カヤの家
「お父さん、ぼくもお父さんが心配だから言ってるんですよ。息子の願いも叶えずに何が親ですか」
「何度だって言ってやろうよ。おれはここから離れるつもりはない。行くなら行け。おれは残る」
息子はなおもおれの頑固を直そうとするが、ここ何十年で培ったそれを壊すのは至難の技であった。あいにくと、おれは息子の優しさに目尻を下げるような柔さは持っていない。それが心身にまでわかっているのか、息子はため息を吐くと「この頑固ジジイ」と毒を吐いてから、この間結婚したばかりの妻のもとへと去っていった。
「頑固でけっこう。おれはこの家を捨てるつもりはない」
独り呟くも、返事はない。
家の中に戻ると、やはりそこは空虚のたまり場となっていた。きしきしと悲鳴を挙げる木板を脆い足で踏み歩く。
ずいぶんと昔のことのようだった。この家で、ガキどもがはしゃぎまわり騒がしかった頃があったなど。妻が死んでからだったろうか、そのような風景を失ったのは。いや、もっと昔だったか。まあいい、結局のところ、今その光景はないという事実があるのがわかるだけでいい。幸運だったか不幸だったか、おれは昔から、それもガキの頃から細かいことは気にしない性分であった。
茶器を上に乗せた盆を手に、障子を開け、おれは縁側に腰がけた。とくとくと茶器に急須を傾けると、深緑が茶器の中で回りながらなみなみと注がれていく。
――む、少し茶葉を入れすぎたか。いつも見る茶よりその色は幾分濃く、飲まずとも苦味が口の中に広がるようであった。
ずずず、と音を発てて茶をすする。うむ、不味い。だが、淹れたからには飲まねばなるまい。三杯淹れればなくなるだろうか。先が遠く感じた。
ぎし、ぎし、と、誰も歩いていないはずなのに、床が鳴る音が耳に届いた。古い家にはよくあることだ。それも、この日本家屋となればその話も格別だろう。
建築百年は越えるだろうか、この古めかしい日本家屋がおれはガキの頃からいたく気に入っていた。息子からするとひい祖父さんにあたるだろうジジイに、よく走るなと怒鳴られたものである。
しかし、なんと悲しいことか、息子はおれよりもこの家への愛が足りないらしい。この家を捨て、あの夫婦が住む家に移り住めというのだ。おれも、おれの妻もこんなにもこの家を気に入っていたというのに、なぜ息子はああなってしまったのか。
――ふと、家の中を走り回る架空の足音の中に、本物の足音があることに気づく。
ぺたぺた、ぺたり。その足音はおれの背後の障子で隔たれている廊下で止まった。そういえば、過去にも見えない足音を聞いたことがあったような気がする。
「おい」
声をかけると、その足音は大きく慌ててその場を離れていく。後ろを振り返ると、まるでつい先ほどまで誰かが覗いていた、といったような隙間が障子と障子の合間に作られていた。
おれは茶器に残った最後の茶を、一息で飲み干す。
冷えた茶は、なおのこと不味かった。
おれは、一つ計画を立てた。
逃げるのであれば追いかけなければよいのだ。幸い、老体であるおれには時間が有り余っている。
まずは紙とペンを取り出し、そこに伝えたいことを記す。書き終えれば、あとは壁にでも貼っておけばいいだろう。どうやら目に見えない同居者は、この家中を己の庭のように走り回っているようなのだから。
貼り終えて次の日、目が覚めると布団の上に一枚の紙が被せられていた。
ためしに見てみると、おれは思わず苦笑をしてしまった。読めるかどうかはおれの運しだいだったのだが、想像以上にあの同居者は教養があるらしい。
はい
