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ミームイーター

作者: 早瀬悠斗

 医療小説風のあらすじですが、実はクトゥルフ神話作品だったりします。

 診察室に新たな患者がやって来たとき、私は正直いって疲労し、かなり苛立ってもいた。20代のころならともかく、この年になると夜勤は心身に堪える。全身の筋肉と関節が緩慢な抗議の声を上げ、すでに十数時間稼働させている脳の一部がストライキを起こしていた。

 「先生、うちの夫が大変なんです! いきなり様子がおかしくなったんです。」

 患者より先に、ヒステリックな声とともに診察室に駆け込んできたのは裕福そうな中年の女だった。かつては美人だったらしく、今もその痕跡は残っているが、無理な若作りと派手で悪趣味な服装のせいでそのほとんどが台無しになっていた。

 「まず、ご主人を連れてきていただけますか?」

 私はうんざりしながら答えた。大変だとか様子がおかしいとかではなく、症状を具体的に言ってほしいものだ。私の診療科目は精神科だ。女の口調からしてまず思いつくのは統合失調症の発作だが、普通、この女の夫となるような年齢の人間がこの病気を急に発症することはありえない。

 統合失調症は、普通思春期から30代で発症する。女の年齢は50歳ぐらいで、ということはその夫のほうも50代だろう。だから統合失調症の可能性はまずないと言っていい。まあもちろん、世の中には年の離れた夫婦も存在する。目の前の女の夫が、女の財産目当てに結婚した若い男だとすれば、統合失調症の可能性は出てくるが。

 だがもっと可能性が高いのは、その夫とやらがストレスによる抑鬱から自殺未遂を起こしたという仮説だ。特にこの国の中年男性は、誰にも言わずにストレスをため込んだ挙句、ある日突然自殺することが多い。女は夫の様子がいきなりおかしくなったと言っているから、おそらくこのパターンだろう。

 

 そう考えを巡らせていると、女に連れられて、と言うよりひっぱられて夫が入ってきた。やはり50歳ぐらいでたくましい長身、うつむいているので顔はよく見えない。ただ高価そうなスーツを着込んでいるから、会社でかなり高い地位にいるのだろう。びしっと決めた髪型やブランドものらしいバッグも、この男の社会的地位を暗示していた。

 やはり自殺未遂か。私はこの時点で半ば結論を出していた。大方、会社で過大な責任を背負わされた挙句、そのストレスに押しつぶされたのだろう。そして衝動的に自殺しようとしたところを妻に発見され、この病院に運ばれてきた。

「それで、今日はどのような症状があっていらっしゃったのでしょうか?」

 私は男に向かって質問した。内心では、このタイプは治療が難しいなと考えている。まず仕事から引き離すのが面倒なうえに、引き離したら引き離したでそれがストレスの原因になったりするからだ。


 「先生、それが会社からいきなり連絡がありまして、迎えに行ってみたらご覧の有様で。」

 「奥さん、今私はご主人に質問しているんです。それが終わるまで、発言は控えていただけますか。」

 私は女が勝手に質問に割り込んできたことに苛立ちながら答えた。夜勤中の半ば麻痺した頭に、この女の甲高い声が響くと頭痛がしてくる。毎日家庭でこんな声を聞かされていたら死にたくもなるかもしれないという、精神科医としては不埒な考えまで浮かんできた。

 「す、すいません。でも夫は今喋れないんです。今日、いきなり喋れなくなったんです。」

 「え、喋れない?」

 私は驚いて聞き返した。喋れなくなるということで真っ先に思いつくのは失語症だ。だが、この病気は脳血管障害や頭部の外傷により、大脳の言語野が破壊されることで起こる。つまり、この患者が急性の失語症だとすれば、とりあえず精神科ではなく脳外科に送られるはずなのだが。

 あるいはもう一つの可能性として、失語症ではなく失声症かもしれない。こちらは脳の機能障害ではなく、極度のストレスによって一時的に声が出なくなる病気だ。患者が脳血管障害を疑われることもなく精神科に送られたところを見ると、おそらくこっちだろう。


 「喋れないというのは、何か会社で急なストレスがかかったとかですか?」

 私はとりあえず女に質問してみた。夫を会社に迎えに行った際に、何か発症理由を聞かされたかもしれないと思ったのだ。例えば急な解雇や降格を告げられたとかで、ショックを受けての失声症の発症かもしれない。ただ目の前の男の病気が精神的な原因での失声症だとすれば、精神科医ができることはあまりない。補助的に投薬を行うだけで、あとはカウンセラーの仕事だ。

