《第635話》『秘められた熱』
「さて、そろそろ時間だな」
本人曰く認識のずれを直し、もろもろの最終調整を終えたと言う呉葉。ピットガレージ内で車にもたれて腕組みをしていた彼女は、時計を見上げてそう言った。
――と、同時に。爆音と共に、ピットに一台の車が戻ってくる。それは隣のガレージに入ると、それまでの大きな音が嘘だったかのように静かになった。
「奴も戻ってきたようだな。――こっちに話しかけに来る様子はない、か」
「むむ、呉葉様に対し、なんと無礼な振舞い――!」
「お前も似たようなもんだろが。まあ、妾は特に気にせん。それに、恐らくはレースが終わるまで仮の姿になるつもりもないだろう」
呉葉はそう微笑み、隣のガレージまで歩いて行く。その笑みは、やはり楽し気で、ようやく待ち望んでいた瞬間が来た、というものだった。
以前呉葉から聞いたことがあるが、相手の得意分野で勝負を受ける、と言うのはこれが初めてではないそうで。戦闘以外にも、様々なルールに乗っ取った勝負を行い、勝利をもぎ取ってきたのだと言う。
曰く、まともにやりあって自分が負けるわけがないから。今回のこれも、まさに彼女の言うそれなのだ。
「さて冀羅よ、準備の程は充分か?」
『…………』
漆黒に、暗い金色をしたホイールのスポーツセダン。それは何も答えない。しかし、そこに佇んでいる、と言う事が、そのまま肯定を現しているかのようだ。
「スタートラインに車を並べ、同時スタートだ。ポジションは――まあコイントスででも決めようか。当然ながら第一コーナーの内側になる位置の方が前に出やすいが。なんなら、貴様がそのポジションは決めてもいいぞ?」
『…………』
「特に異議無し、か。いいだろう。表なら妾がイン側。裏なら貴様がイン側だ。では――、」
呉葉は、握った手の親指に乗せたコインを、ピンと弾く。
空中で回転するコインは、最初に受けた力により上昇。しかし与えられた力が重力によって減退するに従い速度を失っていき、頂点となる地点に達したところで、落下を始める。
妙な緊張が張り詰めるその空間で。手の甲に当たったコインが、カツンと音を立てて閉じられた。
「ふむ――裏、か。妾が、アウト側の左。そして冀羅、お前がイン側の右スタートだ」




