋の線は、勢い余ってそのまま吸い込まれるように大地に突き刺さった。
「あ……」
大きな音を立てることだけは避けられたものの、土だとばかり思っていた地面のすぐ下には恐ろしく硬い層━━多分岩か何かだろう━━があったようで、深く突き刺さってしまった刃が、どれだけ力を入れようともびくともしない。
しんと静まり返った夜闇の中を、何処からともなく乾いた風が吹き抜けていった気がした。
「ぬぐっ…… ぬぅぅぅ!?」
これは不味い。
非常に不味い。
何が不味いって、今ちょっとムキになって思い切り力を込めたら、ポッキリ折れてしまいそうな極めて危険な感触が手に返って来たのが果てしなく不味い。
湯気が出るほどに温まっていた筈の身体の芯が、一瞬にして凍えるほどにまで冷めた気がした。
「あっ…… ぶなっ!? 今折れてたわ。 もうちょっと力入れてたら絶対折れてたわ」
このあいだの休日に手に入れたばかりの、新品と言って差し支えの無い剣なのである。
以前愛用していた剣は、とある糞ヒゲ親父に粉々にされてしまったので諦めるしかなかったが、仮令それよりも数段劣ってしまう無銘の剣とはいえ、こつこつ貯めてきた貯金を切り崩して買ったばかり━━ココ重要━━のそれなりのお値段がするものを、こんなに簡単に、こんなに間抜けな状況で失ってしまうような事態は、とてもじゃないが容認できない。
額に浮かんだちょっと油っぽい嫌な汗を手の甲で拭ってから、突き刺さってしまった剣の前にしゃがみ込んで根元を眺めてみる。
剣の腹を軽く小突いてみたが、まるで最初からそこに生えていたかのように、しっかりと突き刺さってしまっている両刃の剣は、キィィィン……と無駄に良い音で大気を振るわせるだけで、やはりどうやっても抜けそうになかった。
これ、引っこ抜けたら王様にでもなれるんじゃないだろうか?
「どうしたもんかなぁ…… これじゃ」
鍛錬の続きなんて出来やしないし、このまま放っておく訳にもいかないよなぁ。
そう呟こうとしたときだった。
視界の端に、この半年の間で随分と目にするようになった『色』が佇んでいるのに気が付いたのは。
硬直していたのは一瞬だけ。 そこからゆっくりと視線をそちらへ向かわせると、自然と『それ』と目が合った。
嫌なところを見られたという気まずさと、普段からどうにも気配の読めない『それ』が、今もまた一体いつからそこにいたのかという気味の悪さに、反射的に頬が引き攣るのを止められない。
「やあ、アーネストくんこんばん…… いや、おはようでしょーかね? それはそうと、こんなところでこんな時間に、何をそんなに面白い顔をしてるんです?」
その人物を表現するには、色を一つ挙げるだけで事足りる。
「てべっ てっ! 店長こそ相変わらず無闇矢鱈と赤いですね。 そっくりそのまま返しますけど、しばらく見ないと思ってたら今日はまたイキナリこんな時間にこんな所に現れて…… ヒミカさんが寂しがってたじゃないですか。 半月も留守にして、今度は一体何してやがったんですか」
上ずってしまいそうになる声を必死に抑えながら返事をしてみたが、なんだかもう色々と駄目だった。
出鼻を噛んだ挙句に自分でも訳のわからないことを口走って、ついでに愚痴ともなんとも言えないようなことをあまりよろしくない口調で垂れ流してしまっている上に、会話にすらなっていないような気がする。
仮にも自分の雇い主にあたる人物に対して、これは多分駄目だろう。
本人がまるで気にした素振りを見せていないとしても、普通は駄目なんじゃないかなあ。 うん。 ちょっとだけ目を逸らしておこう。
「あっはっはっ。 そんなに褒めても何も出ませんよう。 まあ、正直たいした用事があった訳じゃないんですけども、毎年このぐらいの時期になるとチョットお店を離れたくなるというか何と言うか…… それに、今の時期にヒミカさんの近くにいるとチョット不安なので、出来ればもう暫く離れていたいと言いますか……」
何故だか気まずそうに視線を逸らしながら「大事な仕事があるからそうも言っていられなくて戻ってきちゃったんですけどねー」と肩を竦めるのは、夜目にも赤いと判る、そして只々赤いとしか表現の出来ない女性だった。
広場の端にある大岩に腰を掛けて、僅かに上体を揺すりながら翡翠色の瞳でこちらを見ている。
足元にパンパンに膨らんだ大きな背嚢が置いてあるところを見ると、つい今しがた何処かから帰ってきたといったところだろうか。
あと、褒めた覚えが一切無いんだけども、俺は今の会話の一体どの辺で彼女を褒めたんだろうか?