 「いえ、全くいつも通り仕事をしていたら、急に様子がおかしくなったということなんです。」

 女の口調は相変わらずヒステリックだが、真剣に夫の身を案じていることが伝わってくる。私はこの女についての認識を少し改めた。それにしても、何の理由もなくしゃべれなくなるというのはおかしい。私は男の顔を覗き込んで、もう一度話しかけようとした。


 だがその瞬間、私はこの男の病気がショックによる失声症というような生易しいものではないことに気づいた。男の顔にあるものは驚愕や絶望ではなかった。もちろん喜びや希望でもない。ただ、何もなかったのだ。喜怒哀楽、すべての感情が消滅していた。顔のパーツはすべて揃っているのに、人間の顔を顔たらしめるもの、一般人が精神と呼ぶすべてのものが欠落していた。その眼球は単なる黒いレンズに過ぎず、表情筋はいかなる動きもしていなかった。私はその顔を見て、一瞬この男がそもそも人間であるかを疑った。宇宙人が地球人を形だけ真似て作った人形にしか見えなかったのだ。

 「奥さん。旦那さんは正確にいつ発症されたのですか?」

 私は嫌な予感を覚えながら女に質問した。このような症例を、とある論文で読んだことがあるのを思い出したのだ。

 「私に会社から電話があったのは7時半ごろでした。それで、会社の人は30分ぐらい前に急に様子がおかしくなったと言っていました。」

 

 女の話によると、私でも知っているような上場企業の幹部社員であるこの男は、今日会社で普段通り仕事をしていた。それが午後7時ごろ、何の前触れもなく作業を中止し、社内をふらふらうろつき始めた。不審に思った同僚が声をかけても何の反応もないので、とりあえず妻である女が会社に呼ばれて、男を引き取っていった。家に帰っても全く様子が変わらないので、女は精神科の夜間診療があるこの病院まで男を連れてきたらしい。

 そこまでの話と男の様子を総合的に判断して、私は嫌な予感がほぼ確信に変わるのを感じた。その発症人数のわりにマスコミでの取り扱いがやたらに大きい病気、数か月前に突然世界中で広まり始めた奇病と、男の症状はぴたりと一致するのだ。

そのことを女に告げようとした瞬間、奇妙な感覚が私を襲った。それは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のいずれでもなかった。ただ存在の気配としかいいようがないもの。全身の感覚神経がでたらめに信号を出したような不快な感覚だった。あるいは気分と言ったほうがいいのかもしれないが、それには確かな実体が存在した。私の体内を何かが這いまわっている。見えも聞こえもしないが、ただ神経系だけがその存在を感知しているのだ。それは私の何かを探っているように感じた。


 「先生、どうなさいました。夫の病気はそんなに悪いんでしょうか?」

 しばらく呆然としていたらしい私を不審に思ったのか、女が声をかけてきた。奇妙な存在が体内を這いまわる感覚は続いているが、とりあえず目の前の女に診断を伝えなくてはならない。

 「大変申し上げにくいことですが…」

 私は覚悟を決めて言った。

 「ご主人の病気は、突発性劇症型認知症である可能性があります。」

 私は目の前の女の顔が、緊張から絶望に変化するのをぼんやりと見ていた。



半ば失神状態の女を診察室から追い返し、男を入院させる手続きを取った後、私は突発性劇症型認知症という病気の情報を心中で反芻していた。すでに奇妙な感覚はしなくなっている。

 この病気はその名の通り、アルツハイマー型認知症に類似した症状を示す。発症すると知能の低下と人格の崩壊が発生し、まともな生活が送れなくなるのだ。ただ普通のアルツハイマー病と違うのは、進行速度と人格の崩壊の程度だ。

 アルツハイマー病の進行には数年から十数年かかるし、末期状態になるまである程度の人格は保たれる。対して突発性劇症型認知症はほぼ一瞬、おそらく数分から数十分でそれまでの人格が完全に崩壊する。さっきまで普通に社会生活を送っていた人間が、突然最低限の知性すらない木偶に変わってしまうのだ。

 

