《第756話》『引かれた後ろ髪』
事態が収拾する数分前――……。
逃げ出すチャンス。僕はそう思った。
確かに、僕は狂鬼姫討伐の任を受け、この場所へと遣わされた。命を掛けるつもりもあったし、場合よっては自爆も辞さない気でここまで臨んだ。
でも、突然の乱入者。それも、僕の常識とは著しく次元の異なる者が現れ、心がぽっきり折れてしまった。
それは、生物共通の原始的恐怖と言うべきか。自身の理解を越える事態に、僕は足がすくんでしまったのである。
我ながら大変情けないが。それが、僕が今逃げ出そうとしている理由。臆病極まりないが、それだけ視点が揺らされたのだ。
けれども、僕は足を止めた。外へと逃げ出そうとする、臆病者の足を。
「…………」
頭に浮かぶ、鬼神・狂鬼姫の顔。彼女は僕が、彼女自身を殺しに来たことを知っていたのだろうか?
いやそれ以前に。彼女に僕を助ける義理はあったのだろうか?
事前に聞かされていた残虐極まる性質とは、全く異なる性格の狂鬼姫。鬼神の呉葉さん。自ら傷つくこともいとわず、命を救ってくれた、
真っ白で小柄な、角の無い鬼。
「――っ、」
僕はとって返す。
本当にあの鬼は悪い鬼なのか。少なくとも、僕にはそうは思えない。
自らの身を挺してかばい、そしてこうやって助けられた。それに報いるなら、このまま逃げる方が、お互いのためなのは火を見るよりも明らかだ。
けれど、僕はあんなによくしてくれた相手を見捨てて、このまま逃げおおせるなんてできない。例え相手が恐ろしい妖怪であっても、この目で見た事実に嘘はないのだ。
――そして、僕は踵を返す。
戦力にはならない僕が、たとえ低くても唯一できる可能性のあること。それを、僕は成しに行く。