とまあ、それはさておき、彼女について先ずはその外見から触れてみようと思う。
いつも首の後ろで結わえて背に流している少々癖のある長い髪がとにかく赤い。
今まで生きてきた中でも、一般に赤毛と呼ばれている人ならば星の数ほど見てきたと思うのだが、本当に赤としか表現出来ない赤毛を目にしたのは、今、目の前でへらっとした笑みを浮かべている女性の髪が初めてだった。
夜の闇の中ですら有り余る自己主張を発揮している赤髪は、いっそ内側から光でも発しているんじゃないかとすら思える程に徹底的に赤い。
本人曰く、「ずっと昔にR255なんて言われたこともありましたっけね~。 あっはっはっ」だそうだが、正直何を言っているのかサッパリ判らなかったので、その時は曖昧に笑っておいた。
そして、髪が赤いだけならばまだしも、この人物は一体何を考えているのか、衣服まで赤系統の物しか身に着けないため、全体的に見てみても、とにかく赤いとしか言い様がない。
自分はどうやら彼女の遠出からの帰り道に出くわした状況であるらしく、現在は少々汚れて草臥れた旅装を身に纏っているようなのだが、現にその外套から何から、濃淡明暗に多少の差異はあっても、布地の殆どが赤の色で統一されている。
常日頃から、その配色に然したる変化は無く、兎にも角にも『店長』と言ったら赤であり、『赤』と言ったら店長としか言いようがない。
しかも此処は、ただでさえ色彩に乏しい雪山の真っ只中であるため、近かろうが遠かろうが、目に入った赤いものは、もう大概この人物だと思っておいて間違いが無い程だ。
自分がおかしな…… 本当におかしな経緯で勤める羽目になってしまったこの【レッドウッド不動産】。
その主人である女性は、そんな人物だった。
しかしまあ、ただ赤い赤いと言うだけでは流石に芸がないので、もう少しだけ語っておこうと思う。
外見の年齢は自分よりもいくらか上程度で、二十代の中盤から後半ぐらいの人族に見える。 三十には届くまいといったところだろう。
しかし、その中身が見かけどおりの年齢であるなどとは到底思えないので、本人や周囲の人間に訊ねてみたわけではないが、何某かの長命種の血が入っているのではないかと思っている。
初めて顔を合わせてから半年にも満たない付き合いしかないが、その短い期間の内ですら、百年二百年程度であれば平気でぼけ~っと生きていそうな気配をひしひしと感じているので、きっと間違いないだろう。
身長は人族の女性準拠で考えるとやや高めで、目線が自分とほぼ変わらない。 少々悔しくはあるが、ひょっとしたらほんのちょっとだけ自分よりも高いのかも知れない。
自分は男性の平均的と言われている身長殆どそのままであるのだが、正直なところ、もう少しだけ伸びて欲しかった。 贅沢は言わないから、せめてあと三センチ。
これまでの人生でもう何度言ったのか解からない台詞ではあるのだが、何故もっと頑張らなかったのか成長期の俺の骨。
おっといけない、話が逸れかけている。
爪先から頭の天辺までをあらためて見てみると、たしかに女性としては背が高いように思える。
そんなことを考えていたら不思議な顔をされて首を傾げられた。 ちょっと視線が不躾だったかもしれない。 反省反省。
あくまで私見でしかないのだが、顔の造作については十分に整っていると思う。
ただ、美人だの美形だの言う方向というよりは、何処となく愛嬌のある、見ているとほっとする系統の顔とでも言うべきなのだろうか。
彼女の中で唯一の異彩と思われる翡翠色の瞳も、アクセントとして悪くないんじゃないだろうか。
まあ、ヒミカさんには遠く及ばないとしても嫌いな方向性の顔ではない。 俺の先輩マジ女神。
中央大陸の人間にしては少しだけ色が濃いように思える肌は、健康的でいつも瑞々しくてきめ細かいし、傷のひとつも見当たらない。
料理をするのが好きなんだそうで、しょっちゅう何か作って振舞ってくれたりするから食費の面では非常に助けられているのだが、それに加えて年中洗濯などの水仕事もしている割には、手荒れなんかも目にした記憶は無い。
その辺を見ていても、やはりさっぱり年齢が掴めないので、いつか本人に訊ねてみるべきだろうか?