 この病気は最初アメリカで報告され、発見時から大きな話題となった。その症状の恐ろしさもあるが、もう一つの理由は症例第一号がノーベル賞物理学者のギルマン・メイスン教授であったことだ。

 アメリカマサチューセッツ州ミスカトニック大学の教授を勤めていたメイスンは、多次元理論に関する業績で90年代にノーベル賞を受賞した人物だ。一介の精神科医である私には全く理解できないが、それまでの宇宙観を激変させるような画期的な研究だったらしい。

 そのメイスン教授だが、2010年代に入って来ると彼のそれまでの理論をさらに突拍子もなくしたような主張をし始めた。何でもわれわれ人間は、この宇宙と並行して存在する他の宇宙に接触することができる。そして、いわゆる魔術とはそれを可能にするための知識の集成であると大真面目に言っていたらしい。

 このような主張は当然問題視されたが、すでに終身在職権を得ていたメイスン教授は、周囲からの非難や嘲笑にもめげず研究をつづけた。専門誌に彼の論文が受理されることはなくなり、受け入れてくれるのは怪しげなオカルト雑誌やサブカル雑誌だけになっていたが、教授はそのことを全く気にしない様子だったという。

 そしてメイスン教授は、数か月前に奇病、のちに突発性劇症型認知症と呼ばれることになる病気を世界で初めて発症した。かつて偉大な物理学者だった男が、物理学の講義をするどころか一ケタの足し算もできない廃人になったのだ。ついに他の宇宙と接触する方法を見つけたと言っていた矢先の出来事だったらしい。

 

 これだけなら、ノーベル賞の受賞後に道を誤った一人の学者の不幸で済ませることができた。実際、メイスン教授発狂のニュースが流れた時の世論の反応は、訳の分からないことを考えすぎて頭がおかしくなったのだろうという嘲笑が大半だった。

 だがメイスン教授と同じ症状を示す患者が続々と現れ始めたとき、人々は笑うのをやめた。数時間前まで普通に接していた人間が、突然ただ呼吸をしているだけの人形に変わってしまう例が相次いだのだ。マスコミはこの病気を大々的に取り上げ、一部の地域ではちょっとしたパニックが発生した。

 患者の発生が相次いだと言っても、実のところ突発性劇症型認知症に感染する確率は極めて低い。発症率は数十万人に一人と言ったところで、この病気にかかる心配をするよりは発症率1%の統合失調症や、70歳以上の老人では数%が発症する普通のアルツハイマー病を心配したほうがよい。

 低い感染確率にもかかわらず突発性劇症型認知症が恐れられるのは、この病気が無差別に何の前触れもなく発症するからだ。症例第一号のメイスン教授はアメリカ人だったが、そのあとこの病気は全世界に広まった。

 患者の国籍、人種、性別、年齢、居住地などに一貫した特徴はなく、ただメイスン教授のような高学歴の頭脳労働者に多い傾向があるという程度。患者の血液から病原菌や有害物質は検出されず、予防策はおろか何が原因なのかさえ未だに分からない有様。次の患者が誰になるのかは全く予測不能。この特徴が、突発性劇症型認知症を実際よりずっと恐ろしいものに見せていた。


 次の日、仮眠を終えた私は入院している男の様子を見てみることにした。場所は閉鎖病棟だ。突発性劇症型認知症の患者は特に暴力的ではないが、基本的な生活能力や対人能力を持たないので、ほかの患者と一緒の病棟に入れることは予期せぬ事態を引き起こす恐れがあるのだ。

 閉鎖病棟の病室内は相変わらず陰気な空間だった。申し訳程度の大きさの窓には鉄格子がはまり、天井にはめ込まれた薄暗い照明が家具類のないがらんとした空間と、落とせない染みがついた白い壁を照らしている。やはり鉄格子がはめ込まれたガラス戸を通って中に入ると微かな異臭が鼻を突いた。男が垂れ流した大小便の臭いだろう。この病気の患者は排泄のコントロールができない、というよりコントロールの必要があることを理解できないのだ。私はかすかに眉をひそめながら、男の様子を観察した。

 昨日はスーツを着込んでいたが、今はつなぎのような病院服を着せられている。相変わらず、男の顔には何もなかった。おそらく普通の基準から言えば整った顔立ちをしているのだろうが、虚ろな顔を通り越して表情が存在しないのでとてもそうは見えない。ただ下の部分が細くなった球形の物体に、目、耳、鼻、口の形をしたパーツが散らばっているだけだ。


