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第1章 夜に沈んだ再会 第2章  第3章 黒田の影が落ちる 第4章 奪われる日常 第5章 幸を抱いた夜 第6章 追い詰められた二人 第7章 友の裏側、支える手

本書『夜を担保にした恋』は、ひとつの“夜”から始まる物語です。

 誰の人生にも、光ではなく影が主役になる時期があります。未来が見えず、過去に縛られ、助けを求めたくても声を上げられない夜。その闇の中で、人は思いがけない誰かと出会い、あるいは再会し、静かに運命の歯車が動き始めることがあります。


 本作の主人公・梶原優と、初恋の相手・水木幸は、まさに“夜に取り残された二人”です。借金、裏社会、家庭の崩壊。抗う間もなく飲み込まれた現実の中で、二人は再び巡り合います。

 この物語は、強さの物語ではありません。どれほど弱く、脆く、迷っていても、人は誰かを大切にしたいと思える。その想いが、どれほど夜を照らす力を持つか。そのことを描きたいと思いました。


 もし読者のあなたが、人生のどこかで深い夜を経験したことがあるなら、この物語はきっと、あなたの心にそっと寄り添うと信じています。

『夜を担保にした恋』(上巻)


第一章 鉄骨の上の孤独


 昼休みのチャイムなんて、現場には鳴らな巻。

 代わりに、クレーンのエンジンが止まり、職人たちが一斉に腰を下ろす音が、休憩の合図になる。


 梶原優は、五階の仮設足場から見下ろした。

 組み上がった鉄骨の間を、海風が抜けていく。遠くに、灰色の海がかすんで見えた。


「梶原さーん、弁当いります?」

 下から声が飛ぶ。若い土工が、片手を振っている。


「ああ、自分の持ってきてるから大丈夫」


 優は短く答え、腰ポーチから水筒を取り出した。

 現場監督になって八年。三十歳という年齢は、この世界では「まだまだ若造」と「そろそろ中堅」の境目だ。


 同級生の何人かはもう結婚して、家を建てた。子どもの写真付きの年賀状を見るたび、優は、少しだけ息苦しくなる。

 ――自分には、ああいう未来を本気で欲しいと思ったことがあったか?

 答えが出ないまま、日々の工程表だけがきっちりと埋まっていく。


 スマホが震えた。

 画面には「佐伯」の名前が光っている。


『おつかれー。今日さ、飲み行かね? ちょっと面白い店見つけた』


「面白い店?」


『お前の同級生がママやってるスナック。名前聞いてビビったわ』


 嫌な鼓動が、胸の奥で跳ねた。


「誰だよ」


『水木幸。……覚えてるだろ? 小中ずっと一緒だったって言ってたぞ』


 足場のパイプを握る手に、じわりと汗がにじんだ。

 忘れていたわけじゃない。ただ、思い出さないようにしていただけだ。


「……仕事終わったら、場所教えてくれ」


 自分でも驚くほど、あっさりとそう言っていた。


第二章 スナック「ゆき」(再会〜一夜・抜粋)