ヒミカさんが言うには、物事に相当こだわらない人なのだそうで、大抵のことは訊いたら答えてくれるらしいのだが、いざとなると答えを聞くのが怖いような気がしないでもない。
体型は、なんと言うか、太っても痩せてもいなくて、強いて言うならばしっかりとしている。
存在感が妙に安定しているように感じられるのは、バランスが良いとでも言うんだろうか?
ただ、とある部分については誠に遺憾であるとしか言いようがない。
流石に敬愛するヒミカさんぐらいのボリュームを期待するのは酷だとしても、せめてもう少━━
「アーネストくん? 言いたいことがあるなら、ほら、ちょっと目を見て言ってみてくれませんかね? アナタの上司はとてもとてもココロが広いので、どんなことでも真摯に受け止めて差し上げますよ? 不思議なことに三ヶ月くらいの間お給料が残念なことになってしまうかも知れませんが…… ささ、どうぞどうぞ?」
「っ!? ひっ…… 人の頭の中のことに反応しないでくれませんかね? 心臓に悪いんで。 いやホントに」
何故だかものすごく怪訝な目で見られた。 というか現在進行形で見られている。 背中を嫌な汗が流れている気がする。
貯金が元の額にまで戻るのには、思いのほか時間がかかるのかもしれない。
さて、そんな訳で未だこちらにじとっとした視線を送ってきている【レッドウッド不動産】の主について…… いや、大抵の人にとって、ある意味最も肝心な話をしよう。
この人物の名前についてである。
彼女は普段、皆から『店長』とだけ呼ばれているため、【レッドウッド不動産】内において、その名前を呼ぶ者がまずいない。
たまにやってくる馴染みのお客様方から『レッドウッドさん』なんて呼ばれているところを見たことがあるのだが、それが彼女の名前と言うわけではないのだそうだ。
我が愛しの先輩従業員であるところのヒミカさんの名前についても同じであるらしいのだが、その名前に使われている言語は、元々世界の東の端のあたりにある小さな島国でのみ使われている独自のものであるらしく、此処、中央大陸の住人にとっては馴染みが薄く発音の難しいものだった。
普段から気軽に呼ばせてもらっているように、ヒミカさんについては特に苦労などすることもなく口に出来たことから、何度かチャレンジしてはみたものの、ついぞまともに発音することできなかったため、少し負けたような気分ではあったが、結局自分も『店長』とだけ呼ぶに至っている。 この辺はやはり愛の差なのだろうか?
幾度かの挑戦はしてみたものの全く上手く発音できなかった自分を見た時の、一瞬、なんと表現したらいいのかもわからないような複雑な表情と、その後の酷く遠くを見るような目は、ちょっと悪いことをしたような気がして鮮明に憶えている。
故に、自分には彼女の名前を伝えることが出来ない。 耳で聞けば辛うじてそれと分かりはするのだろうが、それを口頭で他の誰かに伝える術を持っていないのだ。
では、文字にして何かに書き出してもらえば良いじゃないかと思う人もいるだろうが、まさかそれを試していないとでも?