「具合はどうですか?」

 もしかしたら返事があるかもしれないと期待して、私は男に話しかけてみた。突発性劇症型認知症が治った例はないが、まだ出現から間もない病気だ。この男がその最初のケースになることも考えられないわけではない。

 だが私が期待したようなことは何も起こらなかった。男は少しこちらを見たが、その顔には相変わらず何も浮かんでいない。ただ音が聞こえたので、こちらを見たというに過ぎなかった。全く表情のない顔に見つめられるのは正直不気味だった。相手は間違いなく人間であるにも関わらず、全く得体のしれない未知の存在に見られている気がする。やがて、男は無言で私から視線を外した。いや、視線などと言うものがあるのかは怪しいのだが。


 「患者に食欲はあるのかね? それと不眠や嗜眠の傾向は?」

 私は男との会話を諦め、一緒に病室に入ってきた看護師に質問した。日本でまだ十数人目の症例なのだ。この病気の患者の特徴について、できるだけ多くの記録を残しておく必要がある。

 「食事は普通に取っています。と言っても食器を使えないので手づかみでですがね。睡眠時間も普通でした。まあこの病気の場合、起きていることと眠っていることに何か違いがあるのかは微妙ですが。」

 「なるほど、これまでの報告通りか。」

 私は相槌を打った。突発性劇症型認知症はそういう病気なのだ。身体の基本的な機能は全く損なわれずに、精神だけが完全に破壊される。あるメディアはこの病気の症状を「魂が抜き取られる」と表現したが、当たらずとも遠からずと言ってよい。おそらく目の前の男は以前の彼ではなく、魂と切り離された彼の肉体に過ぎない。本来の彼、一流企業の基幹社員として働き、それなりに幸せな結婚生活を送っていた男は、昨日の夜7時に実質的な死を迎えたのだ。


 「とりあえず、自殺の兆候がないかを監視しておいてくれ。この病気の患者の自殺例はないが、念のためにな。それと事故にも気を配ってくれ。基本的な危険回避ができない可能性が高いから。」

 私は看護師に指示すると部屋を出た。男がこの奇病を発症したのは非常に不幸な出来事だったが、この病院に入院してきたのは私にとって幸運だった。まだ症例が少ない病気だ。患者に様々な検査を行えば、医学的に非常に価値のある論文が書けるかもしれない。とりあえず私は、この病気の患者にどの程度の知能が残されているかを調べるつもりだった。


 数日間男の知能を検査したが、その結果は当惑させられるものだった。まず基本的な道具を使えるか、例えば筒の中に入ったものを棒を使って取り出すことができるかだが、これはちゃんと取り出すことができた。よって少なくとも平均的な類人猿以上の知能は残されているのだろう。男がそれなりに複雑なパズルを解いて中の菓子類を取り出して見せたとき、私はそれを確信した。

 だがその先に進むのは不可能だった。何しろ相手は言語によるコミュニケーションがまったく取れないのだ。

 例えば「おはよう」と声をかけても何の返答もない。おそらくこちらに対する反感のせいではなく、それに返答しなければならないことを理解できないのだ。しつこく話しかけると一応の声が返ってくるのだが、言葉の意味をなさないただの雑音の集まりだ。これでは知能検査を実施しようがない。言語による検査はもちろん不可能だし、そうでない検査にしても「今から知能テストを行うので、これらの問題を解いてほしい」という内容を相手に伝えられない限りは不可能なのだ。

 

 私はそもそも検査ができないことに苛立ちながらも、男に何とかこちらの言葉を理解させようとした。病室に閉じ込められていることへの怒りからまともな返事を返さないのかと思って、テストに協力してくれたら退院させると言ったこともあれば、男の以前の業績に対して歯の浮くようなお世辞を浴びせたこともある。あるいは逆に侮蔑するような言葉を浴びせて反応を観察したこともある。

 だが、反応は同じだった。賞賛しようと侮辱しようと、男は表情のない顔でこちらを見ているだけだ。それが賞賛の言葉である、あるいは侮辱の言葉であることを理解しない相手には無意味なのだ。もしかしたらと思って日本語以外の言語で声をかけてみたこともあるが、結果は日本語で声をかけた場合と同じだった。