 駅から少し外れた路地に、その店はあった。

 ネオン看板には、ひらがなで「ゆき」と書かれている。けばけばしくない、控えめな青い光。


 ガラス扉を開けると、カラン、と鈴の音がした。

 中は十席ほどのカウンターと、小さなボックス席が二つ。昭和っぽい歌謡曲が、低く流れている。


「いらっしゃいませー」


 店の奥から出てきた女を見た瞬間、優は呼吸を忘れた。


「……優君?」


 目の前にいるのは、間違いなく水木幸だった。

 栗色の髪を肩で揃え、黒のタイトなワンピースを着ている。派手ではないが、夜の店の空気が、彼女を少しだけ別人に見せていた。


「久しぶり……だな」


 やっとのことで言葉を絞り出すと、幸はふっと笑った。


「ほんとに、優君だ。変わってないね。ちょっと、かっこよくなったけど」


「お、おう……。そっちは……」


「私は、ほら。このとおり。やっとお店持てるようになったの」


 そう言って、両手を広げて見せる。

 その仕草に、誇らしさと、どこか無理に明るく振る舞う影が混ざっているのを、優は感じ取った。


 カウンターに座ると、幸はテキパキと氷を割り、グラスを並べる。


「何飲む? 昔みたいに、ジュースってわけにはいかないでしょ?」


「じゃあ……ハイボールで」


「了解。優君、大人になったね」


 氷の音、炭酸のはじける音。

 それを見ながら、優は目のやり場に困っていた。目の前の幸は、記憶の中の“クラスの人気者”とは違う。

 胸元の開いたドレス。プロの笑顔。男の視線を受け止めるように作られた仕草。


 ――なんで、お前が、こんなところに。


 喉まで出かかった言葉を、ハイボールで押し流した。


 *


 閉店時間を過ぎ、最後の客が帰る。

 看板のネオンが落とされ、店内の照明も少しだけ落ち着いた光に変わった。


「疲れたー。今日、ちょっと混んだね」


 幸はカウンターの内側で、大きく伸びをした。

 他のホステスたちはすでに帰り、店内には優と幸だけが残っている。


「悪かったな。忙しいのに、いきなり来て」


「ううん。嬉しかったよ。まさか優君が来てくれるなんて思わなかったから」


 カウンター越しに向かい合うと、急に距離が近く感じられる。

 優は、ここから本題に踏み込むべきかどうか、迷っていた。


「……なあ、幸」


「ん?」


「どうして、店……。こういう仕事、してるんだ」


 一瞬、幸の笑顔が固まった。

 グラスを拭く手が止まり、視線がカウンターの上に落ちる。


「……やっぱ、聞くよね。優君なら」


「嫌ならいい。無理に話すことじゃない」


「ううん。いつか、誰かには話さなきゃいけないと思ってたから」


 幸は、ゆっくりと息を吐いた。


「お父さん、覚えてる? ちょっと怖そうな顔してたけど、運動会とかちゃんと来てくれてた」


「ああ。水木のおっさん。弁当、うまかった」


「ふふ。あの人ね、会社やってたんだ。小さい工場だけど。だけど、ある時、取引先の保証人になってさ」


 言葉の端々に、自嘲が滲む。


「最初は『助けてやった』って自慢げでね。でも、気づいたら逆に追い詰められてた。取引先が飛んで、お金がぜんぶこっちに来て」


「……連帯保証か」


「うん。で、お父さん、耐えられなくなって、いなくなっちゃった。家にも、会社にも」


 優は拳を握りしめた。

 ――逃げたのかよ。

 口に出しかけた怒りを、自分の舌で噛み殺す。


「残ったのは、借金の紙と、私と、お母さん。……お母さん、体弱かったからさ。働けるの、私しかいなかった」


「だから……夜の仕事を?」


「最初は昼の派遣だけだったよ。でも、返済額には全然足りなくて。

 ある人が言ったの。『夜のほうが早いよ』って」


 幸は、笑っているのか泣いているのか分からない表情をした。


「仕方ないよ……優君」


 その言葉は、小さく、暗く、店の奥に沈んでいった。


 優の胸の奥で、何かがはちきれた。

 気づいた時には、もう身体が動いていた。


「……ごめん。勝手なことする」


 カウンターを回り込み、幸の肩を強く抱き寄せる。

 ふっと、甘い香水とシャンプーの匂いが混じった匂いが鼻を刺した。


「昔から、好きだった。俺。

 心配で、たまらないんだ。お前が、こんなとこで、笑ってるのが」


 幸の身体が、びくりと震えた。

 しばらくの沈黙のあと、くぐもった声が返ってくる。


「……優君、酔ってるよ」


「酔ってるさ。でも、これだけはホンネだ」


 幸は、ゆっくりと優の胸に額を預けた。

 女の鎧――プロの笑顔も、カウンターの向こう側に置いてきたように見えた。


「ねえ、優君」


「何だ」


「私さ、今、あなたに抱きしめられてるのが、嬉しいのか、楽になりたいだけなのか、よく分かんない」


「それでいい。今は、それでいい」


 言いながら、優自身も分からなかった。

 これは愛なのか。同情なのか。

 ただ一つだけ確かなのは、幸を、このまま「見なかったこと」にして帰るなんて、もうできないということだった。


 その夜、二人は、一つのベッドを分け合った。

 酔いと、疲れと、どうしようもない感情に押し流されるように。


 愛情と同情の境界線は、暗い天井のどこかで溶けていった。


第三章 朝の光と後悔の味


 カーテンの隙間から、白い朝の光が差し込んでいた。

 柔らかいはずの光が、優のまぶたには妙に鋭く感じられる。


 枕元には、見慣れない天井。

 薄いクリーム色の壁紙に、少し黄ばんだエアコン。

 かすかに香水とアルコールが混じった匂いが、部屋に漂っていた。


 身体を起こすと、隣で幸が眠っていた。

 派手ではないが、薄い色のシーツに包まれた裸の肩が覗いている。