「こう書くんですよー」と、笑顔でさらりと書いてくれた名前は、見事に件の東の国の文字で書かれていた。
多分にからかわれてるんじゃないかとは思ったのだが、考えてみれば彼女の名前を口にする機会なんてまず無い訳だから、最終的に特に問題は無いじゃないかと開き直ることにした。
とりあえず、以上が今のところ自分の知る限りの雇い主である【レッドウッド不動産】の『店長』と呼ばれている人物だった。
「で? アーネストくんは結局一体何をしてるんです?」
広場の端に鎮座している大岩の平らな面に腰を掛けて、足をぷらぷらさせながら二度目の問いを投げかけてくる店長に、せめてもの反撃とばかりに嫌な視線を送りつつ溜息を一つ。
少しはこちらの空気を読んで放っておいて欲しいものである。
足元に置かれている大きな背嚢は、容量の限界に挑戦したんじゃないか?と思えるほどに膨らんでおり、刃物で突いたら破裂しそうな気配すら漂わせている。
時折ギシっとかミチっといった感じの音が出ている気がするのだが、これはきっと触れないでおくのが吉だろう。 下手に手を出したりすると、きっと碌なことにならない。
「ちょっと素振りしてたら勢い余ってこの通り…… しかも全然抜けなくなっちゃって困ってたとこですよ。 ええ」
くそぅ…… 穴があったら入りたい。
「なるほどなるほど。 それはまた面白いことしてますねー」
邪気の無い笑顔でそう言ってくれるが、こっちは何一つ面白かねえんですよコンチクショウ。
と、悪態の一つも吐いて差し上げたいところを、ぐっと我慢した自分はちょっとだけえらいと思いました。 でも危ない危ない鎮まれ俺。 落ち着け俺。 こんなのでも自分の雇い主。 雇い主だから。
「どれどれ、ちょっと見せてもらいまーすよっと?」
そう言って大岩からひょいと飛び降りてこちらにやってきた店長は、地面に突き刺さったまま微動だにしない剣をしげしげと眺め始めた。
立ち上がって腕組みをしている自分に対して、地面から生えた剣を挟んで向かい側にしゃがみ込んでいるため、ここからだとちょうど旋毛が見える。 突っつきたい衝動に駆られたけど我慢した自分をちょっとだけ褒めておこう。
「しかしこんな時間に素振りなんて…… アーネストくんはそんなに強くなりたいんですか? 強くなって何かしたいことでも?」
そんな益体の無いことを考えていたところ、剣の腹をこつこつと叩いたり摘んでみたりしながら、紅白の渦巻きがそんなことを訊いてくるのだった。
強くなりたいのか? と問われれば迷わず是と応える。
それについては今も昔も変わらないと断言できる。
男に生まれたからには、それなりに強くありたいと思うのは半ば生理的な欲求に近いものじゃないかと思うし、力を持つことは、持たないよりはずっと良いことだと思うからだ。
しかし、その力で何かをしたいのか?と問われると、すぐに応えられるような言葉を今の自分は持っていなかった。
以前の自分には確かに目的があり、そのために強さを、力を求めていた筈なのだが、それは一つの結果が出てしまった、もう終わってしまったことである。
ならば、今更強さなんて求めて自分は一体何をどうしようというのだろうか?
「……俺は」
「あ、これなら意外と簡単に抜けそーですね。 ここをちょっとこうで……」
店長、自分は今、結構真面目な話をしようとしていた気がするんですが━━
そんな心の声にはまるで気づいてくれぬまま、大して力の入っている様子の無い、「ほいっ」という掛け声が聞こえたと思ったら、あれだけがっちりと地面に食い込んでいた筈の剣は驚くほどあっさり引き抜かれた。
「うそん」
さっきまでの苦労は一体なんだったのかと思えるほどの気軽さでそれを引っこ抜いた赤髪の女性は、普通の成人男性ぐらいでは身体の方が振り回されてしまって、そう簡単には振ることなんて出来ない重量があるはずのその剣を、左手を腰に当てた状態で右手一本で無邪気にぶんぶんと振り回している。
ひょっとしたら見た目よりも結構な体重があったりするんだろうか?
