高嶺の花の隣
冬の風は鋭くても、日差しは優しく温かい。
頬のあたりを冷やす空気の筋と、コートの下から流れてくる熱が、歩くたびに交互に意識へ入ってくる。息はかすかに白く、肺の奥が少し乾く。
今日は休日で、彼女と会う約束がある。とはいえ、いわゆる「デート」というより、彼女の親の誕生日プレゼントを一緒に選ぶためだ。
商店街の広場までの道は、年末が近いせいか人の流れが途切れず、紙袋をぶら下げた家族連れや、厚手のマフラーを巻いた学生が、一定の速度で横をすり抜けていく。
広場が見えてきたところで、待ち合わせの彼女が目に入った。
彼女は背が高く、姿勢が良い。少し濃いめの眉と、はっきりした二重の目、鼻筋の通った美しい横顔が、人混みの中ですら輪郭が浮いて見える。
清楚系というより、悪女系の雰囲気。
どこか相手の反応を見て遊ぶ様子があるような、いじるときに口角が上がる、あの癖のある笑い方も含めて、絵になる。
――だが、その彼女の前に、若い男が立っている。
背が高く、鼻筋も通っていて、コートの着こなしまで決まっているイケメン。距離の取り方が近い。彼女が一歩引くと、半歩詰めた。
当の彼女の表情は苛立ちではなく、面白がっている側に寄っている。
返事は軽いが、切り方は雑ではない。拒絶の線は引いているものの、相手がどう動くかを観察しているようないたずら顔。
――いつものやつだな。
そう思いつつ、俺は少しだけ歩幅を詰めた。小走りと呼ぶほどではないが、相手の間合いに入る速度を上げる。
……だが、近づけば近づくほど、そのイケメンと俺の条件の差がはっきりする。
俺は二人の間に横から入る形で止まり、男に向けて言った。
「すみません。彼女、俺の連れなんで」
男の視線が、俺の顔から眼鏡、体格へと一瞬で滑った。
俺は背が高くない。彼女よりほんの少し背が低いほどだ。
体型も締まっているとは言い難く、コートの前を閉じると腹のあたりが先に主張する。目は悪い。コンタクトはドライアイがひどくてつけられず、強い度のレンズの眼鏡をかけているせいで、顔の中心が妙に詰まって見える。
丸い輪郭に小さな目。客観的に見れば、釣り合わないと感じる人がいても不思議じゃない。
次に、彼女の顔を見て確認する。
彼女は肩をすくめるようにして、男に向けて短く言った。
「だから言ったじゃん。彼氏いるって」
男は口元を引き締め、さっきまでの勢いを収めた。
「……あぁ、そうっすか……すみません」
それだけ言って、あっさり人の流れに紛れていった。背中が遠ざかるまでの数秒で、彼女の表情はもう普段に戻っている。
俺が息をついて笑う。
「相変わらずの人気だね」
彼女は、さっきまでのやり取りを思い返すみたいに短く目を細めた。
「ね。彼氏いるって言ってんのに、“お茶だけでも”とか言ってさ。あれ、本気でワンチャンあると思ってるんだよ。ガチウケるよね」
からかうときの、あの口角の上がり方。
俺は肩をすくめて、広場の端から商店街の通りへ歩き出す。彼女も並んでついてくる。人混みの速度に合わせると、自然に肩がぶつからない程度の距離ができる。
店先の屋台で甘い匂いがして、彼女がちらっと俺に顔を向ける。
「あぁー、焼き菓子買わない?プレゼント探す前にお腹減りそうでさー」
「うーん、どうせならもっとちゃんとした場所で食べようよ」
「じゃあ一個だけは買う。歩きながら食べたいから」
結局、紙袋に入った小さめの焼き菓子を一つ買って、彼女が半分に割り、俺の手に残りを押し付けた。指先が少し冷えていて、触れた瞬間だけ温度差が分かる。
「こういうの、普段あんた選ばないでしょ」
「選ばないな。自分の金なら多分買わないね」
「だよね。だから私が買ってやるんだ」
言い切るところが、いかにも彼女らしい。
◆
歩きながら、店のガラス越しに見える置物を見ては「これ、私のママにどうかな?」と投げてくる。俺が「それは渋いんじゃないか」と返すと、「じゃあこれは?」と返ってくる。
何気ない押し問答が続いて、俺の口も勝手に軽くなっていく。
――さっきのナンパもそうだったが、こうして楽しく彼女と話していると、よくふと思うことがある。