化粧は少し落ちていて、いつもの「ママ」の顔ではなく、年相応の女性の顔だった。


 ――やっちまったな。


 頭の奥で、誰かが呟いた。

 後悔か、自己嫌悪か、それとも安堵か。

どれともつかない重い塊が、胃のあたりに沈んでいる。


 幸が小さく身じろぎした。

 薄く目を開け、しばらくぼんやりと優の顔を見つめる。


「……おはよう、優君」


「あ、悪い。起こしたか」


「ううん。外、明るいね。もう結構な時間?」


 枕元の時計をのぞき込む。午前九時を少し回っている。

 現場に行くには、完全に遅刻だ。


「……やべ。今日、午前中は資材搬入の立ち会いが……」


 優が慌てて服を探し始めると、幸は小さく笑った。


「ごめんね。私のせいで」


「違う。俺が、勝手に……」


 言いながら、言葉が続かなくなる。

 昨夜、自分は何を支えにあの行動に出たのか。

 「好きだった」という気持ちは本物だ。けれど、それに混ざって、彼女の境遇への同情や、自分の正義感みたいなものがあったのも否定できない。


 シャツのボタンを掛け違えたまま、優は黙り込んだ。

 その様子を、幸はベッドの上から静かに見ている。


「優君」


「……なんだ」


「昨日のこと、後悔してる?」


 真正面から問われ、心臓がきゅっと縮む。


「……後悔、っていう言葉は、あんまり使いたくないけど」


 言葉を選びながら、絞り出す。


「俺、自分が何してるのか、ちゃんと分かってなかったんだと思う。

 お前を守りたいとか、助けたいとか、カッコつけたこと考えてるくせに、結局、気持ちをぶつけて、スッキリしただけなんじゃないかって」


「……正直だね、優君。昔から」


 幸は、枕に頬を寄せながら、少しだけ目を細めた。


「私ね、昨日、ちょっと楽になったよ」


「楽に?」


「うん。誰かにちゃんと抱きしめられたの、何年ぶりか分かんないから。

 でも……それが恋なのか、ただの逃げ場なのかは、やっぱりまだよく分かんない」


 その言葉は、優の胸に鋭く刺さった。

 自分だけが「好きだった」と騒いで、彼女の心の重さを全部受け止めたつもりになっている――その身勝手さが、じわじわと浮かび上がってくる。


「……ごめん」


「謝らないで。昨日の優君の言葉も、抱きしめてくれたのも、ぜんぶ本当なんでしょ?」

「それは、嘘じゃない」


「だったら、それでいいよ。

 答えは、急がなくていいからさ。私も、自分の気持ち、ちゃんと整理しないと」


 幸は、そう言ってゆっくりと起き上がった。

 髪をかき上げ、シーツを胸元まで引き上げる仕草には、昨夜の「女の鎧」が少し戻ってきている。


「まずはさ、昼ごはん食べて、シャワー浴びて、仕事行きなよ。

 優君がクビになったら、それこそ私、立場ないから」


「……そうだな」


 笑い合えたのは、ほんの一瞬だけだった。

 その奥に、借金と夜の仕事と、見えない誰かの影が、うっすらと揺れている。


 優は、乱暴に顔を洗い、シャツのボタンを掛け直した。

 玄関へ向かうと、幸がドアまで見送りに来る。


「また、店に来てくれる?」


 問われて、優は一瞬言葉に詰まった。

 昨夜までなら、「もちろん」と即答していただろう。

 しかし今は、自分の感情の置き場が分からない。


「……行くよ」


 それでも、最後にはそう答えた。


「約束だよ」


 幸は、薄く微笑む。

 その笑顔は、どこかあきらめの色を含んでいるように見えた。


 外に出ると、昼前の光が眩しかった。

 現場に遅刻した怒りの電話が、すでにスマホに何件も着信している。


 優はため息をつき、ヘルメットの代わりに丸めたスーツの上着を片手に、走り出した。



 現場に着いたときには、すでに午前の休憩時間に差し掛かっていた。

 仮設事務所のドアを開けると、佐伯が腕組みをして待ち構えている。


「おっそー。どうしたんすか梶原さん。女と朝までコースっすか?」


「……悪い。寝坊した」


「はいはい。顔赤いし、完全にやらかした顔っすね。

 で? どの子? 昨日の“ゆき”の子?」


 図星だった。

 優は無言でヘルメットを取り出し、工程表に目を落としたふりをする。


「おお、マジっすか。梶原さん、やるときやるなあ」


 軽口を叩きながらも、佐伯の目はどこか鋭い。

 単なる茶化しではなく、どこか探るような視線。


「……お前、あの店、前から知ってたのか?」


「まあ、取引先の人に連れてかれて。何回かは」


「幸とは、どんな話した」


「普通ですよ。ママとして愛想振りまいてくれて。

 でもまあ、ちょっと“きな臭い”感じはありましたけどね」


「きな臭い?」


「店のオーナー。あれ、多分、別にいますよ。

 資金出してるの、あの界隈じゃ有名な人だし」


 優の心臓が、また嫌な跳ね方をした。


「どういう意味だ」


「黒田って人、聞いたことありません? “黒田不動産”とか名乗ってるけど、ほとんど半グレみたいなもんっすよ」


 昨日、カウンターの端で幸に絡んでいた、あの男の顔が頭に浮かぶ。

 鋭い目つき、場を支配するような気配。

 幸があの男を見る時だけ、わずかに表情を固くしていたことを思い出した。


「梶原さん、深入りしないほうがいいっすよ」

 佐伯は、缶コーヒーをぐいっと飲み干して言った。


「俺らの会社も、あの辺と完全に無関係ってわけじゃないんで」


「どういうことだ」


「……まあ、そのうち分かりますよ。今やってるこのテナントビルも、オーナー、黒田って噂だし」


 優は、工程表に載っている物件名を見下ろした。

 そこには、確かに「黒田不動産ビル(仮称)」と書かれている。


 背筋に、冷たいものが走った。


第四章 借金という名字(導入)


