その扉を開けば
飛行機雲が、見えた。
四限目の国語の授業が終わるまでは、あと三分。
「―――え〜……ここら辺は今度のテストに出るからよく見とけよ〜」
お決まりの教師のセリフ。教室を見渡せば、寝ている生徒や真面目にメモを取っている生徒。すでにこっそりとお弁当を広げている奴もいる。
私は欠伸をしながら教卓の真上にある時計をぼんやりと眺めていた。
あと、二分。
授業中の時計の針は、どうしてこうもノロマなのだろう。見ていてもどかしい。
ふと隣を見ると、私と同じように時計を眺めている人を何人か見つけた。
あと、一分。
いつもの風景。ゆっくりと流れる時間。うんざりする程同じ事の繰り返し。
ああ、つまらない。
時計から目を離す。教師はまだ何かを喋っている。私は教科書を机に仕舞い始める。
――キーンコーンカーンコーン……――
チャイムが鳴った。それと同時に、静かだった教室が一気にざわめく。
「やっと終わったぁ〜! 亜美、ご飯食べよ〜」
間延びした声を発しながら近付いて来たのは、親友の未羽だ。
「うん……って、未羽……今日はちょっと買いすぎじゃない?」
「そぉかな〜? でもいつもよりちょっぴり沢山買っちゃったかも〜」
言いながら、嬉しそうな顔で朝コンビニで買ってきたらしいモノ達を眺める。大量のパンだ。裕に十個以上はあるだろう。未羽の大食いっぷりにはもう慣れたが、それでもたまに驚かされる。
「未羽の胃袋って本当に小宇宙だよねー」
「そんなことないよ〜。普通だよ〜」
それが普通だったら、ある意味恐ろしい。そう思いつつ、私は玉子焼きを口に入れる。
「うん。今日は上出来」
「本当に? 未羽も食べて良い?」
片手にメロンパンを持った未羽が、すかさず空いた方の手で私のお弁当に手を伸ばす。私はそれを制して、未羽の前にある大量のパンの一つを突き付けた。
「自分のがあるでしょ? 未羽に食べられたら私のお昼無くなるし」
「むぅ〜……」
「そんな顔してもダメ」
この会話はいつものことだ。前に一度、本当にお弁当を全部食べられたことがある。食べられる前に止めないと私は毎日お昼抜きになってしまう。
「にしても亜美は偉いよね〜、毎日自分でお弁当作ってさ〜」
何事も無かったかのように未羽が口を開いた。本当にマイペースな子だ。
「うん。まぁね〜」
私はそれを適当に聞き流し、ウインナーを口に運んだ。
「なーんかなぁ〜……」
あまりにも平和な日常。決して楽しくないわけじゃない。でも、何か足りない。
「そういえば、今日すっごい良い天気だね〜」
ぼや〜っとした未羽の声。なんだか眠くなる。
「そうだね〜……」
教室の窓から空を眺める。私の席は窓際の一番後ろ。まさに特等席だ。
春の日だまりが窓から差し込む。仄かに香る花の匂い。
こんな、毎日。
「…………ん」
私は食べかけのお弁当を未羽の方に押し付け、立ち上がった。
「どうしたの〜?」
キョトンとしながらこちらを見つめる未羽。
「ちょっと行ってくる。そのお弁当食べて良いよ」
「本当に? やったぁ〜」
喜ぶ未羽を置いて、私は教室を出た。少し振り向くと、未羽は早速私の玉子焼きに手を付けている。
「はぁ〜……」
ため息を吐きながら、廊下を歩き出す。 昼休みだからか、人はあまりいない。
のんびりと歩きながら両手をブレザーのポケットに入れる。これは昔からの癖だ。両手が空いていると、どうも落ち着かない。
しばらく歩くと、廊下の突き当たりに到着した。その右手にひっそりとある小さめの階段を上る。
一段、二段、三段、四段、五段――――
途中まで数えながら上っていたが、面倒になって止めた。
階段を上り切った所に、白い扉を見付ける。
鉄製の、よくある扉だ。私はその扉のドアノブを握った。少しひんやりとしている。
――ガシャ……ン
鉄が錆びたような独特の音が響き、案外簡単にその扉は開いた。
暖かいような涼しいような、気持ちの良い爽やかな風が吹き抜ける。コンクリートで出来た何もないだだっ広い場所。屋上だ。
私は扉から手を離し、屋上の端にあるフェンスに近付いた。背後で扉の閉まる音がした。
「ふぁ〜……気持ちいい……」
空は雲一つ無い青空。さっきの飛行機雲はもう見当たらない。ぽかぽかした日の光。春の風は優しくて、眠気を誘う。
「ここ、良いかも」
私は思わず呟いていた。思いつきで来てみたが、既にここが気に入り始めている。屋上は一応開いてはいるのだが、タバコを吸ったり落書きをしたりする生徒がいないか先生が見回りに来るため、あまり人が来ないのだ。
