《第896話》『記憶の海の奥底で』
「随分と懐かしい名を聞いたな――あの子供が、あの安部晴明だと?」
妾の記憶にあるその男は、導摩とかつて暮らしていた時突然現れ、そして妾を鬼へと変えた存在だ。その後の所在は、当時暴走状態だった妾では知る由も無いが。
少なくとも、世の創作上に出てくるようなヒーローではなかった。とは記憶している。実際は傲慢自分勝手な男で、そして、何を考えているか分からない存在だった。
「信用などはあったようだが、それらも混沌をもたらすための道具に過ぎない。そんなヤツだ。いい想い出は無いが――まあ、こうして長く生きれなければ、夜貴と会う事は出来なかった。その辺は感謝してやってもいい」
しかし今の光景。わざわざ出てきたからには、状況に関連性があることは敢えて言うまでも無いだろう。だが、今はまだ何とも言う事が――、
『どうして?』
「――む? この、声……」
突然響いた、しかし溜息をつくのと同時に発せられたようなその声。妾はその声色に、覚えがあるにもほどがあった。忘れるはずもない。
「夜貴――?」
その暗がりの中を満たすようなその声は、紛れもなく我が夫の声だった。しかし、見渡せども夜貴の姿はどこにもない。
『何のために、存在しているの?』
だが空間を支配する声は、陰鬱としていて――、
『ただただ繰り返すことに、何の意味があるの?』
そして沼の底へと全てを引きずり込んでいくかのようだった。




