③
一カ月くらい経っただろうか。
次第に薄汚れた屋敷は明るさを取り戻していく。
フィオーネは花瓶に花を飾り、明るいカーテンをとりつけたりしていたらしい。
彼女の作り出す温かな空気は、サフィードにとっては居心地が悪いものだ。
フィオーネはサフィードのこんな姿を見続けてもまだそばにいる。
侍女や執事たちはサフィードを鋭く睨みつけてばかりで、ろくな会話もしていない。
それでも食事が運ばれてきたり屋敷の主人として扱われるのは、フィオーネがそうしてほしいと望んでいるからだそうだ。
酒や娼婦を買う金だって湧き出ているわけじゃない。
それを使い込み散財するサフィード。
フィオーネは懸命にそんな自分を支えるために動き回っていた。
フィオーネはサフィードを見て何も言わずにただ笑っている。
悲しげに笑う彼女は、いつものように汚れてくたくたになったワンピースの裾を掴み俯いてしまうようになった。
今思えば、自分からさっさとフィオーネを解放してやればよかった。
それができなかったのはフィオーネがいなくなれば、自分が本当の意味で終わってしまうとわかっていたから。
それが怖かったのかもしれない。
サフィードはフィオーネに甘えていた。
今ならば自分が最低な奴だと思えるのだが、この時は苦痛から逃げることに必死だったのだ。
目が覚めると肌寒い。娼婦たちはいなくなっていた。
サイドテーブルに置いてあった金や部屋の装飾品などが消えていた。
そうするとサフィードは絶望の淵に立たされているような気分になる。
アルコールも欲も発散して、惨めな自分だけが残っている。
こんな時は決まって、現実を突きつけられて苦しくて息もできなくなるのだ。
(もういっそのことフィオーネの手で殺してくれたらいいんだ……!)
サイドテーブルに置いてあるウォーターポットを手に取り、コップに水を注いで一気に飲み込んだ。
アルコールが入っていないただの水は不味くてたまらない。
(まだ……現実に戻りたくない)
もう一眠りするかとベッドに戻ると、カーテンの隙間からは光が漏れていた。
時間の感覚なんてもうないが、眩しさが不快に思ったためカーテンを閉めるために立ち上がる。
カーテンの隙間から見えるのは、フィオーネが侍女たちと花冠を作って頭に乗せて優しげに微笑んでいる姿だ。
鮮やかな花畑はいつからあったのだろうか。
サフィードにはそれすらもわからない。
その姿があまりにも美しくて、サフィードは見惚れてしまう。
彼女は天使のようで無垢で純粋だ。だからこそサフィードが触れていいものじゃない。
(フィオーネは俺のことをどう思っているのだろうか)
ふと、フィオーネと目が合ったと気づいてサフィードは息を止めた。
そして反射的にカーテンを勢いよく閉めて窓に背を向ける。
薄暗い部屋に乱れた衣服と汚れたベッド。
自分とフィオーネの住んでいる場所はまったく違う所のように思えた。
ふと、手のひらを見ると血で赤黒くこびりついた汚れが浮き出てきたような気がした。
冷や汗がブワリと滲み出る。
アルコールが切れたせいなのか体がガタガタと震え始めた。
以前は血で汚れてしまっていたのだが、いつのまにか違うもので穢れてしまっているではないか。
今のサフィードには誇りもプライドもない。何もなくなってしまったのだ。
(俺は……彼女に触れる資格なんてない)
サフィードは拳を握り、己の弱さを壁を叩きつけたのだった。
──フィオーネが嫁いできてあと一カ月で一年が経つという時だった。
もうすぐ十六歳の誕生日を迎えるらしい。
窓越しに見るフィオーネは今日も花のように美しくなった。
子どものように思えていた彼女は髪も伸びて、すっかりと大人びて見えた。
まるで蕾だった花が一気に咲き誇ったようだ。
それはサフィードが苦労をかけているからだろうが、美しい彼女に強かさが加わったような気がした。
誰からも愛される彼女のおかげで、シーディリフ辺境伯邸は領地は保っていた。
領地のことも酒と女に溺れて何もしなくなったサフィードの代わりに、領地の管理も執事たちと協力してフィオーネがやってくれていたのだ。
けれどサフィードの堕落した生活は続いていた。
自由にできる金がないから娼婦を持ち帰ることも娼館に行くこともできない。
そんな日は安酒がサフィードを宥めてくれている。
自分がいなくてもフィオーネがいればいい、そんな甘えがあったのかもしれない。
何もせずに酒ばかり飲んでるせいか伸ばしっぱなしの髪と髭。
誰にも会わずに時間を潰して、現実を見たくなくて酒に逃げる。
(……父上がいたら愚か者と殺されただろうか。だが、その方がよかったんだ)
もうすぐ王家主催のパーティーが開かれる頃だろうか。
シュヴァルツはフィオーネと結婚して一カ月くらいの時に尋ねてきたが、その時にはもう酒に飲まれ女に溺れていた。
チェルヴォニからも何通か手紙がきているような気がしたが、会う気にはなれなかった。
彼らもサフィードと同じような時期にアーテルム帝国の女性と結婚したようだが、正直今の自分にとってはどうでもいい。
そう考えながら酒瓶を傾ける。
こんなクズな自分にはいつか天罰が下るのだろう。
サフィードは無意識にフィオーネがつらいめにあって帝国に泣き帰れば、また争いが起こるのではないかと無意識に思っていたのかもしれない。
そうすればまた争いが起こる。
サフィードの居場所は戦場の中にしかないような気がした。