 その夜、優は、約束どおり再び「ゆき」のドアを開けた。

 前日ほど緊張はない。だが、代わりに重たい疑問と不安が胸を占めている。


 幸は、昨日と同じように笑顔で迎えた。

 ただ、その目の奥には、少し違う色が見えた。

 昨夜、ベッドをともにした男女としての、微妙な距離感。

 そして、客とママとしての線引きを、きっちり引こうとしているような気配。


「今日も来てくれて、ありがとう」


「約束したしな」


 カウンターに座ると、幸は手際よくグラスを用意する。


「昨日は……ごめんね。いろいろ、重い話しちゃって」


「聞かなきゃいけない話だったろ」


「ふふ。優君、そういうとこ変わってないよね。

 “自分が聞かなきゃ”って、全部背負い込もうとする」


 図星すぎて、何も言い返せない。

 そこへ、扉の鈴が鳴った。


「よっ、やってる?」


 低い声とともに、黒いコートの男が入ってくる。

 髪をオールバックに撫でつけ、指には太いリング。後ろには、無言の若い男が二人控えている。


「いらっしゃいませ、黒田さん」


 幸の声のトーンが、一段だけ変わった。

 優は思わず、グラスを握る手に力を込める。


 ――こいつが、黒田。


 噂で聞いた名前が、目の前の男と重なった。


「お、ママ。機嫌よさそうだな。いいことでもあったか?」


「黒田さんがお店に来てくれるのが、一番の“いいこと”ですよ」

 幸は、完璧なホステスの笑顔を作ってみせる。

 さっきまでの、少し砕けた口調が嘘のようだ。


 黒田は、カウンターにどっかと腰を下ろし、優をちらりと横目で見た。


「新顔だな」


「小中の同級生なんです。梶原優君。建設会社で働いてて」


「ほう、建設か。今、五丁目のビル、うちがやってるんだがな。

 お前も、ああいうとこ関わってたりするのか?」


 挑発とも探りともつかない口調。

 優は、喉の奥が乾くのを感じつつ、最低限の礼儀で答える。


「現場の一部、担当してます。工程の調整を」


「真面目そうだな。ママの同級生なら、悪いヤツではなさそうだ」


 黒田は笑いながら、カウンターを指先で軽く叩いた。


「ママ。この前の返済、今月分、まだだよな?」


 その一言で、空気が変わった。

 幸の指が、グラスを持つ途中でぴたりと止まる。


「ええ。今月末には必ず……」


「“今月末には必ず”、もうそれ三回目だぞ。

 俺も慈善事業で金出してるわけじゃねえんだ」


 笑顔のままの口調。だが、その笑顔の奥にあるものは、笑ってはいなかった。


 優の胸の奥で、何かがきしんだ。


 ――やっぱり、そういうことか。

店の“オーナー”と闇金。

 幸の「やっとお店持てるようになった」という言葉が、別の意味を帯びて頭の中で反響する。


「……黒田さん」


 幸は、かろうじて平静を保ちながら言う。


「今月は、ちょっと客足が落ちてて。でも、ちゃんと働いて返しますから」


「もちろん、信用してるさ。お前が逃げるタマじゃねえことくらい分かってる」


 黒田は、わざとらしく優のほうに目をやった。


「同級生もいるしな。

 ――なあ、梶原君。女のために一肌脱ぐってのも、男の生き方の一つだと思わねえか?」


 あからさまな挑発だった。

 優は、無意識に歯を食いしばる。


「借りたものは、本人が返すべきだと思います」


 短く、そう答えた。

 それが精一杯の反抗であり、同時に、幸の自尊心を守ろうとする一言でもあった。


 黒田は、一瞬だけ目を細めたあと、また笑った。


「真面目だな。いいねえ、そういうのも。

 まあ、ママ。今夜はこのくらいにしといてやるよ。月末、楽しみにしてる」


 そう言い残し、黒田は若い連中を従えて店を出ていった。

 鈴の音が、やけに大きく響く。


 残された店内で、優と幸はしばらく言葉を失っていた。


「……あいつが、オーナーか」

やっとのことで優が口を開くと、幸は力なく笑った。


「そうだよ。いや、“オーナー”なんて綺麗な言い方、似合わない人だけどね」


「いくら、借りてるんだ」


「優君に言っても、どうにもならないよ」


「それでも、知りたい」


 優の声は、自分でも驚くほど低かった。

 感情を抑え込んでいるが、その奥にある怒りは隠しきれない。


「……元々のお父さんの借金が、八百万。

 それをまとめたとかなんとかで、“利息込みで一千万にしてやる”って言われたの。優しいでしょ?」


 皮肉を込めた笑いが、喉でひび割れる。


「で、店の開店資金ってことで、さらに五百万。

 “この店が軌道に乗れば、すぐ返せる”ってね」


「合計で一千五百万か」


「紙の上ではね。本当はいくら膨らんでるか、もうよく分かんない」


 優は、カウンターを握る手に力を込めた。