彼女は今日に限らず、ああいったナンパによく声をかけられる。彼女はそのたびに断るが、その反面、いつもどこか楽しそうな様子を見せる。拒絶ではなく、戯れに近い形で受け流す感じだ。
軽く嫉妬と劣等感を感じることはあるが、それより先にくるのが不安だ。
容姿の良くない俺が、ここまでの美人と付き合っているのは、実は奇跡なんじゃないか。こんなのはほんの短い間の出来事で、いつか彼女は、もっと容姿も良くて、頭も良くて、金もあって、理解もある男のほうへ行くんじゃないか。
「なに。急に黙るじゃん」
彼女が少しだけ顔を覗き込むようにして言った。
「あぁ、いや、別に」
「えぇー、別に、の顔じゃないけど?」
言いながら、彼女は俺の袖を軽くつまんで、歩く速度を落として合わせ直す。
そして、目と口元で笑顔を作る。
「もー。変な心配しないでよ? あんたは、私が会ってきた中で一番の好みなんだから」
言われた意味が、頭の中で処理されるまで少しかかった。
俺は反射的に彼女の顔を見る。すると、彼女は視線を逸らし、通りの反対側の地面の模様を見た。
片方に流している彼女の髪、その反対、俺の側に露出した首筋が、少し寒そうに見える。
「え、えぇー……ほんと?」
つい口から出る。自分でも間抜けな反応だと思った。
彼女は、わざとらしくため息をついて見せてから、やれやれといった感じでこちらを見ないまま言った。
「はぁ、もう。だって私から告白したんじゃん。覚えてるでしょ?」
「……そういえば、そうだったね」
俺がそう言うと、彼女は俺を見た。
だが視線が一瞬合うと、またすぐに逸らして前を向いた。
彼女から告白された日を、俺は断片的に思い出す。
会社の慈善プログラムの一環で、子ども食堂を計画して実施した。
ある程度段取りが落ち着いて、関係者への報告も終わったころ。夕方、彼女から「お茶しませんか」とLINEが来た。
最初は打ち上げの延長だと思った。
昼飯のあとに軽く、というつもりで店に入ったのに、気づけば日が傾くまで街をぶらぶら歩いたのを覚えている。
いくつか店を冷やかして、買い物もして、話が途切れないまま夜になって、それで最後に彼女が「付き合わない?」と言った。
あのときの驚きは、帰りに繋いだ手の感触と一緒に今でも残っている。
体温が上がって鼓動も早まって、喉が乾いて、返事もいくらか遅れた。
どうして俺なんかが?
その日は、家に帰った後に布団の中で、永遠にそれを考えていた。
理解できなかった。
俺は特別出世しているわけでもない。何か気の利いたプレゼントをしていたわけでもない。もちろん見た目も、彼女の隣に置いて「映える」タイプじゃない。
それに、周囲の状況もあった。
彼女に近づこうとする男は、社内に普通にいた。
もっと彼女に優しくしていた男、気遣いが上手くて、段取りができて、見栄えも良い男、飲み会で盛り上げるのが上手い男もいた。
それなのに彼女は、そういう男たちに振り向かなかった。
当時、彼女は「エベレスト級高嶺の花」として噂されていて、その雑談の中身は、だいたい決まっていた。
落とせるのは石油王だけだの、流行りの韓流アイドルだの、逆にヒゲモジャの渋い外国人だの。
冗談めかしながらも誰もが本気で狙っている空気は、職場の皆が分かっていた。
その「高嶺の花」という噂を、当時俺は苦笑いで聞き流していた。
だが、現実、今の彼女は俺の横で紙袋を揺らしている。
◆
風は相変わらず冷たく、商店街のアーケードのガラスから覗く日差しは優しく明るい。
日向に出るとコートの中が少しだけ緩み、日陰に戻ると頬の皮膚が引っ張られるような感覚が戻る。
「何系にしようか?」
「実用寄りがいいって言ってた。消えものでもいいと思う」
「じゃあ、お茶とかどうかな?専門店なら色んなフレーバーティー置いてるよ。それこそ日本茶から紅茶まで。」
「んー、でもお茶は家にたくさんあるって言ってた。それにママは甘い物あんまり食べちゃいけないんだよねー。」
「なら食べ物は避けようか。……あ、でも、香り物が好きって前行ってなかった?」
彼女は俺の提案を話半分で聞きながら、ガラス越しに並ぶ小物を覗き込む。
「香り物ねぇ……あっ、あれ良いかも。」
眉をほんの少しだけ上げ、俺に顔を向ける。