 さらに男はジャスチャーや身振り手振りさえ理解しなかった。私がある方向を指さしても、そちらに視線を向けることはない。目の前でピースサインをして見せたり中指を立てたりしても同様で、ただ虚ろな目で私を見つめているだけだ。


 いやそもそも、見ていると言っていいのかすら分からない。視細胞からの電気信号が感覚神経を通って男の視覚野に伝わっているのは確かなのだろうが、目の前にいる人間が何らかの意図をもって自分に合図を出しているということを、男が認識しているとは到底思えないのだ。

 結局私はこう結論せざるを得なかった。この男と私の間には共有できる意味の体系が何もない。人間同士がコミュニケーションをとるには、何が何を意味するかの情報を共有する必要があるが、それがないのだ。「ありがとう」と言っても「ばかやろう」と言っても同じ反応を示すような相手に、何かを伝えることはできない。目の前の男は人間の姿をしているが、中身はいわば異星人なのだ。


 数日後、男の知能検査をとりあえず諦めた私は、突発性劇症型認知症の最初の症例であるメイスン教授のケースについて調べてみることにした。ギルマン・メイスンの名で検索すると、様々なウェブサイトが出てくる。三分の一ほどはノーベル賞を受賞した彼の前半生に関するもの、残りは魔術に傾倒した彼の後半生とその後の発狂を扱ったものだった。私はその中から、メイスン教授が発症直前に残した文章を見つけ出したので、読んでみることにした。ひょっとしたら発症する人間に特有の思考回路のようなものがあるかもしれないと思ったのだ。

 だが少し読み進めたところで、私はその文章に手を出したのを後悔しはじめた。単に支離滅裂と言うだけでなく、健全な常識やまともな世界観といったものを完全に否定するような内容だったのだ。

 

 その内容を要約するとこうなる。私たちが見ている世界はただ一つの存在、古代の賢者がヨグ=ソトースと呼んだものの一局面に過ぎない。ヨグ=ソトースは私たちが存在するこの世界を含む全ての可能世界に存在し、さらに世界そのものでもある。私たちはヨグ=ソトースの中にいてヨグ=ソトースの一部でもあるが、ほかの世界に存在するほかの実体もまたそうである。その意味で我々は世界と同一であり、異世界とも同一である。

 これだけでも普通の人間の理解を超えているが、メイスン教授の主張はまだまだ続く。私たちはヨグ=ソトースを通して異世界と同一の存在となっているが、通常は異世界から隔離されている。それは私たちの世界と異世界がヨグ=ソトースの別の局面に存在するからである。いわゆる魔術とはある局面と別の局面を融合させるための知識の体系であり、魔術を理解した者はヨグ=ソトースの別の局面、すなわち異世界に移動することができる。魔術を極めることによって人間はこの世界に限定された存在であることをやめ、全ての世界に遍在する存在となることができるのだ。

 

 普通の論理からは全く外れた主張だったが、メイスン教授の筆致には奇妙な説得力、ひょっとして彼はそれを実際に体験したのではないかと思うような迫力があった。文章の最後には異世界に行くための魔術を実践するという決意が記されており、そのために依拠した文書が載っていた。大半が聞いたこともないような奇書だったが、ある文書が私の眼に止まった。その文書だけ書名ではなくURLと依拠した箇所が記載されていたのだ。興味を持った私は、その文書をネット上から探してみることにした。

 文書はしばらくして見つかった。メイスン教授の文章に書かれたURL上ではすでに削除されていたが、誰かがその断片を回収して公開していたのだ。ちなみに説明文には古代エジプトのファラオが神の啓示を受けて残した文書であると書かれていたが、ほぼ間違いなくでっち上げだろう。

 メイスン教授が依拠したとしている箇所を読んでみると、確かに異世界との接触に関係する方法らしきものが書かれていた。と言ってもメイスン教授の文章以上に支離滅裂な内容であり、横に書いてある註解を読んでようやく意味が理解できたに過ぎない。私はとりあえず文書を読むのを中止しようかと思った。メイスン教授の文章に続いてこんなものを読んでいると、それこそ意識が異世界に持っていかれそうだ。

 

 だがその矢先、私は文書のある部分、おそらく魔術の実行で頭が一杯になっていたメイスン教授が、目を通さなかったであろう部分に目を引き寄せられた。そこには異世界に存在する生命体群についての解説が書かれていたのだ。そして、そのような生命体のうちの一つについての記述は、私が今調べている病気と無関係とは到底思えなかったのだ。