 指の関節が、白くなる。


「闇金だろ、それ。利率、おかしい」


「分かってるよ。そんなの。

 でも、あのときは、それしか道がなかった」


 幸の声は、かすかに震えていた。


「昼の仕事だけじゃ、とても追いつかない額でさ。

 お母さんの治療費もかかってたし……。

 “身体で払え”なんて、そんなこと、したくなかったから。自分で店やって、ちゃんと仕事で返そうって思ったんだよ」


「身体で払ってないのか?」


 問いながら、これ以上踏み込むべきではないとも感じている。

 だが聞かずにはいられなかった。


「……今のところは、ね」


 幸は短く答え、グラスを磨き始めた。

 それ以上は、語らない――そういう線を感じる。


 優は、黙ってハイボールを飲み下した。

 喉を通る冷たさだけが、熱くなった頭を少しだけ冷やしていく。


 ――こいつは、普通の借金じゃない。

 ――こいつは、俺一人の「優しさ」なんかじゃどうにもならない。


 その夜、優は初めて、自分が踏み込もうとしている世界の深さを、はっきりと自覚した。


 それでも、足を引くことはできなかった。

 店の明かりの向こう側に立つ幸の背中が、あまりにか細く見えたからだ。


第五章 黒田の影


 その夜の空気は、湿り気を含んでいて、夜風に混じって鉄の匂いがした。

 スナックの外に出た優は、しばらくその場で立ち止まった。

 幸の笑顔、黒田の冷たい目、借金の額――それらが頭の中で渦を巻き、思考を掻き乱す。


 ――一千五百万。

 ――毎月の返済。

 ――店の売上。

 ――黒田の支配。

優は深く息を吸い、吐く。

 工事現場の騒音より、今の静けさのほうがよほど胸を締めつけた。


「……どうすりゃいいんだよ」


 自分に向けて投げた言葉は、夜の闇に飲まれて消えた。



 翌日、建設会社の会議室。

 優は資料を並べて、進捗報告の準備をしていたが、集中できない。

 そこへ佐伯が入ってきた。


「おう、梶原さん。昨日のアレ、見たぞ?」


「アレ?」


「黒田が店に来てただろ。あいつ、やばいぞ」


 やっぱり気づかれていたらしい。

 優はペンを置き、佐伯を見つめた。


「……どこまで知ってる」


「まあ噂レベルだけどな。

 黒田、表向きは不動産屋やってるけど、裏は完全に“取り立て屋”。

 しかも、連中のバックには“組”もいるって話だ」


 優は息をのむ。


「組って……暴力団か?」


「まあ、直じゃなくて半グレ経由とか、フロント企業とか、そんなとこだろ。

 最近じゃ警察も完全に潰し切れねえ。業界の奴なら誰でも知ってる」


 佐伯の声はいつもの軽さより、一段低かった。


「梶原さん。

 あの世界は、俺ら一般人がどうこうできる相手じゃない。

 しかも“金”の問題だろ。余計に危ねえ」


「幸の借金だ」


「だろうなと思ったよ。

 ……お前、深入りするな。マジで死ぬぞ」


 佐伯の目には、茶化しも冗談もなかった。


 優は、言葉に詰まりながらも、絞り出した。


「放っとけるわけねえだろ」


「気持ちは分かる。

 でもな、お前が“助けたい女”は、すでにヤバいところに足突っ込んでる。

 そして、お前もだ。昨日、あの場にいた時点でな」


 その言葉は、鋭い刃のように優の心に突き刺さった。


 ――もう俺は、「無関係」じゃない。


 身体が冷えていくのを感じながら、優は黙って拳を握った。



 会議が終わり、優は資料を抱えて帰ろうとしたが、廊下の奥で不審な二人組を見かけた。

 スーツは綺麗だが、雰囲気が普通ではない。

 建設会社の社員とは明らかに違う。


 一人がスマホで何かを話している。


「……ああ。梶原優。確認した。

 今日の帰り道だな。はい、黒田さんに伝えます」

優の足が、凍りついた。


 ――俺を……見張ってる?


 気づかれないように踵を返し、その場を離れる。

 全身の汗が噴き出した。


(黒田……何考えてる)


 昨夜の態度を思い返す。

 優に向けた挑発、探るような笑み。

 あれはただの“脅し”ではなかった。


 ――幸の借金に、優を巻き込む気だ。


 そう理解した瞬間、背中に冷たいものが走った。



 夕方、幸の店の近くまで来たところで、優は立ち止まった。

 今日の彼女は、笑っているだろうか。

 黒田がまた来ているか。

 それとも――。


 店の前に、黒田の車(黒のワンボックス)が停まっていた。


 優の呼吸が止まる。


 車の横には黒田の部下らしき男が二人、タバコを吸っている。

 店のドアは閉まっているが、店内の灯りはついている。


「……幸」


 胸がざわつく。

 焦りと恐怖と怒りが混ざった、言葉にならない感情。


(このままじゃ……幸、潰される)


