2 息子さん いらっしゃい
今まで何回恋に落ちた? と聞かれたら。悲しい数しか数えられない。さらに言うと、彼氏いない歴が26年。何がいけないのかしらと言ったら、きっと強がりとか、開き直りねって言われそうで怖い。さすがにキモイはきつい。毎日お風呂も洗顔も歯磨きも欠かしていないのに。
彼から逃げる様に家へと帰ってきて、呼びかける母を無視して2階へと階段を駆け上り、自分の部屋のベッドへダイブ。冷たいシーツが体温を奪う。そんな事どうだっていいのよ。
今、頭から離れないのは、彼――光臣くんが言った事。花嫁に――どうか、僕と一緒になって下さい――ストレートなプロポーズだった。全国の男に真似してほしいほど。乙女達は全員喜ぶわ、私を除いて。
困る。非常ーに、困っている。
名前は名乗ったけど、素性が怪しい。未来から来た、未知と、山崎くんの子ども。嘘か本当か、どうやって確かめたらいいのだろうか。有りえなさ過ぎて、全く解らない。
いつの間にか、クタクタに疲れていたので寝てしまった。夢も見ないでぐっすり。
起きると、何も代わり映えのしない日常が、待っている。
「ん……」
光を感じて、恐る恐る目を開ける。ここは何処だっけ、そうそう、私の部屋……。暫くボーッとしたまま、ベッドの上で上半身を起こしている。何分経っただろう、いきなり「しまった!」と声を上げて部屋から飛び出した。私ったら、スーツを着たまま寝てしまっていたのだもの……。
今日は月曜で、出社じゃないか!
どうにか定時に出社できた私は、デスクの前で、はぁ、と溜息をつき落ち着こうとしていた。家の最寄り駅から会社までは電車で片道30分程かかる。朝は必死だった、壁に掛けられていた、年季が入っていそうな丸時計の表す時刻をチラ見しつつ、皺の付いてしまったスーツを脱ぎ捨ててシャワーを浴びた。
それからすぐ支度を整えて家の玄関を慌てて駆け出して、川沿いの道路を早足よりも早く歩いて駅へと向かった。
途中、何かを思い出しかけたんだけど、私は無視した、それどころじゃなかったから……。
「どうしたの、難しい顔をして。気分悪いの?」
隣の席から声をかけたのは同僚のマユミだ。「いえ、ちょっと……」何て答えればいいのかを考えた。「大丈夫? 昨日は途中で帰っちゃったみたいじゃない。西門さんとか探して心配してたよ?」そういえば携帯に着信があったのを思い出した。バタバタしてたせいでまだ履歴を見ていない事に気がつく。西門さんからかもしれないな。マユミは言って私の顔色を窺っているようだった。「あ、うん、そうね。ごめん……」とにかく私は謝った。
後で西門さんにも謝りに行かないと……頭の中に、メモる。
「知ってる? 昨日の合コンでね、カップルが3組誕生したの!」
カップルが3組誕生。それも頭の中にメモされた。「へ、へえ、そう……」積極的ではないけど、聞いておいた方が無難かもしれない。
「綾香さんは居なかったから知らないでしょうけど、全員が揃って乾杯の音頭の後、部長がミニゲームを……」
経緯は、だいたいこうだ。部長、係長、専務さえ一緒になって考え絞り出されたらしい、王様ゲーム、ツイスターゲーム、フルーツバスケット。白熱した激戦だったようだけど、傍から見たら、上は50代頃から下は20代まで、いい歳した連中が何やってんだろうと思われなくもない。まだカラオケとかでいいじゃないか。どれでも嫌だけど。
