《第二十九話》『大事なモノ』
「これまで、妾と対等な位置に立とうとした者は一人として居なかった」
呉葉は、夕焼け空を見つめながらそう言った。その赤い瞳は光を受けて輝き、磨かれたルビーのように綺麗だなと僕は思った。
「だから、こんな気分もおそらく初めてなのだ。鬼の中でも強き力を持って世に君臨し、高き位置から全てを見下ろし続けていた妾には」
彼女の声に、激しく訴える様子はない。だがそれが、逆に僕の心に訴えかけてくる。
「妾は妾自身の有様を嘆いたことはなかった。それが妾にとって当たり前だったからだ。絶対なる強者としてそこに居る。全ての魂から畏れられ、存在感を示し続けることで無意味な争いを抑止する」
「――呉葉は、意外に平和主義者だもんね」
「意外とは何だ。血を血で洗い、互いに互いを滅ぼすまで続けるような戦いほど非効率で無意味なものはない。争うことはあっても、一定の限度は必要だ。――だから、妾は無用な力は振るわない。それが強者に与えられた使命なのだから」
「…………」
「だが、お前が妾よりも、妾本来の役目であると認識している『世の平定』を優先したとき、何故だかその『無用な力』を振るってしまった。こう、心の奥底がざわついて仕方なかった。それは――きっと、『寂しい』ということを認識してしまったせいなのだろう」
「呉葉――」
「きっかけは、ただの一人のちっぽけな。到底妾には及ばぬ人間が下から伸ばした手だった。だがそれは助けを求めるのではなく、誘うような、差し伸べるような手だ。そうしてそこで、妾は初めて対等な立場の誰かの手をつかんだ。だが、その手が例え一時でも離れると思うと、全くたまらない気分になった」
僕は、最初に呉葉と出会った時のことを思いだす。その時の彼女の瞳は、ただひたすら乾いていた。冷然としたモノでなく、かと言って、暖かみがあるわけでもなく。
――そしてそれを見た瞬間に、こんな悲しい眼をしたヒトを放っては置けない、と。
「――ごめん、呉葉」
だから僕は、いつの間にか謝っていた。悲しい悲しい、認識すらできなかった孤独を彼女に思い起こさせてしまった。それは、とても残酷なことだ。
「別に、謝る必要はない。妾はただ、駄々をこねていただけなのだ。ただの童子のように。お前は一つとして、悪いところなど――」
「けど一つ。呉葉は勘違いしてる」
「――何?」
「僕は別に、君の言う『世の平定』なんかを優先したわけじゃないよ」
自らに大切な使命を課した呉葉には申し訳ないとさえ思ってしまうが、僕は、君のように立派な存在なんかじゃない。
「僕はただ、呉葉のことを守りたかっただけなんだ。そこに、他の意図なんかない。ただ呉葉が大切だから、誰かと争って傷ついてほしくなかったから。呉葉が、少しでも今を普遍的に幸せだと思えればいいって」
だって、僕にとってはこの世の何よりも、「呉葉」という女性が大事なのだから。
「――そう、思ってたんだ」
呉葉が、僕の肩に頭を預けてきた。それはまるで突然壁がなくなったように唐突だった。
――けど、僕にとってのその衝撃は、僕の中の自分勝手な想いに対する罪悪感を許すような響きで。
夜の闇が、互いの居場所を確かにしていた。