何か思いついた時の癖だ。
「ハンドクリーム系、ママ家事やり過ぎて、いつも手乾燥してるんだよね。……っていうか、あんたも乾燥やばいじゃん」
「えぇー、俺は別に関係ないでしょ」
「関係ある。私が見てて気になる」
言い切って、彼女は俺の腕を引くようにして商店街に隣接するデパートの方向へ進む。
入口が近づくにつれて、外の冷気が薄くなり、扉の内側から暖房の匂いが混じった空気が押し返してくる。館内に入ると、人の声が反響して、足音が柔らかくなる。
◆
売り場は季節感のある包装紙と、年末の特設コーナーで埋まっている。彼女は迷いなく香り物の棚へ行き、テスターを一つ手に取った。手首の内側に軽く当て、少し待ってから俺に差し出す。
「ほら、嗅いでみて」
「……優しい匂いだな。柑橘系か」
「でしょ。でも今回は”安牌”じゃなくて、もうちょい攻めてみたい思いがある」
俺には匂いのことはよく分からないが、彼女が言うと、なぜか納得する雰囲気が出る。
「こっちは?」
「それはちょっと匂いが強い。ママ、ちょっとしたことで頭痛くなりやすいんだよね」
彼女は目元で笑って、別の棚へ手を伸ばす。
手元の動きは速いが雑ではなく、容器の表示を読んで、すぐ戻す。
選ぶ作業そのものを楽しんでいるというより、相手の生活を考えて、何が一番その人のためになるのかでものを探している感じ。
俺は彼女のそういうところが好きだったりする。
◆
結局、香りの強さが控えめな、薔薇のハンドクリームと、小さなアロマストーンのセットに落ち着いた。
彼女は俺の横で、メッセージカードの内容を書いている。
ペン先がカードに近づけては宙に向けて上げるを繰り返し、仕事をしているときより深刻そうな顔で悩んでいる。
「案外真面目だよね」
「案外ってなにそれ」
そう言って、彼女は一度だけ小さく笑い、こちらを見た。
「こういうとこで適当にやると、後から後悔する。」
彼女はそう言ってからカードに視線を戻し、数行書き足すと、ペンを置いた。
その後店員に会計を頼み、包装された袋を受け取って店を出た。
少し歩いた先でエレベーターに乗り込み、閉じる扉の前で、彼女が伸びをして、小さいため息とともに肩の力を抜いた。
俺が荷物を持つ手をちらっと見る。
「……それずっと持ってて重いでしょ、私持つ。」
「え?いやそんなこと……」
彼女は袋を受け取り、俺の持っていた紙袋も当然のように取って持つ。
俺が取り返そうとすると、すぐ肩を引いて距離を作る。
俺は諦めて、先にエレベーターを降りる彼女の歩く速度に合わせた。
◆
夕方になって、外へ出ると空気が少しだけ硬くなっていた。日差しは残っているが、陰が伸びて、吐く息が前より白い。
彼女は「お腹すいた」と言い、迷わず回転寿司のチェーン店に入った。高級感のある店にこだわらないのは、付き合い始めてから何度も見てきたが、相変わらず判断が速い。
席に案内され、タッチパネルの画面が光る。湯気の立つお茶を注いでいると、彼女が画面を覗き込みながら言った。
「今日は白身中心でいきたい気分。貝も良いね」
「俺は卵と、牛肉と……」
「えぇー、最初っから寿司屋の趣旨を外してどうするんよ」
「血なまぐさい感じのやつちょっと苦手でさ」
「相変わらず繊細だね―、じゃあ、これならどう?炙り」
「炙りならいけるかも」
「よし、じゃあそれにしよ」
皿が流れてくるたび、彼女は自分の分を確保しつつ、俺が食べられそうなものを勝手に選別する。
俺がいつも頼む卵を見て「またそれ」と言い、次に牛肉を取ると「次からは私が注文したげるから」と笑う。俺は一応反論しながらも、画面のおすすめを眺めて、彼女が指さしたものを一つずつ試した。
最後に、デザートのパフェを一つだけ注文して、二人で分けることにした。
透明な器の中で、アイスが少しずつ形を崩し、クリームが皿の縁にゆっくり寄っていく。スプーンを入れる位置を、自然に譲り合うような間ができた。
「……ねぇ、昼の話の続きなんだけどさ、なんで俺だったんだ?」
そのタイミングで、俺の口から言葉が出た。
考えた末というより、今まで長く胸に残っていたものが押し出されたような。