と、真っ白な紙の上に、歪な黒文字で書いてあった。
一人きりの老人生活の中で、静寂がなくなった。家の中を歩けば貼られる文字という文字。なんと騒がしいことか。しかし、この騒がしさを好む自分がいることに、おれは驚いていた。今までおれは静寂を愛しているとばかり思っていたのだが、この歳にしてようやくそれが勘違いであることに気づいたようなのである。
文字の海ががらんどうの日本家屋を満たしていく。自然の災害とも違う、その恐怖と似た胸のざわめきを、人はなんと呼んだだろうか。
ある日、見えぬそれと音のない会話をしていたときのことだ。
それは、なぜおれは一人でここにいるのか、という疑問を記した紙を天井から落とした。どうも、この同居者はどこで見ていたのか、親と子の乖離を一部始終を知っていたようなのだ。知っているのであれば、おれがなぜここでこうしてお前といるのかもわかるだろうに。
ここにいたいからいる
おれはそう記すと机上に置いた。残りの紙は、と見ると、そこにはもう壁と棚の隙間にすっぽりと入り込んでしまう程度の枚数の紙しかない。
そういえば、あの同居者とこれをし始めてから、ペン一本と両手に抱えるほどにあった用紙がごっそりとなくなっていたなと思い返し、おれは外衣を羽織ると急ぎ足で文具屋へと向かった。
半刻もしないうちに、肌寒い外から風をしのげる家の中に戻ると、机上の上に何事かを記した用紙が一枚増えていたことに気づく。
さびしいくせに
「――言ってくれる」
だというのに、同居者からの一言を、おれは一笑に付すことができなかった。
これは話し合いが必要であると踏んだおれは、その決闘を満月の日に決行することに決めた。従来、月は人を狂わすものだ、――というのはまったく関係がなく、ただ単におれが月見をしたかったという老人の切なる願いのためだ。その点、妻にはよく迷惑をかけたように思う。彼女はよく、〝しかたないですね〟と笑っておれに付き合って月見をしてくれたものである。
同居者を誘ってみると、〝いつものとおりに? わかった〟との返事を得た。いつもの部分に疑問が一瞬掠めたものの、そういえば同居者はそういう存在だったと思い出す。
時間が訪れ、外はあっという間に真っ暗になった。今日は月見ということで日本酒を持ち込んだおれは、一人寂しくお酌もなしに、お猪口へと透明な色をしたそれを注いだ。それこそ、昔は妻がよくお酌をしてくれたものだ。一口口に含み、喉に流せば胃がかっと熱くなった。
空には団子のように丸い月が大きく顔を出していた。寒々しい夜らしく、点々と月の粉が満月の周りに散らばっているのがよく見える。家の中では闇色の衣が包んでいるというのに、おれのいる縁側では月明かりの恩恵をもらえるので、手作りの光など必要としない。
ふ、と息を吐き出すと白い羽衣が空中に溶けた。同時に、天井から一枚紙が降ってきた。まるで雪のようだが、雪とは違ってそれは確かに掴めるし、決して消えたりはしない。
きれいだね
おれは脇に置いてある用紙の一枚を滑り取ると、ペンを片手に記した。
神さまが砕いていったもんだからな そらきれいにきまってる
それ よりちゃんが言ってたね おぼえてるんだ
よりちゃんとはおれの妻のことである。本名は依子。なにかと夢見がちな女で、変な女だった。
月見のたびに言われたことを、おれは思い出す。
―― お月さまはきっとたくさんあったんですよ。だけど、それじゃああんまりにも眩しすぎるから神さまが砕いていったのね。だから、あの子はひとりぼっち。でも、 ――
まいどまいど 言われりゃあおぼえる
だいすきだから?
