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第1話「沈殿の夜」

夜の内裏は、昼間の喧騒を忘れたように静かだった。窓の外で、紙簾が風に揺れる音だけが、ひそやかに響く。白い布の上で小瓶を転がし、綾乃は沈殿の位置を確かめる。誰もが「病死だ」と言った夜に残されたのは、薬としてはありえない痕跡だった。


「薬は嘘をつかない」と師は言った。だが、嘘を隠す薬はある。綾乃はその違いを、証拠として確かめることを自分に課した。


――側近の急死。それは表向き、突然の高熱による病死だった。王后側近の典侍・蒔絵まきえが悲しむ姿も、後宮の常ならぬ空気も、すべてが自然の流れとして片付けられるはずだった。だが綾乃の目は、小さな沈殿に、微かな光を見た。


「……この成分、通常では混ざらないはず」


机に置かれた小瓶には、透明な液体の底に、細かい白い沈殿があった。調合法、分量、抽出温度――すべて標準通りのはずなのに、どこかが違う。師の長楽も見落とすような微細な違和感。それを見抜いた綾乃は、指先でそっと沈殿を撹拌した。


「……痕跡は二つ。副作用では説明できない」


心の中でつぶやきながら、綾乃は書き留めた。小さな紙片に、成分名、抽出法、そして変化の兆候を箇条書きにする。下働きの立場ゆえ、彼女には大声で疑念を告げる権限はない。しかし、この観察こそが、真実への第一歩だ。


そのとき、廊下を軽やかに歩く音が聞こえた。影が差し込む。若き中務・壬生だ。彼の目が綾乃に向けられる。


「また、夜中に何をしている、綾乃」

「……ちょっと、気になることがありまして」

「ふむ、薬の調合か?」


壬生の声は冷静だが、目の奥に微かな興味が見える。彼は宮廷の矛盾をよく知る人物だった。綾乃は薬の沈殿を指差す。


「副作用では説明できない痕跡があります。誰かが意図的に――」

「なるほど。では、ただの病死ではない可能性か」


その一言に、綾乃の胸は小さく高鳴った。言葉ではなく、推測が共有されたことの喜び。下働きの彼女が、わずかにでも宮中の秘密に触れられる瞬間。


次の朝、内裏の庭では、死んだ側近の祭礼が静かに執り行われた。参列者は皆、涙をこぼし、黙礼をする。しかし綾乃の目は、庭の隅に置かれた薬壺の配置や、参列者の動きに注がれる。すべてが手がかりになる。


「……これは、偶然ではない」


彼女はつぶやき、心の中で小さな推理を進める。あの沈殿の成分、抽出法、量……そして人の動き。すべてを繋ぎ合わせれば、誰がこの薬を扱ったのか、そして誰が死を望んだのか。答えは、まだ遠い。しかし、観察の糸口は、確かに見つけた。


昼下がり、綾乃は師の長楽に呼ばれた。柔和な顔の奥に、何か秘めた影がある。長楽は、ゆっくりと口を開いた。


「綾乃、薬の観察はよくやった。しかし、覚えておけ。宮中の薬には、時に命よりも重い“嘘”が混ぜられることもある」


綾乃はうなずく。師の言葉は、警告であり、示唆でもある。薬は、真実を隠すことも、暴くこともできる。その狭間に立つ者として、綾乃は、今日も沈殿のひとつひとつを見つめるのだった。


夜、再び自室に戻ると、机には新しい薬瓶が置かれていた。沈殿は見当たらない。しかし、微かに香る薬草の匂い――それもまた、彼女に何かを語りかける。誰が、何のために、何を隠したのか――。


綾乃はペンを取り、再び紙に書き始めた。王都に眠る薬と嘘を、ひとつずつ数えるために。

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