《第八十四話》『名前』
「妾は、お前たちついてくるなと言ったのだ! つまりそれは、お前たちの力を借りずにこれからを生きるということを言っているのだ! どうして使命から解放されたと考えんのだ!」
「お、お言葉、ですが、狂鬼姫様――っ! 我々、はっ、あなたに仕える、それだけのために存在していると教育されてきました。そんな我々が突然『自由』などと言われても、何をどうすればいいのかわからないのですよ……ッ」
呉葉は怒鳴り付ける。完全服従であるとはいえ不満がたまりにたまっていたのか、零坐さんも怒鳴り返す。主と従者、両者が腹を割って言葉を交わし合っている。
――そんな様子を、幻影の呉葉は満足そうな顔をして眺めていた。
「ンなモノ自分で考えんか! お前らは無能じゃないだろう! 特に貴様は、取り立てて頭がいいだろうが!」
「あなたが我々をどう評したからとて、本来されて来た教育は変わらないのですよ! そもそもの考え方の基準がそうなっているのだから仕方ないではありませんか!」
幻影の呉葉は、僕の記憶にある中では最も狂鬼姫らしい時期の呉葉である。つまりそれはこの場から去る寸前の彼女であり、そしてある意味では、その時の気持ちが色濃く反映されているように思う。
本当は、ずっと気がかりだったのかもしれない。だけど、今更戻って言うということのばつの悪さで、一度も顔を見せることはなかった。そんな今の呉葉の背中を後押しするために、この過去の呉葉は「幻影などではない自分に」言わせようとしたのだろう。
「ああ、もうっ! だったら今度の今度こそ自由にしてやる!」
「だから、それは不可能だと――」
「零坐! もう貴様は妾に構うな! そこの入り口で見ている獄矢! 歌天! お前らもだ! それから台所で耳を澄ませて聞いている涼焔もだ!」
「っ、狂鬼姫様――我々の名前を、」
「知っているに決まっているだろうが! これまで仕えてきた者で、例え命を落としていたとしも、老衰で死んだ奴も! 全て全て、本当はその名を把握しているのだぞ妾は!」
呉葉が。今まで彼らの名前を一切呼ばなかった呉葉が。しもべ達の名前を一人一人呼んだ。
その名前を呼ぶ一つ一つに、大切な宝物の名を口にするような愛情が込められているように、僕には見えた。