噴出しそうになった酒をなんとか喉元に押しのける。
いきなりなにを言い出すんだこいつは。まさか酒を飲んでるんじゃあるまいな。
すきとかそういうもんじゃねえ ただ耳にのこってたからおぼえてただけだ
うそ よりちゃんのことずっとすきなくせに だからここにのこってるんでしょ
ちがう
そう、それは違う。妻を愛しているのは事実だが、ここに残っている理由は他にある。
さびしがりやなくせに むりして
違う。
だって、寂しいのは。
さびしいのは おまえだろうが
返事は遅かったように思う。ひらひらと、かの者の動揺を表すように白い紙がおれの手に落ちていく。
さびしくない
本当、どっちがむりをしていることやら。強がりめ。
いまはさびしくなかろうよ おれがいるからな
ひとりではない。孤独ではない。それはとても大きな事実で温もりだ。
―― あの子はひとりぼっち。でも、独りじゃない ――
地上を照らしている月も、孤独であればあそこまで眩しく輝くだろうか。おれも、こいつも、共にいなければ孤独であるのだ。己の孤独を潤すために、おれはこうしてこいつの孤独を潤している。そこに意味はあるかと言われれば、きっとある。その意思は妻のものであり、母のものであり、この家に住まう全てのものだ。
妻のあの言葉は、だれにかけたものだったのだろうか。おれにか、それともこいつにか。妻のことだ、きっとなにも考えずに月のことを言っていたに違いない。あれはそういう女だった。
いいかげん、と手を動かす。
いいかげん しょうじきになれ
ひらり、白い影が夜空を舞う。いつもよりも震えた文字が、そこにはあった。
こわい
――ほら、やっぱり。おれよりも長く生きているくせに、おれよりも子どもなのだ。こいつは。
朝目覚め、子どもたちと朝食を食べる。みんな笑って、どこかぼんやりとしていて見えないでいた。隣にはいつも通り妻がおれを見つめて微笑んでいる。おれも、それを見て笑っている。幸せだ、幸せだ。
妻が霞み、白無垢をまとった彼女が現れた。白々しい衣は彼女をいっそう美しく映えさせる。彼女は頬を赤らめて、幸せにしてくださいねと心底幸せそうに涙をこぼしながら笑った。
輝くような白が宙に溶け、若い頃の依子に成り代わる。道路に立って、日本家屋を指差して嬉しそうになにかを口にしている。あの子の名前はね――。
全てがかき消えて、原点へと帰った。そこには小さなおれ。じじいに怒鳴られるとわかっておきながら、なにかを追いかけている。楽しそうにかけまわる先にいたのは大人のようで、家族のだれでもない古めかしい着物を着ていた。
――あ。
おれが転んだ。いや、ちがう。子どもの頃のおれが床を滑り転んだのだ。
慌てて少年に大人なそれが駆け寄る。しかし、それも策略のうちだったのか、少年は大人の袖を掴んで、捕まえたと快活に笑った。
家が揺れた。気づく頃には、少年と近くにいた大人も消えている。外に出ようと足を動かすと、なにかに引っ張られるようにして足を滑らした。
床に全身が落ち、体が動かなくなったと気づいた瞬間、光が弾け世界が変わった。
どうやらおれは布団に寝転がっているようで、だれかが布団から抜け出たおれの手を掴んでいた。全身は狐にでも化かされているかのように霧がかかっているというのに、その白い手だけははっきりと見えた。わかるのは古びた着物を着ているという点だけで、他はさっぱりだ。
―― ありがとう ――
それ以上を言わせてはいけない気がして、口を開こうとするが、全身は石になったようにまったく動く気配をみせない。
―― でも、もういいよ。もう、終わりだから ――
それはそう言って、おれの手を離して出口である襖へと歩く。最後に、ほんの少し振り返ってばいばい、とそれは呟いた。
襖が開かれる。光の粉が零れる。
それが光の中に入り込み、途端に一斉に部屋中に光があふれ出していく。
そして、全ては光となり、小さな泡沫の世界は終わった――。
目が覚めると、そこには酷く青ざめた息子の顔があった。よくよく辺りをみると、長女も次男もいる。今日は祭りでもあっただろうか。
「お父さん!」
涙目になる息子を嫁がなだめ、医者が複数おれに質問をすると、医者は大丈夫だとおれの血縁者たちに伝えた。それを聞き、みなが一斉にほっとしたように息を吐く。
おれがどうしたのかと訊くと、家の倒壊に巻き込まれたのだと言う。助かったのは奇跡だと皆々が言った。まるで、誰かが助けてくれたかのように路上に放り出されたおれの姿があったらしい。