「ツイスターなんてもう皆が必死でねー。体と体が密接するでしょ、変態プレイみたいで」
と、熱く語っているマユミ。ええそうね、私は参加できなくて良かったわとは言わない。ツイスターゲームは、ええと、アメリカが考え出したゲームだったかな。ルーレットで指定された色と体の一部、色の付いた丸がたくさん並んでいるマットがあって該当する丸に手だの足だのを置いていくんだ。要するに体と体の小競り合い。
これの相手が異性だったらと思うと……ましてや、女性とオッサンじゃ、変態プレイっていうかセクハラで結構ヤバいのでは。
「酔った勢いってものもあってねー。誰も反対しなかったっていうかねー。今から思い返せば十分異常事態だったとは思うけど」
ああ本当にヤバかったんだ。あまり聞きたくなくなってきた。
「最後の挨拶で告白ターイム! って事になって、その時に立候補した男女で見事3組がくっついちゃった、ってわけ。わぁすごい。でね、その3組が……」
言いかけた所で、ゴホン、と咳ばらいが聞こえた。横を見ると、男性社員達の目線を通りすぎ、奥の係長へと繋がっている。あれ、いつの間に……。
マユミはもう何も言わず私に視線をくれた。
(また後でね)
そそくさと事務に戻る。話の続きは後だ。仕事モードに入ってしまった。
(はあ~……肩が凝りそ)
私は肩を揉みながら、また溜息をついてしまった。
ほらね、変わらない日常なの。
きっと、昨日聞いた事や遭遇した事は、全て夢だったのね。
自己完結。これで安全なの。
私は騙されないわ、覚えてないのよ、何もかも。
私が、未来人にプロポーズされたなんて。
その未来人が、私のかつての親友と好きだった人の息子だったなんて。
そんな出来過ぎた話、信じられるもんですか!
私は目の前の書類を睨みつけて心の中で十字を切っていた。
合コンから1週間。日曜は家のリビングでテレビでも観ながら炬燵で寝てた。長くプレイしてた某育成戦闘型便利収納獣ゲームも無事に四天王を倒してエンディング、ストーリーをクリア。そろそろ攻略本を買おうかなあとか中古ショップへ行こうかと考えてたけどやめた。
テレビでは時事のネタで盛り上がっている。私と同じ年くらいの女性タレントが、先輩タレント達に言われ放題になっている。結婚できないのは大人しいせいよとか、ひとりの時間が持てていいわねーとか、旦那への愚痴もあり、観てて苦痛になってきた。
リモコンでチャンネルを普通のニュースに変えると、時事ネタが同じ……そのネタを、キャスターが事務的に原稿を見ながら読んでいるだけだ。
昼寝しようかと意識がまどろんでいた時だ。キャスターが原稿を読む。纏めると、何処かの国で、戸籍の有る無しに関わらず、自由に結婚できる案を取り入れたんだって。
狙いは国の発展化で、外国人が押し寄せてくる為に出入国には厳しくなるらしい。
それって本当に自由?
国に外国人が出入りできにくくなるんじゃ、「自由」に結婚できる案なんて何。とても狭い「自由」。自由で、不自由じゃない?
それにそもそも、結婚てさあ、「必ず」しなければいけないの?
番組では中傷まがいの中年タレントが自信たっぷりに「出産の為に早めに結婚した方がいいわ」って言ってた。若いタレントが「周りが結婚してくから」って言ってた。
どう考えても個人の自由なら、私は言う。
まるで必ずしなければいけない様な、偏った意見が嫌。今は平成よ。
結婚したいって、思う時にすればいいんじゃないの?