 その生命体は我々人間が存在する世界とは全く法則が異なる世界に存在する捕食者である。この世界の捕食者が被食者の体に含まれる物質を吸収するのに対し、その世界の捕食者は被食者の身体に含まれる情報を吸収する。この世界では体内の有機物の消耗が餓死の原因となるのに対し、その世界では体内の情報の消耗が餓死の原因となるのである。その世界と我々の世界に通常接点はないが、魔術によって接触することは可能である。ただし接触を実行した場合、あちら側にいる生物もこちら側に侵入し、この世界の生物が持つ情報を食い荒らすだろう。

 私はぞっとした。情報を吸収する捕食者だと? 突発性劇症型認知症の患者、今閉鎖病棟に入院しているあの男の姿が目に浮かんだ。あの男はその人格を構成するもの全てを剥ぎ取られているのではないか。そう、情報を。


 いわゆる人格とは究極的に言えば二種類の情報の集まりだ。「AはBという意味である」という情報と、「Bという意味の情報が観測された場合はCすべきである」という情報の。この二種類の情報を使って外界に対処することが、人間の人間たる証なのだ。正確に言えば動物もある程度それができるが、人間が脳内に蓄積できる情報の量は他の動物と比べて桁外れだ。大量の情報を保持し、必要に応じて使用する能力、それが人格の本質なのだ。

 一見、情報処理などとは無関係に思える感情的な行為も、必ず上のような能力を必要とする。例えば中指を立ててきた相手に殴りかかるには、「中指を立てるという行為が侮辱を意味する」という情報と、「侮辱に対しては報復すべし」という情報を必要とするのだ。

 

 他に例を挙げると、普通の人間は相手が「おはよう」と言って来れば、こちらも「おはよう」と返すが、それはそうするべきだという情報が脳内に入っているからだ。その情報の性質や用い方が通常とは異なる人間は精神異常者と呼ばれる。例えば「今日は天気がいいですね」という言葉に対し、「お前は俺を殺す気なのか?」と答えるような人間だ。

 さらに脳内に入っている情報の量が普通に比べて明らかに少ない人間は、精神薄弱者や認知症患者と呼ばれる。母国語で「好きな食べ物は何ですか?」と聞かれて、単語や文法の構造についての情報が脳内にないために、答えられないような人間がこれに当たる。

 突発性劇症型認知症の患者、あの男のような人間はその極端な例ではないか。あの男が食器を使えないのは、食器というものについての情報や、食事の時にはそれを使うべきだという情報がないせいだ。言葉を喋れないのは、文法や単語についての情報が失われているからに他ならない。ジェスチャーを理解しないのも同じだろう。

 多分あの男の眼には私たちとは全く違う世界が映っているのだ。見えるもの全てが情報を剥ぎ取られた世界、無秩序な感覚信号の集まりが。男が無表情なのも当然だ。彼にとっては周りのモノ全てが何の意味もない雑音のようなものなのだ。人は報酬に対して歓喜することもできるし、罰に対して恐怖することもできる。だが無意味に対してはどんな反応も示しようがない。

 

 そしてその状態をもたらしたのは異世界から来た捕食者。情報を栄養源とする怪物だ。そいつはメイスン教授が行った魔術によってできた接点からこの世界に侵入し、人間の脳内にある情報を食い荒らしているのだ。

 メイスン教授、あなたは何と言うことをしてくれたのだ。おそらくあなたがその怪物の最初の犠牲者となったのだろう。そして、犠牲者は今も増え続けている。何故、異世界との接触の危険性に気づかなかったのだ。こちらが相手に接触しようとすれば、当然相手もこちらに侵入できることに。

 

 

 いや、バカバカしい。考えてみればこんなものは狂人同然の人間の主張と、ネット上に存在する怪文書から得た推論に過ぎない。精神病を研究する者がそんなものに依拠した仮説を立ててどうする。精神病を異世界からの怪物のせいにするなど、まさしく精神病者のふるまいではないか。

 そんなことを思いながら、私はいったん作業を中止して病室に向かった。男がいる隔離病棟ではなく、ほかの患者がいる普通の病棟にだ。ここの患者はそれなりに重症の者もいるが、あの男ほどひどくはない。それが不条理な恐怖や絶望であるにせよ、何らかの人間的な感情は持っている。