 優は覚悟を決めた。


 ドアを開ける。

 中に入ると、空気が張りつめていた。


 カウンターに、幸。

 その正面に、黒田。

 黒田の横には、細身のスーツの男が資料の束を持っている。


「来たか、梶原」


 黒田が振り返る。

 笑っているが、その目には氷のようなものが宿っていた。


「丁度いいところだ。

 お前にも、聞いてもらいたい話があってな」


「……何の話だ」


「“担保変更”だよ」


 黒田は書類をトントンと整え、広げてみせた。


「水木の返済が滞ってる。

 店の売り上げじゃ追いつかねえ。

 だから――」


 黒田は、優の顔を見たまま、言った。


「“保証人”になれ」


 息を呑む音が、店内に落ちた。


「優君、ダメ! そんなの絶対に!」


 幸が即座に叫んだ。

 震える声、血の気が引いた顔。


「梶原。これは簡単な話だ」


 黒田は指を折って、説明を続ける。


「1.お前が保証人になる」

「2.月々の返済が減る」

「3.水木は店を続けられる」

「4.お前は“彼女を助けたヒーロー”になれる」


 にやり、と笑った。


「悪い話じゃねえだろ?」


 優は震える拳を必死に抑え、黒田を睨んだ。


「……ふざけるな。人の人生を勝手に――」


「勝手に決めてんじゃねえのは俺より、“お前”のほうかもな?」


 黒田の声が、凍りつくほど低くなった。


「お前、昨日の夜、ママに触ったそうだな?

 同情だか、愛情だか知らねえが――」


 黒田は優の胸を指で軽く押した。


「“女を抱いた責任”くらい、取れよ」


 幸の顔が、絶望に染まった。


「違う……違うの優君。あれは、そんな意味じゃ……」

優は呼吸が荒くなり、拳に血が滲むほど握り締めた。


「てめぇ……」


「おっと暴力か? いいぞ、やれよ?

 そしたら“警察案件”だ。お前の会社もただじゃ済まねえ」


 黒田の背後の男たちが、じり、と間合いを詰める。


 幸は泣きながら首を振った。


「ダメ、優君……お願い、やめて……!」


 優は、歯が砕けそうなほど強く噛みしめ、拳を下ろした。


(こんなやつ……

 こんなやつに……

 幸を……)


 黒田は優の肩に手を置く。


「お前さ。いい“駒”になるよ。

 建設業界の人間は、何かと使い勝手がいいんだ」


 優は凍りついた。


 黒田は続ける。


「現場の図面、工程情報、入札前情報……

 “ちょっとした協力”をしてくれりゃ、金なんてどうでもよくしてやるよ」


 優はその瞬間、悟った。


 ――黒田は最初から、幸ではなく“俺”を狙っていた。


「どうする、梶原?」

黒田は書類を差し出した。


「優君……絶対にダメ! 私、もうどうなってもいいから……!」


 幸が泣き叫ぶ。


 優の手が、ゆっくりと書類の上に伸びていく。


 手が震える。


 呼吸が乱れる。


(どうする……俺……)


(どうすんだよ……)


(幸を……見捨てるのか?

 それとも……)


 紙は、目の前にあった。


第六章 拒絶と報復


 優は、書類を前にして動けなかった。

 ペンを握る指が震える。頭の奥では「助けたい」という声と、「罠だ」という声が激しくぶつかり合っていた。


 幸は涙で顔を濡らしながら、首をふり続けていた。


「優君……お願い……こんなの、受けちゃダメ……」


 黒田はテーブルに肘をつき、薄く笑った。


「どうした?

 昨日は抱きしめて、命懸けみてえな顔してただろ。

 だったら責任取れよ。口だけ男か?」

挑発的な声が、優の胸を抉る。


(幸を守りたい。

 でも、この紙にサインしたら――

 俺も人生を握られる。破滅する)