結婚ってもっと、自由なんじゃないの、本当は。縦にも横にも。
私は、眉間に皺を寄せた顔で唸りながら眠った。
翌日、週明けの出社では無遅刻無欠席をキープしつつ、昼になって社員食堂に赴いた時のこと。私はひとりで持ってきたお弁当をテーブルに広げていて、箸で我が自慢のタマコ焼きのひと切れを摘んだ直後だった。
「ここ、空いてる?」
「あ、どうぞ」
即座に答えられたのは、私が6人掛けのテーブルにひとりでいたから、他の席が埋まってくると誰かと相席になるだろうと予想していたからだ。お弁当箱から視線を上げて、呼びかけてきた相手の顔を見た。声の主は愛田くん。同じ係の社員だった。「それ、何」愛田くんは不思議そうに私の箸先を見つめている。「タマコ焼き」タマコを焼いたものだ。摘んで口に放り込んだ。「美味しいの、それ……」今度は心配そうに聞いてきた。「もっちろん、自信作」と私は何でもなく食を進める。「そう……」愛田くんはそれ以上に言及しなかった。
彼は愛田みつを。名前が平仮名の男の子って珍しいなって顔も覚えていた。それを同僚に言ったら、何だか俳句でも読みそうとか言った。親に言ったら、せんだ? と返ってきた。どっちも意味がわからない。
私はパーマン1号しか浮かばなかったが、そんな事よりも、彼に仕事以外で話しかけられた事が初めてだったな、と思った。「あのさ」向かいに座っていた彼が私に話しかけてきた。
「え? 何ですか?」
「今日の帰り、飲みに行かない?」
いきなり、誘われた。「え、と」途端に表情が固まる。
箸を持つ手が止まり、私は硬直して息も忘れかけていた。
(それって、お誘い、だ、よ、ね……)
改めて彼の顔を見る。
顔は悪くはない。平均ぐらいだと思う。真面目な社員といった感じで、白のシャツもパラダイス銀河みたいなネクタイも似合ってると思うし。
特に今日は仕事帰りに大事な用事も無い。ブックなオフで買い物しようとか、緊急性の無い用事なんて消えた。「いいですけど」返事をすると、彼は嬉しそうに私を見た。「そっか。ありがと」と御礼を付ける。そんなに嬉しいの、と聞いてやりたくなった。「よく行く居酒屋があるんだ」
彼が次を口に出しかけた時、食堂のおばちゃんが注文されたメニューの名を大声で呼んだ。
「タコライス出来たよ!」
元気いっぱいのおばちゃんの声に反応して立った愛田くんは、「後で一緒にブルーシールアイス沖縄と横浜を食べませんか?」と横目で私に聞いてきた。横浜は食堂オリジナルらしかったが、しかしここは横浜じゃない。
出会いは、突然にやって来る。彼の様に。
だけど続きは、わからない。
恋人は別れるつもりで付き合おうってんじゃない。そうじゃないか……。
仕事帰りに、愛田くんと一緒に居酒屋へ行って、
ビールを飲みながら、会社じゃ言えない部長の秘密とか、係長の秘密とか、専務の秘密とか、秘書の秘密とかヒミツとかHIMITSUとか、面白おかしく喋ってた。
意気投合したせいで、よくわからなくなった。私って、彼に惚れた?
気が付いたら、彼とお付き合いが始まった。初めての彼氏。どうなっちゃうんだろうなあって、寝呆けた様な事を言っている。
別れたのが、3ヶ月後。たったの。
理由は、彼からの一方的なそれだった。「君には、ついていけなくて」――一体どういう意味だと、はやる未消化な気持ちを抑えて承諾する。
それでおしまい。
おかしいな、私。
全然悲しくなんかないから……。
あの時の様に?
あの時。
未知の顔が浮かぶ。まだ高校生だった、彼女の明るい顔。
あの子、私に言ったわ、山崎くんを好きになったって。でもそれだけ。
何が言いたいかって、決まってる。未知は、山崎くんと、どうなりたいの、って。
そして私に、どうしてほしいの、って。
どうしたら、よかったの?