彼女がスプーンを動かす手を止め、視線を俺に向ける。
「俺なんかで本当によかったの?もっとさ、かっこよくて、金持ちで、気遣いできて、話も面白い男、いたんじゃないか」
「それ、心外なんだよね」
彼女は、ためらわずに言った。声の大きさは変えないが、言い切る時の声の輪郭ははっきりしていた。
俺が黙って目を合わせると、彼女はそのまま言葉を重ねた。
「かっこよくて、金持ちで、気遣いできて、話が面白くて、背が高くて、筋肉があって、実家も太い、みたいなさ。私が“そういう基準”で彼氏を選ぶって思うあれ、結構心外なんだよね」
彼女はパフェの器を手から離し、スプーンを置いた。テーブルの上で金属と木がぶつかる音が軽く鳴る。
「私があんたのこと好きになったのは、”一目惚れ~”とかでもなく、あの子供食堂プロジェクトやってる時の……中盤くらいかな」
彼女の言う「子供食堂」は、会社の慈善プログラムの一環でやった、貧しい家族や子供、孤独な老人やホームレスに無料でご飯を提供するボランティア活動のことだ。
社内ではそれらしい名目が付いていたが、実態は部署横断の臨時チームで、やる気の濃淡も激しかった。
「あれ、最初、企画の段階からだいぶグダグダだったよね」
彼女は、当時の会議室を思い出すみたいに目線を少し上へ向ける。
「主任もさ、やる気っていうより、流れてきた予算で料理作って場所構えて待てばいい、みたいなノリだったし。私も別に興味なかった。どうせ来る家族って交流目当てで、本当に困ってて来る人はごく一部だろうなって思ってた」
そこまで言って、彼女は俺を見て、少しだけ口角を上げた。
「でも、あんたは主任に食ってかかったじゃん。広報のやり方を変えて、予算ももっとちゃんと使えとか、継続ボランティアを初回から募集して一回きりで終わらせるなとか、エアコンついてない会場なら変えるか、ストーブ入れろとか。あと、アレルギー想定してメニューのバリエーション増やして、チェックリストも作れとかさ」
彼女は、過去の面白いことを話すように、笑顔で楽しそうにそう言った。
「あの時は私も、随分めんどくさいボランティア精神旺盛なやつが来たなーと思ったよ。それに、最初、一回あんたと少し言い合いみたいになったよね?」
俺は思い出す。
◆
会議室の蛍光灯は白く、ワックスのかかる机の表面が乾いた光を返す。
壁際にはプロジェクターのスクリーン、ホワイトボードには「企業責任」「地域貢献」「子ども食堂」みたいな単語が、誰かの字で雑に並んでいた。
空調は効き過ぎてむしろ少し暑く、換気を十分にしていない部屋の空気は濁っていた。
主任は資料をめくりながら、「とりあえず一回やって、反応見て、ブログに記事を上げて、次年度も検討って感じで」と、淡々と言った。
同席していた連中は、メモを取るふりをしながら、実際は視線を漂わせていた。
そして話題の中心は「何食作る?」「カレーなら楽だよね」「映えるのは何」みたいな方向へ、すぐに滑る。
俺はその時期、仕事に対してやたらともどかしさを感じていた。
大手の菓子メーカーで働いていると、会議で飛び交う言葉の軽さに慣れてしまう瞬間がある。
経営理念だの、子どもだの、未来だの、立派な単語は簡単に出るのに、原料調達の現場や、食べる側の健康の話に触れると、急に全員が黙る。
深刻な話題が出ても、扱いは「リスク」か「炎上対策」に寄っていく。失敗したコラボのリカバリー、規制対象になった添加物の代替、そういうもののほうが、皆にとっての”対応するべき現実”だった。
その空気の中で、今回の企画も「誰も見ない企業ブログのネタ」の一つとして処理されるのが目に見えていて、それが俺には妙に腹に溜まっていた。
だから、つい言った。
「広報、“生活困窮者向け”って前面に出さないほうがいいと思います。誰でも来られるって形にした方が、来やすくなります」
主任が眉を上げ、何人かが俺を見る。
そこで、彼女が口を挟んだ。
「……困ってる人が対象の企画なんですから、”困ってない人”ばっかり来たら意味がないんじゃないですか?これも一応、会社のお金でやってるんですから。」
声は強くないのに、言葉の切れ味があった。