 優は喉の奥で息を噛み殺し、ゆっくりと言った。


「……俺は、保証人にはならない」


 空気が、ぱん、と張りつめた。


 幸が小さく息を呑む。

 黒田の笑みが、完全に消えた。


「――なんだと?」


「借りた金は、本人が返すべきだ。

 俺が介入する問題じゃない」


 その言葉に、幸は震えながらも小さく頷いた。

 黒田の目だけが、蛇のように細く光る。


「てめぇ……どの立場で物言ってんだ?」


「俺は……彼女の“借金”の代わりにはならない」


「はっ。カッコつけやがって」


 黒田はテーブルを指先でトントンと叩き、無言のまま部下に合図した。


「連れてこい」


 すると、黒田の後ろから別の部下が入り、ひとつの封筒を持ってきた。


「……これは?」

 黒田は封筒を優の前に放り投げた。

 中には数枚の写真。


 優の自宅。

 優の勤務先の建設会社のビル。

 そして――優の母親が買い物している姿。


 優の背中に、氷の刃が突き立つ。


「お前の“人生の担保”はこっちでも十分調べてんだよ」


 黒田は、静かに続けた。


「保証人にならなくてもいい。

 けどな、世の中、選択の代償ってやつがあるんだ」


「黒田さん……やめて! 優君は関係ない!」


 幸が叫ぶ。


「関係なくねぇよ。

 ――お前が、昨夜アイツを“部屋に入れた”時点で、もう全部繋がってんだよ」


 黒田の声は低く、底が見えない。


「梶原。お前は今日、ひとつの選択をした。

 なら、その答えに“報い”を払え」


「報い……?」


「簡単な話だ。

 優君が保証人にならないなら――」


 黒田は幸の髪をつかみ、無理やり顔を上げさせた。


「こいつの支払いは、“別の形”で回収する」

幸の悲鳴が店内に響いた。


「やめろ!!」


  優は立ち上がり、黒田に殴りかかろうとした。

  だが、すぐに横から二人の男が押さえ込む。

 腕を後ろにねじ上げられ、痛みで顔が歪む。


「てめぇ!! 離せ!!」


「暴れんなよ。今ここで暴れたら、ほんとに“警察行き”だぞ」


  黒田は優の前まで歩いてきて、耳元で冷たく囁いた。


「次、邪魔したら――

 お前の家族、泣かすぞ」


 優の視界が赤く染まった。

 だが、暴れれば幸がさらに危険に晒される。

 優は必死に自分を抑えるしかなかった。


 黒田は優を離し、幸の肩を掴んだ。


「ママ。用意、しとけよ。

 今月末までに払えなきゃ――お前は“うちの店”に移動だ」


 幸の顔が蒼白になる。


「“店”……?」


「ああ。“スナック”じゃねえよ。

 水商売の中でも、一段階“下”のな」


 優は身体が震え、拳を握りしめた。


「幸に……そんなこと……させねぇ……」

「へえ」

 黒田はあざわらった。


「じゃあ、お前はどうする?

 保証人にはならない。

 金もない。

 力もない。

 “覚悟”もねぇ」


 黒田は優の胸を指で軽く叩いた。


「口だけ正義マンが、何を守れる?」


 その言葉は、優の心臓を貫いた。


「……必ず、どうにかする」


「ほう?」

 黒田はあざけるように笑った。


「楽しみにしてるよ。

 ――期限は“月末”だ」


 黒田と部下たちが店を去ると、店内は一気に静寂に包まれた。



「……優君、ごめん……」


 幸は膝から崩れ落ちた。

 肩が震え、息が詰まっている。


 優はそっと彼女を抱きしめた。


「謝るのは俺だ……

 守れなくて……

 何もできなくて……」


「違うの……違うの……

 私が、全部……悪いんだよ……」


「悪くない……お前は悪くない……!」


 必死に言葉をかける。

 だが、幸の涙は止まらない。


「優君……私、どうなっちゃうの……?」


「絶対に……絶対に、何とかする。

 だから、信じてくれ」


「……うん……」


 幸は優の胸の中で泣き続けた。


 優は、その細い身体を抱きしめながら、心の底で決意する。


(――黒田を、止める)


(幸を“返済の道具”にさせない)


(俺が……絶対に救う)


 そのためには、法律、裏社会、企業の闇――

 あらゆるものと戦わなければならない。


 だが優にはまだ知らなかった。


 この時すでに、黒田の“報復”は始まっていた。


 翌日、仕事へ向かうと――


 建設現場に、警察が立ち入り検査を行っていた。


 そして上司が言った。


「梶原。

 ――“お前の情報漏えい疑惑”が出てる」


 優は凍りついた。


第七章 失踪

1.警察の立ち入りと「疑惑」


 現場の入口には、黄色いテープと警察車両。

 優は目を疑った。


「なんだ……これ……」


 安全靴を履いた職人たちが、遠巻きに様子を見ている。

 警官が工事責任者と思われる男に厳しい口調で質問をしている。


 優が近づくと、上司の坂下が青い顔をしていた。


「梶原……来たか」


「何が……あったんです?」


 坂下は唇を噛みしめた。


「資材の搬入ルートと工程表の“外部流出”だ。

 それを見た第三者が、近隣住民の“安全管理欠如”を通報したらしい。

 警察が、内部犯と情報漏えいを疑ってる」


「外部流出? そんなはずないだろ!」


「じゃあ、これは何だ?」


 坂下がスマホを突きつける。

 画面には、現場の図面や工程表の“内部資料”がSNSに流出していた。

 それは――優が昨日、机の上に置いていた資料だった。


 優の心臓が止まりそうになる。


(黒田……てめぇ……)


「警察は、最初に“君”に話を聞きたいと言ってる。

 昨日の夕方あたりの行動、説明できるか?」


(店にいた……幸と……黒田と……

 答えられるわけねぇだろ……)


 沈黙した優を見て、坂下の表情が曇った。


「……梶原、まさかとは思うが、

 “裏”と繋がりがあるんじゃないだろうな?」


「違います!!」


「じゃあ“誰が”あの資料を持ち出したんだ?

 お前しか触ってないんだぞ」


 優は詰められ、反論できなかった。


 その時だった。


「梶原優さんですね?」


 後ろから声がした。

 若い刑事が、身分証を開いている。


「お時間よろしいですか?