星が瞬く。
暗い空に満天の星空。あのひとつひとつが、人だったら。
きっと私は呟くでしょう。「多過ぎ」
そうよね。人間が多過ぎても、地球は困っちゃう。
他の動物が減っちゃう。植物が減っちゃう。
偏らないでよ、神さま。
人間を、どうか、つくり過ぎないで。
でないと、一体誰を選んだらいいの。
公園や街路の樹を見ていれば、四季がわかる。
生きた化石とも言われてるイチョウは秋に黄葉するし、日本ならお馴染みの桜は、春を賑やかす。
葉も花も何も枝につけていない頃を過ぎ、白い雪化粧の季節が過ぎた後、再びに春がやって来る。今年の年号もしっかりと定着して間違える事もなくなり、五月病も終わって、初夏のあの暑そうな空気が漂ってくるのだ……。
と、私はそこで書いていた手を止めてペンをノートの端に置いた。
「ふう……」
自室に居たけれど、開けていた窓から入ってくる風が気持ちいい。執筆に没頭していて無関心だったわ。「もうお昼ね」ひとり言を言うと、部屋を出て下の階に行く。親は今日居たっけ、お互い気まま同士だから居なければ居ないで全然構わないのだけれど。
リビングに着くと、私は目をギョッとさせて一歩下がった。「よう」しかも挨拶までしている。我が陽気な父親だった。
「何、仕事は休みなわけ。真っ昼間から」
父親といえばサラリーマンではなく、小売店の経営を細々としている普通の小柄なオジサンなのだけれど。店が忙しいはずの土日なのに昼から何故家にいるのか。
「まあ色々とありまして。それより、お前に話もあったからここでゆっくり昼飯で寛いでただけ」
薄い坊主頭を掻いた。「話って?」どうにも嫌な予感がしていた。「これこれ」と懐の内ポケットから出されたのは一枚の写真だった。私に見ろ、と渡される。「んー?」
写真には、父と肩を並べて数人の男女が写っていた。何処かのバーで飲んでいたっぽい。店の玄関口かしら。「これがどうかした?」渡されても意味が分からなかった。
「いい男揃いだと思わんか」
は?
「皆、独身。一番右端の茶髪が最近入ったばかりの新人」
そう。だから?
「父さんの横に居るのが店長だが子持ち、その横に居るのが鉄道会社に勤める甲斐田といって今年に28になるそうで……」
「ちょっと。だから、それが何なの。まさか父さん、私に見合いでもさせようってんじゃないでしょうね」
こめかみがピクピクと動くのを感じながら、私は父を睨みつける。
「おー、そういう事だ。どうだ、悪くないだろ!」
調子にのって腰に両手をつけて反って、えばっていた。
「悪い」
写真を父の胸に当てつけて返し、座敷テーブルにつこうとした。あれ、炬燵じゃない、と首を傾げたが、「おいおい。もっとよく見ろよぉ」と父はしつこい。「興味ありません!」突っぱねた。
「実はな、後で家に来るんだよ」「い?」「思ったより先月から売り上げの伸びがよくてな、母さんにも言ってあるが、今夜に家で人呼んでお祝いパーティーだ」
私の口元が引きつった。「聞いてないけど!」「今、言ったから」
もう何を言っても無駄らしく変更はなさそうだ。けど意固地になる理由も無く、私はそのまま受け入れた。「お好きにどうぞ。私は部屋に引っこんどくから」と断って。
「なあおい。お前もいい加減、年を考えたらどうだ」
突然こんな事を言い出す父。聞いたせいで、引っ込みかけたイライラがまた浮上する。さっきからこっちの勘に触る様な事を平然と聞いてくるその無神経さに、とても苛立ちが隠せなかった。「出かけてくる!」耐えられなくなって、私は外へ。でないと、何を破壊するのか察しすらつかない。父に振り返らず、私は闇雲に歩いて行った。
このまま、逃亡してしまおうか。
でも何処に。それに、どうして私が逃げないといけないの?
悪い事なんてしていないのに。どうして。
結婚してないってだけで、どうして……?