俺は椅子に浅く座ったまま、机の上に置いたペンを指先で回し、視線を彼女に向けた。
「私は“困ってない人”が来る問題よりも、困ってる人が来にくくなる構造がより重大な問題だと思います。『生活困窮者向け』と貼ってしまうと、我々が対象にする範囲内の人でも、来るのが恥ずかしいと感じたり、自分が来ても良いのかと思ったり、他人事に感じるなど、入口で足が止まる人がそれなりに出てきてしまいます」
「でも、現実には食材も人手も限りがありますよ。誰でも来ていいってしたら、タダ飯目当てで来る人が増える。ほんとに必要な人の分が減るのでは?」
彼女の言うことは理屈としては正しい。けど、俺はそれでも譲れなかった。
「それを防ぐために、入り口を狭くするのは違う。広報を工夫して、会場も選んで、協力先も増やして、来やすくする。その上で、結果的に困ってる人がちゃんと来られる環境を作るべきだと思う」
あのとき俺は、言い方が良くなかった。
語気が強くなって、主任に向けるつもりの苛立ちまで、彼女に向いた。
彼女も引かなかった。机の上の資料を軽く押さえて、淡々と反論する。
会議の終わり際、空気が少し変に固くなっていたのを覚えている。
俺は資料をまとめて立ち上がり、椅子を戻し、会議室を出た。
出る直前、彼女と目が合ったが、俺はそのまま扉を押した。
◆
その日の夕方、デスクに戻ってメールの返信をしていると、背後に気配があった。
振り向くと、彼女が立っていて、周囲の視線を気にしながら小さく頭を下げた。
「さっき、ちょっときつく言いました。ごめんなさい」
その言い方が、変に誠実だった。
職場で「ごめん」と言える人間は案外少ない。形だけならいくらでもあるけど、軽さで逃げない謝り方は、見た目以上に珍しい。
「いや、俺も言い方悪かったです」
俺がそう返すと、彼女は立ったまま、俺のデスクの端を指先で軽く叩いた。
「……――さんは、なんでそこまでこの企画にこだわるの?」
質問の角度が、いきなり変わった。
責めるでも、からかうでもなく、ただ理由を知りたがっている顔だった。
俺は椅子に座ったまま、眼鏡の位置を直して、画面を暗くした。
周りには人がたくさんいたが、それでも話さずにはいられなかった。
「会社が“いいことしてます”って言うための企画にしたくないんです。誰も困ってる人の話をしない。困ってる人の全体像すら見えてないのに、困ってる人のためって言う環境。……それはダメだと思うからです」
それから先の言葉は、止まらなかった。
やりたいこと、やるべきこと、継続の仕組み、協力団体、会場の導線、アレルギーの想定、掲示物の文言、子どもだけじゃなく保護者や老人、ホームレスの導線。
自分でも、よく喋ったと思う。
彼女は、途中で「もういい」みたいな顔を一度したのに、俺はずっと話し続けて、結局は彼女も黙って聞いていた。
彼女はメモを取るでもなく、途中で頷くのもやめた。でも、めんどくさそうにする反面、目線だけは俺の目にずっと向けられていた。
話し終わったとき、俺は喉がからからに乾いたことを覚えている。
◆
「あはっ、あんた何時間も話し続けたよね。私が“もういい”の顔しても、無視してさ」
その言い方に、妙な笑いが混じっていた。
責めるというより、面白がっているほうに寄った笑い方だった。
「ごめん。止まらなかった」
「うん。止まらなかったね、あははっ」
◆
そこから、彼女の動きは明らかに変わった。
会議の場での温度の低さが、少しずつ上がっていった。
アレルギーのチェックリストは、俺が叩きを作って、彼女が現場で使いやすい形に整えた。
広報チラシは、学校への配布依頼の文面を彼女が作って、教育委員会に出すルートを見つけた。
ホームレス支援団体や学生団体には、彼女が連絡を取り、最初の打ち合わせに同席した。
会場にストーブを入れる件では、施設から借りる交渉を彼女が担当した。電話口での口調は柔らかいのに、必要な条件は落とさない。
就業時間外に集まって作業する日もあった。
会議室の隅で、二人で段ボールの数を数えて、備品の一覧を作って、忘れ物が出ないようにチェックを回す。
窓の外は真っ暗で、オフィスの照明だけがやけに明るく、コピー機の近くの床が擦れて光っていた。
