森での出来事-5
(帰る)
(…………帰る?)
(……………………帰れる?)
たった一つの言葉だけが胸の内で繰り返され、知らず手を握り締めた。掌に爪が食い込む事で生まれる痛みは、胸を締め付けるそれには遠く及ばない。
「早く無事な姿を見せて安心させて……悠樹?」
うつむいたまま、小刻みに震えている彼女に気付いたのか、ファルシオが言葉を切った。悠樹の顔を覗き込み、そして言葉を失う。
「帰るって、どこに?」
ようやく漏れた悠樹の声は、ひどく掠れたものだった。
彼女の、病的なまでに青ざめた唇がひくりと震え、瞬きを忘れたような瞳がファルシオを捕らえた。だが、すぐそばにあるはずの困惑したファルシオの顔でさえ、どこか遠い存在のようにも見えて。
悠樹は、急速に冷えて固まっていく感情を自覚しながら、彼に向かって答えられないとわかっている問いを投げかけた。
「私のウチ、どこにあるの?」
「っ……」
ファルシオが小さく息を飲む。
「私が帰るのはあんな立派なお屋敷じゃない。私の事を心配して待ってるのは、あのお屋敷にいる人じゃない」
彼の瞳の奥で揺れる光よりも、さらに遠くを見つめて呟く。
これ以上言ってはいけないとわかっていても、あふれ出した想いはもう止まってはくれない。
狭く古いマンションの一室でしかない自宅。
腹の立つことを言う親。
嫌になるほど見慣れた、でも懐かしく温かい風景。
言葉にすることもできない強い想いを代弁するかのように、焦点の合わない瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。かすんだ視界を振り払うように、悠樹は小さく首を振った。
「ウチに帰して……帰してよぉ……」
音もなく溢れ、零れていく涙の代わりに、木の枝から落ちた水滴が水溜りで声を上げた。二度、三度と続くその音だけが森に響く。
ふいに、ふわりと抱きしめられ、悠樹は目を見開いた。その瞳から、また一雫の涙が頬を伝い落ちる。
「すまない。……本当に、すまなかった」
戸惑うようにまわされたその腕は、少しでも抵抗の素振りを見せれば解けそうなほど弱く、それでいてしがみつくような必死な気配も感じる。
「元の世界に帰る方法は必ず見つける。約束する」
――だから今は、今だけは、あの場所に戻ってくれ。
そう囁いて、ファルシオは悠樹を抱く腕に力を入れる。自分を包み込む腕の温かさと優しさに、悠樹の瞳にまた涙が滲んだ。