涙が出てきた。これは悔し涙だろうか。いいや違う、悪い目で見られるのが嫌なだけ。それだけよ。
まるで小学生みたい。家出しようか迷ってる。
ちょうど今、小学生らしき数人の子どもが私の向かいから駆けてきてすれ違った。「ボンジャミーン!」「マルコ・ぽろーち!」意味不明な言葉を叫びながら。1人、2人、3人……あと2人が追いかけて。男の子と女の子、今日は学校が休みだから大勢で遊んでいるのかな。私にも、あんな無邪気な頃があった。
頭がぼうっとしたまま、昔を思い出していく。子どもの頃は初恋だってあったけれど、告白も何も無かった。噂話は誰でも好きだったから、好きな人がいても友達が好きかもしれないと聞いたら急に冷めてみたり。恥ずかしくて、「違うよ」って追求されても否定してみたり。恋はするけど発展は無し。山崎くんの場合だってそうなんだ、未知が好きだと言った瞬間に、私の恋は静かに幕を下ろしたのだ。
何で、こんなのなんだろう。
恋ってどうやってするんだろう。わからない。
踏切を渡ってしまうと、川が見えてくる。川沿いの道を歩きながら、悶々と考えていた。日が高くて、暑くてジットリと汗を掻き、息が荒げになってきた。
数分と歩けば橋が見えてくるから、渡って街の喫茶店にでも入ろ。書きかけの小説の続きでも考えながら夜まで帰らなければいいんだわ。それか、友達か同僚にでも電話して都合聞いてみようかしら。うまく暇があれば家に転がりこんで泊まらせてもらっちゃうとか。算段する。
「あれ……?」
数十メートル先に、未確認飛行……いや、飛んではいないけど、穏やかな大川に浮かぶ、変な物がある。「ナンダあれ?」丸い、日光で照らされて輝いている変な物。
クジラとかがひっくり返って腹だけ水面に浮かべたら、きっとあんな感じ。
まだ遠くにいるから、正体がわからないけれど。何かが沈んでいる?
「むう?」
軽く唸って凝視する。歩き進むにつれて、ますますわからなくなってくる。楕円を帯びた銀箔がかったそれは、未確認物体、UO。Fでないだけだ。もしかしてFも、だったかもしれないが。「ゴミ……かな」未確認粗大ゴミ物体、USO。何でSだけ日本語なんだってツッコミは無しよ、こじつけなんだから。
「あ、人だ」
浮かび上がる物体に注目していて、近くを見ていなかった。土手に、人がいる。
体格や格好からして男の人だろうけど、見覚えがあった。「あ!」声が出てしまった。
すると向こうもたまたま振り返って、こちらに気がついた様だった。動作停止。私を見ていて動かない。私は近づいていって、土手の上から挨拶をした。「こんにちは、えーっと……」変だわ、記憶が出てこない。さっき思い出しかけたんじゃなかったか。
「こんにちは綾香さん。来てくれたんですね」
相手の声がハッキリと聞きとれた。おかげで、記憶が鮮明になった。
「山崎……光臣くん!」
何とか名前が口から飛び出た。瞬間、私の顔が曇った。
「迎えに来ました。のんびり屋の貴女は、きっとすぐには来ないだろうから、数ヶ月おいて来た読みが見事当たりましたね~」
「な……」
何ソレ、と言いかけた。はにかみながら喋る彼は、まるで少年のよう。私の機嫌が悪くなったのは、別れて逃げた時の事も思い出したから。「花嫁なんて嘘でしょ」と、あしらってやるつもりだった。
「嘘? USO」「何言ってんの」「いえ」
「迎えに……って、そんなの、信じられる?」
腕を組んでいた光臣くんは、面白そうに私の事を見てる。「ええ」悪びれた様子もなく、ただ私の事を。「そんな……」後の言葉が途切れた。
彼は手招きしながら、着ていたジャンパーの内ポケットから紺色の小さな四角いケースを取り出した。
「これを見て下さい」
私を呼んでるし気になって仕方なく、私は土手をゆっくりと滑らない様に下りて、彼の手のそれを受け取った。蓋を開けると、指輪がケースの真ん中で光っていた。「これは……」「ダイヤモンドです」小さな石だけど、輝きながら存在をアピールしている。でも光臣くん、そんな事を聞いているんでなくて。「だから……これって」どういう意味なのよと血が頭に昇ってきた。「つまり」と、彼は空を見上げた。「婚約指輪を持ってきました、未来から」ああもうダメだ。
投げつけようかと思ったが振りかぶっただけで止まった。「信じない!」駄々をこねた子どもの様だった。「本気です。確かですから。それに、未来へ帰った時に重要な事が判りました。貴女の消息についてです」と、笑いを引っ込めて顔が真剣になる。私もつられて彼の話に食いついた。「私の? 未来の私?」自分の事だから興味が惹かれてしまった。「ええ」彼は深く頷く。「ある調査機関に頼んでおいたんですが……」彼は言った。「貴女は、姿は隠しているが、生きている痕跡が確認された様です。親しい友人とのメールでのやり取りが、管理会社から履歴で発見されました。時刻を追うとつい最近の事でした。内容は、世間話でしたけど……」
最近、っていうのはいつよ。未来に帰った時の「最近」て事?