その作業の途中で、彼女がふと笑って言ったことがある。
「……うちの会社、こういうの、ほんとはもっと得意なはずなんだけどね」
言い方が軽いのに、内容は刺さった。
俺は「得意っていうか、金儲けにかけるお金と人材があるって感じですね」と返して、彼女が「ふっ、それな」と短く言った。
あの頃の俺は、会社にがっかりしていた。
でも、がっかりしたまま黙っているのも嫌で、だから動いた。
――結局、彼女が一番近くで手を動かしてくれた。
それが、俺にはずっと引っかかっていた。
なぜ、そこまでしてくれたのか。
◆
目の前には、半分ほど崩れたパフェの器と、俺の前に置きっぱなしになったスプーンがある。
流れていく皿の列は途切れず、タッチパネルのおすすめが時々切り替わる。
彼女は俺を見て、さっきの続きみたいに言った。
「あの時点で、ちょっとだけ好きになってたんだと思う」
俺が何も言えずにいると、彼女は視線を少しだけ外し、店内の照明のほうを見た。
「別に、“顔や金より性格~”みたいな、そんなありがちなもんだけが、恋愛じゃないんだよ」
彼女はそう言って、指先で器の縁を軽くなぞった。
爪は短く、角が丸く整えられている。色はなく、表面だけが均一に滑っていて、手入れの跡がそのまま出ていた。
「私に寄ってくる人ってさ、“一目惚れしました”とか、“優しい性格が好きです”とか、そういうのばっか。言い方変えただけで、結局見てるのは外面なんだよね」
彼女はそこで一度、俺を見た。
輪郭のはっきりしている目が、俺の視線と重なる。
「それでさ。“優しい性格”……この言葉、私あんまり好きじゃないんだけど、たぶんこれって二種類あると思う」
彼女は器から指を離して、テーブルの上で指先を揃えるように置き直した。
「一つめは、道路を渡れずに困ってる年寄りを手助けしたり、財産の一部を慈善団体に寄付したり。ちゃんと立派で、分かりやすい。褒められるし、感謝もされる」
言い切ってから、彼女は口元だけ少しゆるめて、短く息を吐いた
「二つめは……あんたみたいなやつ。周りを巻き込んで、冷たい目で見られて、“そんなことキリがない”って言われて、面倒がられて、損もして。......それなのに、そこで引かないで、現実に対して真摯に向き合うやつ」
彼女は言葉を選ぶみたいに一瞬だけ間を置き、それから続けた。
「あんたは、あの時も......変わらず今も、会社や私に”気に入られよう”とか、どうすればこの企画が”盛り上がるか”、”注目されるか”、”会社の利益になるか”、とかなんかよりも、先に困ってる人について考える。夢想家ってわけでもなく、現実に合わせようともしてた。……これって、面倒だし損するし、嫌われるし、手伝ってもらえないから失敗もしがち。『だから言っただろ』って、手伝ってもくれなかったやつが、勝手に呆れてきたりね。ほんと嫌になるよね。」
俺は湯呑みを手に取って、少しだけ飲んだ。
お茶は喉の奥へと静かに落ちていき、舌には温かさが残る。
「……ありがとう」
「うん、どういたしまして。でも、私の方こそありがとう」
彼女は即答した
俺は黙ってしまって、視線が器の中身に落ちる。
アイスは溶けて、クリームが皿の縁に寄っている。
「あとさ。あんた、私が謝りに来たとき、勝った顔しなかったでしょ。そこ、結構でかいよ」
彼女は、少しだけ口角を上げた。
昼にナンパを面白がっていたときの笑い方に近いが、露骨に遊ぶ感じというより、少し照れをごまかしているようにも見える。
「私があんたと一緒に過ごしたいって思ったの、ちゃんと理由あるし。むしろ、そうやって好きになる方が健全だと私は思う」
言い切ると、彼女はスプーンと器を引き寄せて、残っていたパフェを躊躇なくすくって口に入れた。
器の中身が一気に減っていく。
「……あぁー。俺、まだあんま食べてないんだけど」
俺がそう言うと、彼女は一瞬だけこちらを見て、悪びれない顔で言った。
「ごめんごめん。勢いでつい」
そして、タッチパネルに手を伸ばし、慣れた指の動きで画面を操作する。
注文確認の表示が出て、彼女は指先で決定を押した。
「はい、もう一個。あはっ、次はソーダパフェね」