 私は病室にいた看護師に声をかけ、何か容体が変化した患者はいないかと尋ねた。「いない」という返事。そんなことは分かっている。そんな患者がいればすぐに連絡があるはずだ。にも関わらずそんな質問をしたのは、先ほどの文書を読んだせいである種の恐怖を感じていたからかもしれない。自分が異世界からの怪物に襲われ、脳内の情報を全て剥ぎ取られた廃人になる恐怖を。大丈夫だ。自分は今、目の前の看護師と会話できる。情報を剥ぎ取られてなどいない。


 いや、何を考えているのだ。異世界からの怪物などいるはずがないではないか。例え突発性劇症型認知症が脳内の情報の喪失であるという仮説が事実としても、原因はそのような非科学的な存在ではないだろう。例えば脳への物理的な衝撃があってそういうことになるのかもしれないし、未知の細菌やウイルスの感染が関与しているのかもしれない。

 まあ発症の速さを考えれば、物理的な衝撃と言う可能性のほうが高いか。あの男は何の前触れもなくいきなり発症したという話だが怪しいものだ。会社側が労災隠しでそんなことを言っているのかもしれないではないか。今度あの男の妻に話を聞いて、そのことを確認する必要があるだろう。

 とにかく私は大丈夫なはずだ。とりあえずこの「情報喪失」仮説を論文にまとめる必要があるだろう。そこから突発性劇症型認知症の治療法が見つかるかもしれない。まずはあの男の状態の再調査からだ。本当に情報だけが失われているのか、それとも脳自体が機能不全を起こしているのかを確認する必要がある。それには他の科の医者の協力も必要かもしれない。脳ドックの責任者は誰だったか。

 

 何だこの感覚は? 五感では感知できない、ただ何かが体内をはい回る気配。そうだ、これはあの男が入院してきた夜に感じたあの気配だ。あの夜にただ気配を感じた存在、奴が再び現れた。だが今感じている感覚はあのときの比ではない。全身の神経系が侵入者に対して反応し、でたらめな信号を発している。にもかかわらず、そいつを目で見ることも耳で聞くこともできない。

 一体何なのだ。異世界、その言葉が思い浮かぶ。異世界からの存在は人間の五感では感知できないのではないか。ただその存在が体内を動く気配として感じられるだけで。今私の体を這い回っている生き物は、あの夜に私が持つ情報に探りを入れていたのではないか。そして今日、その情報を吸収しに来た。

 いや、下らない。この奇妙な感覚は最近の疲れがもたらしたもので、今感じている得体のしれない恐怖はあの妙な文章を読んだせいだろう。異世界からの生命体が体内を這っている? それこそ精神病患者の思考法だ。ミイラ取りがミイラになったと言われる前に、そろそろ休暇をとったほうがいいのかもしれない。

 不快な感覚は続いている。今度は脳内の全てのニューロンが発火したような奇妙な感覚。異世界の生物が今、私の脳内にいるのだ。あの男の顔が浮かぶ。全く表情のない、抜け殻のような顔。嫌だ。嫌だ。この怪物はどうやったら追い出せる? 馬鹿らしい。怪物など存在するはずがない。だが何なのだ。意味が分からない。いや…

 

 


 看護師は目の前の医者が突然ふらつき始めたのを見て、過労かと思いその顔を覗き込んだ。彼女は次の瞬間絶句し、他の医者を呼ぶことにした。「これで二人目か、しかも同僚とはな」、その呟きが受話器の向こうから聞こえてきた。

 

 読んでくださった方はありがとうございます。表題のミーム(meme)とは「人から人に伝えることが可能な情報」を表します。例えばあなたが今この文章を読めるのは、「日本語」というミームを筆者と共有しているからです。

 この作品は、「異世界からの怪物」ってのはどんな存在なのかなと考えた結果生まれたものです。クトゥルフ神話ではよく出てくる異世界からの存在ですが、何か血を吸うとか脳を食うとか、現実世界の動物でもやりそうなことしかしないのが不満だったので。

 ちなみにこの作品に出てくる怪物は「情報を餌とする」と本文にありますが、実はこれは正確な表現ではありません。正確には「向こうの世界で怪物の餌となるものが、この世界では情報として認識される」といったところでしょうか。分かりにくい説明ですいませんが。

 

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