おれはそれを聞き、震えた息を吐いた。拳を握り、しばらく一人にしてくれと伝えると、みなが困惑した顔で病室から去っていく。
おれは、後ろに傾き、白いベットに向けて倒れた。唇を震わせて、両手で頭を抱える。
「すまん、すまんなぁ。なにも、できなんだ」
怖がっていたのに。泣いていたのに。
もう、おまえを守れるのは、おれだけだったのに。
誰もいない中、おれはただ、みっともなくむせび泣いた。
妻は昔から変な女だった。気に入ったものがあればなにかしらの名前をつける。もちろん、彼女が跳びまわるほどに喜んでいたおれの日本家屋も、その対象でないはずがなかった。
名前は『家屋』。読みはそのままカヤという。安直だと笑うがいいが、おれも妻も気に入っていた。
はじめ、あの目に見えぬ同居者に問いかけた質問は〝おまえはカヤか?〟という至極単純なものだ。そして、あれはそれを肯定した。
古来より、大切に使い古されたものには魂が宿るという。家がそれにならないとは言われていない。あれは、その実証であったというだけだ。
しかし、使い古されたと言うが、それこそもういつ崩れるのかもわからないと言われるほどまでに、カヤは建っていた。建ち続けていた。下にいたおれたちを守るために、カヤは決して倒れることはなかった。
みながその事実を知り、家から出て行ったというのにおれだけは残り続けた。なぜか? おれは信じたくなかったのだ。カヤを失うという事実は、まさしくおれの全てを失うことと同義であったから。
その行動の結果が正しかったのかはわからない。だが、後悔はしていない。あれの最後には、きっと孤独はなかったと思うから。孤独は、カヤの全てを壊しつくしてしまうだろうから。
日本家屋が倒壊してから、おれは息子の家に移り住むことになった。息子の嫁も嫌な顔は一つせず、嬉しそうに歓迎してくれたものだ。いい嫁をもらったな、逃げられないようにしろよと息子を叩くと、でれでれと緩んだ笑みを向けられた。そこまでいい顔をされると期待に応えたくなるというもの。おれは他にいい男を知っているぞと嫁に持ちかけると、息子が慌ててそれを阻止した。残りの半生、退屈はしなさそうだ。
もちろん、倒壊した家をそのままにしておけず、家族全員で片付けた。おれは生き生きと筋肉を酷使していたのだが、その際手のひらほどの家の柱の欠片を拝借させてもらった。きっと気づいたのは息子とその嫁くらいだろう。なぜならば、その木片は今神仏の代わりとして家の中で奉られているからである。勝手にやったことであるが、特に非難はされていないのでいいだろう。年寄りのお茶目として許して欲しい。
――その神仏の効果なのかなんなのか。今、おれは今までないほどの幸福の絶頂に至っているかもしれなかった。
「……天使か?」
初孫である。ぷるっぷるの頬に、柔らかな笑い声。そして小さな手。今、その手の中におれの人差し指が包まれていた。なにこのかわいい生き物。――あ、天使か。
「いや、お父さん、昔ぼくのことも同じように育ててましたよね? そんな初めて見た、みたいな反応はないでしょう」
「おまえはこんなに可愛くなかった」
「っぐ、ま、まあこの子が可愛いというのは認めましょう。だから、そろそろぼくに抱かせてください」
「断る。こういうのは父親に譲るものだ」
「ぼくがその子の父親なんですけど!」
目もあわせずに息子と戦っていると、息子の妻が大きく声を挙げた。
「お義父さん! あなた! ちょっと手伝ってくださいよ!」
「……休戦、ですね」
「いや、負けだ」
嫁の勝ちである。おれたちはしぶしぶ赤子の傍から離れ、嫁の荷物運びの手伝いをした。なかなか孫がおれの指を離さないので、このままここにいても許される気がしたのだが、そこは息子が許さなかった。せっかちな息子である。
用を済ませ、急ぎ足で孫のいる部屋へと戻ると、先ほどまでにはなかった異色があることに気づいた。
――紙だ。
おれは大きく目を見開いて、赤子の上に被せているそれを掴み上げた。
はつまご おめでとう
あと 紙ください
思わず吹き出した。あのばかは変わらない。
正面を見ると、孫が嬉しそうに手を振り回している。先ほどおれの指を決して離さなかったのと同じように、何かを掴んでいるかのようだった。
「――遅い」
そう告げると、黒い文字が書かれていくのが見える。
ごめん
いや、でも、書くものがないからって柱に書くなよ。