 いくつかお話を伺いたいのですが」


 優は、胸の奥がざわつくのを感じた。


(これが……黒田の“報復”か)



事情聴取は数時間にも及んだ。

結局、明確な証拠がないため解放されたが――


 会社には「本社調査」が入る。

 優の立場は危うい。


 現場を去ろうとしたとき、佐伯が駆け寄ってきた。


「梶原さん! 大丈夫だったか?」


「……なんとか」


「絶対おかしいよ。誰かがお前をハメてる。

 黒田しかいねぇだろ。あいつの臭いしかしねぇ」


「ああ。分かってる」


 優の声は低かった。


「これ以上巻き込めない。

 お前まで危険に晒したくない」


「今さらだよ」

 佐伯は苦笑した。


「俺らもう、あの夜の店にいただけで十分巻き込まれてるんだ。

それでも……俺は味方だぜ?」


 優は、喉が詰まって何も言えなかった。


2.幸の沈黙


 優はその夜、真っ直ぐスナック「ゆき」へ向かった。


 しかし――


 店は閉まっていた。


 看板の電気も消えている。

 鍵がかかり、店内の灯りは真っ暗。


「幸……?」


 不安が胸を締めつける。


 スマホで幸にメッセージを送るが、既読がつかない。

 電話をかけても出ない。


 嫌な汗が背中を流れた。


(黒田に……連れて行かれた?

 まさか……取り立ての“代わり”に……)


 優は近くの交差点まで走り、店の裏口を確認した。


 そこに――


 一足分のヒールの靴跡と、踏みにじられた化粧ポーチが落ちていた。


「……幸、か?」


 拾い上げると、見覚えがあった。

 昨夜、幸が使っていたポーチだ。


 優の胸が一気にえぐられた。


「……くそっ……!」


 叫びたい衝動を抑え込み、優は震える手でポーチを抱きしめた。


(絶対に……黒田だ)


 その瞬間、スマホのバイブが震えた。


 “見知らぬ番号”からの着信。


 嫌な予感が全身を駆け抜ける。


 優は通話ボタンを押した。


「もしもし……」


『……優君……?』


 弱々しい声。


 幸だった。


「幸!! 今どこだ!? 無事なのか!?」


『……ごめん……ごめんね……優君……』


「謝るな! 何された!? 黒田か!? どこにいる!!」


 幸の声は震え、遠くで車の音がした。


『……逃げられないよ……私……

 もう……無理なんだよ……』


「無理じゃねぇ!! 俺が行く! 今すぐ!!」


『来ちゃ……だめ……優君……

 巻き込まれる……』


「巻き込まれてんだよ! もうとっくに!!」


 息が詰まるほどの沈黙。


 そして――


『……ごめんね……優君……

 私……誰も傷つけたくない……

 だから……消える……』


「やめろ幸!! どこだ!! どこにいるんだ!!」


『……さよなら……優君』


 プツッ。


 通話が切れた。


「幸――――!!」


 優は全力で走り出した。

 どこへ向かって走っているのかも分からず、ただ必死に街を駆け抜ける。


(消える……って……

 どこへ……行くんだよ……)


 涙が視界を曇らせた。



3.父・正彦の影


 幸を見つけられぬまま、夜が明けた。


 優は力尽き、店の前へ戻った。

 ポーチだけが、静かにそこにある。


 その隣に、男の足元が影を落とした。


「……梶原優、だな?」


 顔を上げると――そこにいたのは、やつれた中年の男。


 髪は伸び、ひげは無精。しかし、その目だけは鋭い。


「……あんた……誰だ」


「水木……正彦だ」


 幸の父――飛んだはずの、借金を残して消えた男。


「幸を……探してるんだろ」


「……アンタ……どの面さげて……娘を……!」


「言いたいことは分かる。だが今は、怒ってる暇はねぇ」


 正彦は立ち尽くす優の前に、一枚の紙を差し出した。


「黒田の“本当の狙い”は幸じゃねえ。

 ――お前なんだよ、梶原優」


「……なんだって?」


「俺が全部話す。幸の借金、保証人、黒田……本当に危ないのは――“これからだ”」


 優は紙を見た。

 そこには、


《不正建築計画の裏金出納表》


 と書かれていた。


 黒田の裏金。

 建設業界の闇。

 そして――優の会社の名前。


「黒田はな……幸を使って、お前を引きずり出す気だったんだよ」


 正彦の声は震えていた。


「お前の知ってる“罪の証拠”が、黒田の首を切る鍵になる。だから幸を消した。

 お前を追い詰めるためにな」


 優は紙を握りしめ、唇を噛んだ。


(幸が……俺のせいで……)


 正彦は続けた。


「梶原。――幸を助けたいなら、覚悟を決めろ」


 優の目に、炎のような決意が灯った。


「……決めたよ。あの日からずっとな」


 そして優は、初めて正彦と向き合った。


「行こう。

 幸を……取り戻す」


下巻へ続く


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