うっかり口に出したが最後、不幸な未来がやってきそうな気配を感じたので、とりあえず黙っておくことにした。
「おぉぉ、ひょっとして良いものですか?これ。 なんとなく良い音がする気がしますよ?」
店長が剣を一振りする度に、なにやら形容し難い危険な風斬り音が出ている気がする。
ちょっと信じられないものを目にしているような気がしたのだが、多分、これは深く考えてはいけない事態なのだろうと、この場では考えることを放棄することにした。
カムバック心の平穏。
「フムム…… まあ、剣とかはサッパリわからないので私じゃ無理ですが、時間があったらヒミカさんに相手してもらったら良いんじゃないですか?」
振り回すのに満足したのか、そこはかとなくスッキリしたような良い笑顔で、「あ、これ返しますね?」と剣をこちらに寄越した店長の言葉に、自分は一瞬耳を疑った。
「は? なんでそこでヒミカさんが出てくるんで……?」
「おや? アーネストくんは知りませんでしたっけ? ヒミカさん強いんですよう? 槍とか得意なんだったかなぁ…… せっかく近くにいるわけですし、暇なときにでもちょいちょいっと稽古つけてもらったら良いんじゃないかと」
いやいや、そんなちょいちょいっととかご冗談を。
それは確かに近くにいると凄く良い匂いとかはするけど、強そうな気配なんてのは今まで全然これっぽっちも感じたこと無いんですが……
「ヒミカさんってのは、銀髪に近い水色の髪の神懸った美人で普段はデキる女って感じなのに不意の仕草が絶妙に可愛らしくて胸が素晴らしい感じの俺の先輩で教育係だったりするあのヒミカさんのことで合ってますか? それとも何かこう、同じ名前だけど戦闘力に特化した感じの戦士系のヒミカさんが何処かに……?」
自分で言っておきながら正直そんな偶然はまず無いだろうとは思ったんだけれども、それでも念のため確認は取っておくべきだろう。
「んっ、んん~…… まあ、この辺でヒミカさんと言ったら一人しか知りませんし、多分、その素晴らしいおっぱい?のヒミカさんで合ってるんじゃないですかねぇ」
俄かには信じられないといった表情を浮かべている自分に対して、ほんの少しだけ考えるような素振りを見せた後、「そもそも」と付け加えて彼女は言った。
なんとく、その表情には呆れが多分に含まれていたような気がしたが、きっと見間違いかなにかだろう。 ほら、暗いし。
「それなりの腕っ節というか、最低限自分の身は守れるくらいの力は持ってないと、内見案内とかを任せたりなんてできないじゃないですか」
言われてみれば確かにそうである。
【レッドウッド不動産】にやってくるお客様というのは、つまるところダンジョンを求めてやってくるものたちである訳で、それは取りも直さず一般に『人』と定義される生物の域を悠々と三段飛ばしぐらいで超えてしまっている存在が大半を占めていると言って良い。
中には稀に見た目だけは普通と思える範囲の人族に近しいお客様もやって来るものの、大抵は見た目からしてアウトと言わざるを得ない魔族に魔物に精霊に……
自分は未だに出くわしたことがないので運が良いと思っておくべきかどうか少々悩むところだが、「出会ったらもう諦めろ」の代名詞である竜族や、果ては何処ぞの魔王様ご本人なんてものまでやってくることがあると言うのだから、人外魔境どころの話ではない。
敬愛する薄水色髪の先輩従業員の前でこんなことを口に出したら怒られてしまうかもしれないが、正直なところ十中八九が極力関わりあいになりたく無いレベルの歩行機能付き爆発物━━安全装置解除済み━━のような存在と言ってしまっても過言ではないだろう。
そんなお客様方を相手に物件の内部を案内したりする業務を日常的にこなしている人物が、果たして戦力的な意味で平凡な能力しか持っていないなどということは、ある筈が無いのだった。
女神な上に強い…… だと?
なんて恐ろしい人なのか我が先輩従業員様は。 完全無欠だとでも言うのだろうか。
しばらく呆然と立ち尽くしていたら、いつの間にか店長はその姿を消していた。
遠出からの帰りの途中だったようだし、旅装を解くために自分の部屋にでも行ったのだろう。
相変わらずただのログハウスにしか見えない店舗兼従業員寮に目をやると、ちょうど店長の部屋の窓のカーテン越しに灯りが点ったところだった。