下を見ると、グラウンドでサッカー部や野球部が昼練をしていた。たまに掛け声が聞こえてくる。
その時だった。
――ガシャ……ン
背後で響く扉の開く音。先生が来たのかも、と思い私は身構えた。
「あれ? 珍しいな。先客じゃん」
入って来たのは先生ではなく、普通の男子生徒だった。ふっと肩の力が抜ける。
少し茶色がかった短い髪。やんちゃそうな顔立ち。知らない顔だった。この学校は少人数制なので、殆どの人の顔は知っているはずなのに。
「お前、見たことない奴だな。何でここに居んの?」
そいつはのんびりと歩み寄りながら、問いかけてくる。なんか馴れ馴れしい奴だな、と私は思った。
「……別に、なんとなく思いつきで」
「ふーん。まぁ理由なんてどうでも良いんだけどな!」
なら聞くなよ。明るく言ってのける男子生徒に、私は心の中でツッコミを入れる。
「……そっちは?」
私が問い掛けると、そいつは待ってましたと言わんばかりに目を輝かせた。
「ふっふっふ。よくぞ聞いてくれたな! 俺はな、この屋上で、この学校で一番高い場所で……」
言いながら、そいつはフェンスのすぐ前にあるブロックのような物に片足を掛け、両手を目一杯広げる。
「お日様のパワーを貰っているのだ!」
暫くの沈黙。私は耐えきれなくなって、思わず吹き出した。
「ぷっ……あっははは! 何それ!? 意味分かんない!」
お腹を抱えて笑う私に、そいつは本当に怒ったようで。
「笑うな! 何が面白いんだよ?」
「あはは……! だって……お日様って…………もう止まんない! あはははっ」
こんな面白い奴は始めてだ。ここに来て良かった、と私は頭の隅っこで思う。
「お前、お日様のパワーの凄さを知らねぇだろ! よぉし、見てろよ!」
そう言うと、太陽に向かって両手を目一杯広げ、目を閉じる。
茶色い髪が太陽の光に当たってさらさらと光る。
「お日様ー! 俺にパワーをくれ!」
あまりにも必死なそいつに、私はやっぱり笑いが止まらない。
「あんたさ、生きてて恥ずかしくない?」
「酷っ! お前今、俺の人生を全て否定しただろ!」
両手は広げたまま、頭だけを私の方に向けながら叫ぶ。
だめだ、面白すぎる。
「その恰好で話すの止めてくれる? 面白すぎるんだけど……ぷっ」
「だからぁー、笑うなって! ほら、お前もやってみろよ! な!?」
そう言って、そいつは片手で私を手招きする。
「やだよ。バカみたいじゃん」
「そんなことねぇって! ほらほら、早く!」
「……はぁ。分かったよ」
どうせ誰も居ないし。私はのろのろとそいつの隣に立つ。
「ほら、両手を広げて!」
「はいはい……」
そいつに促されるまま、私は両手を広げた。
「よし。で、目を閉じて願うんだ。お日様、パワーを下さいってな!」
そう言うと、そいつは目を閉じて黙ってしまった。私もそれに倣い、目を閉じる。
お日様、私にパワーを下さい……。
辺りはまるで何も無くなったかのように静かになった。暖かい春の日だまりが、私を包み込む。何だかよく分からないけれど、暖かくて、それでいて気持ちの良い何かが体に染み渡る。
これは……?
ゆっくりと目を開ける。隣を見ると、にこにこと嬉しそうな顔でこっちを見ているそいつが居た。
「な!? パワー貰えただろ?」
「うん……」
私の返事を聞くと、そいつは満足気な顔をしてまた空を眺め始めた。
「俺、毎日ここに来ては、お日様にパワーを貰うんだ。そしたら、どんなに辛い日でも、どんなに苦しい日でも、元気になれるんだ。やっぱお日様ってすげぇよな!」
明るく話すそいつは、本当に……
――キーンコーンカーンコーン……――――
チャイムが鳴り響く。なんだか現実に引き戻されたような、複雑な気持ちになった。
「あ、もう鳴ったじゃねぇかよ〜……んじゃあな! お日様パワーで午後も頑張ろうぜ!」
手を降って、さっさと扉を開ける。
あの錆びた音が鳴り響いて、そいつは消えてしまった。
「……変な奴。」
私はそう言いながらも、自分の表情が緩んでいるのを感じていた。そう、本当に、変な奴だったけど。
「太陽みたい」
お日様のパワーを貰いすぎたあいつは、本物の太陽みたいで。
私の体には、間違いなく何かの「パワー」が流れていて。
こんな毎日。捨てたもんじゃない。……かもしれない。
――――いつもの昼下がり。廊下の突き当たりにある階段。白い扉。
ひんやりとしたドアノブを捻ると、春の暖かい風が吹き抜ける。
そういえば、まだ名前を聞いていなかった。今日、聞いてみよう。
太陽みたいな、不思議なあいつに。