《第636話》『鬼神の道楽、しもべの娯楽』
スタートライン真上に取り付けられたシグナルが点灯を始めると、並んだ二台が、静止状態で唸り声を上げ始める。サーキット中にこだまするそれは、剣を交えに行く際の雄叫びのようだ。
方や、呉葉の白い、やや大柄なスポーツカー。中央から六本の橋がかかった黒いホイールと、大きめな後ろのウィングが特徴で、フロント下部に赤いラインが引かれたそれは、がっしりとしていて筋肉質な様相を呈している。
対する冀羅。本人そのモノである、真っ黒なスポーツセダン。運転席に誰も乗り込んでいない、六本柱の金色ホイールのそれは、ドアの真下にある排気管以外は、街中で見かけてもおかしくない外見をしている。
しかし細マッチョとも思えるような車体に反し、隣の白よりもはるかに大きな音を鳴らすそれは、見た目以上の凶悪さを秘めた獣を思わせた。
「しかし、呉葉様の気まぐれも、相変わらず無茶苦茶なものだ」
「零坐さん――」
「大方、あの方はご自分のあの車を一度思う存分走らせてみたかっただけなのだろう。長い間仕えてきたわたくしには、よくわかる。貴様も、あの方の夫と言うからには、それはよくわかっているだろう?」
「そりゃあ、まあ――というか、僕としては事故しないか心配で心配で」
呉葉が車の事故でどうにかなるとは思えないが、それでも、万が一と言うこともある。今から行うのは、スピードを遠慮なく出す競争なのだ。
しかも、呉葉にこう言ったレース経験を聞いたら、「ゲームでは百戦錬磨だったから大丈夫」などと言うとんでもないことを言いだす始末。当然だが、ゲームと現実は違う。
「正直なことを言うと、わたくしも心配だ。あの方は、ご自身がお遊びなさる『げぇむ』なるものと現実を、どこか区別できていないのではないかと思ってしまうような節があるからな」
「全く同じこと思ってますね零坐さん――」
「しかし、あの方はそんな非現実を現実に変える無茶を成すでもある。勝ち負けはともかく、少なくともご本人が本気で危険になる事態は、想定できん」
「それも、同じく」
カウントが響き、赤いシグナルが一つずつ数を減らしてゆく。
「でも、僕はああやって無茶苦茶やる呉葉も、嫌いじゃないんですよ」
「ほう? それはまた、我々と同意見だな。我ら元・狂鬼姫の一派も、カリスマ性以上に、あの方が何をなされるのか、それを楽しみに着いてきていたところがある」
「大抵、呆れた結末になるんですけどね」
「それもまた、同じく、だ」
シグナルがグリーンになるとともに、両者が一斉にスタートした。
「あの方は、どれだけ時が経とうとも変わらん」
「うん。それでいて、見ていて飽きないですよ」