「未来の私が、『隠れてる』? 何で? 犯罪者みたいな」
私は嫌な予感がしていた。でも彼は私を申し訳なさそうに見て、言った。
「この時代にはまだ法案さえ出ていないでしょうけど……いいですか、落ち着いて聞いて下さい。この時代から、わずか数年後の話になりますが」
え? 法案?
「結婚への関心が高まり、風潮が、未婚撲滅へと変わりました」「はぁ?」
「女性は16歳、男性は18歳以上でないと結婚できないというのが民法731条だったと思います。でもそれは『心身ともに未熟な女性が早期に出産して、育児ストレスや経済的な理由で子供を殺す事件が後を絶たない』事と、男女平等において年齢差があるそれは無いだろうという論議者、それから、女性を道具としての扱いだった時代の名残を残すものであるという意見をもとに、適齢の見直しがあって、概念から覆られる結果になったのです。それが――」
嫌な予感がした。
「女性は30歳まで、男性は40歳までに結婚をしなければならない。義務化です」
「義務うぅう!?」
仰天して、私の叫びは雲にまで飛んでった。「残念ながら時代です」そっちの方がUSOでしょ!?
「離婚が禁止になったわけではありません。既婚、バツイチでもいいんです。とにかく結婚しなければ。人々は焦りました。政府も思い切った事をしたと僕も思います。反対していたのは無論、未婚者ですが。でも法案が可決してしまったのだから仕方ない。猶予期間をおいて、法律も改定されました。義務化になった事により、適齢になるまでに結婚するのが当たり前になりました。だから……」
彼は、暗い声で告げた。
「にも関わらず未婚だった未来の貴女は、追われる身になった」
それが、私が隠れなければならなくなった理由。「そんな……」本当に逃亡者になってしまったのだ。ショックが襲ってきた。
「16歳からとか、下は撤廃されたんです。何歳からでもいい。けれど、20歳以下は保護者、親族の許可や合意が要ると。自由に見えても変わらない、むしろ不自由な気がしますが……婚姻庁の狙いは未婚者の撲滅、つまりは子孫繁栄の為、だが結婚への自由意識、緩和もあり、よりよい家庭づくりの促進とか……きっと今頃でも日本中で呼びかけています」
頭が辛くなった。くらくらする。恥ずかしさはとっくに何処かへ飛んでいって、これでは以前、光臣くんに会った時と同じではないか。受け入れができず、私は逃げて……走り出してしまいたかった。
「私、犯罪者なの……?」
泣けてきそうだった。
「いえ、法律の違反者です。未来では」慰めにならなかった。「ひどい……」逃げられなかった。
未来の私も辛かったに違いない。逃げたんだと思う。
「助けて」
どうして私の意見は通らないのだろう。
「助けてよ」
もうウンザリ。本当は逃げたくない――自分の事を理解してくれない親も嫌。本当に理解してくれるなら、結婚なんて勧めないで。どうして放っておいてくれないの。何が自由だ、言葉が踊っている様だ。自由なんて意味不明で糞くらえ。
「だから来たのですよ。貴女を助けにね」
ハッと驚いて私は彼を見上げた。ああ、そうなのか。「つまりあなたは……」光臣くんが過去に来た目的。私を結婚「させる」為だった。
「そうです。簡単な事だ。貴女が結婚すれば、堂々として未来で暮らせる。だから」
彼は何度も繰り返して言うのだ。
「結婚して下さい」
私を助ける為に……。
彼は、微笑んで。
彼は、手を伸ばした。
彼も未婚なのだ。私がOKを出して手を取れば、『合意』。
未成年ではないのだから、当事者だけの合意で済むのだ。『結婚』の――。
私は固唾を呑んで、その手を見ていた。