第14話 泉想夜が重すぎる
私は、母子家庭で育った。
物心がついたころには父親はすでにおらず、母親が1人で育ててくれて。
それについてなんの不満もなかった。ただ、父親にしてもらったことで唯一覚えていることがあって。
『想夜、これがギターだよ』
父親の趣味である、ギター。幼い頃に良く、弾いてくれていたのを、覚えている。
綺麗で、優しい、それでいて確かに、心を揺らす音色。
たまに弾いてくれるその音が、私は確かに好きだった。
そんな幼少期のせいもあってか、ギターで弾き語りをしているシンガーソングライターに、憧れがあった。
母親には内緒で、父親が残したギターを独学で弾いていたことも、一度や二度ではない。
母親には、言いにくい。だって、別れた父親の趣味だから。
歌うのも、好きだった。
誰にも言う事はできなかったけど、弾き語りするのが好きだった。
いつしか、私も誰かに歌を届けたいという気持ちは、私の中の奥底に眠る小さな夢になった。
そんな私は、他人に対しては基本的にあまり興味が湧かなかった。
感情が他の子に比べて希薄なんだと自覚したのは、小学生のころ。
同い年の子達の話題に、あんまり乗れなくて。
あまりテンションを上げて合わせるのも得意ではなかったから、ノリが悪い、と言われ。
母親に運動しなさいと言われてやっていたバスケ以外に、友人も特にできなかった。
高校はそこそこ勉強を頑張って、中学時代の知り合いがいない高校に入った。
あんまり友達もできず、良い思い出もなかったから、せめて高校では新しい環境で過ごしたかった。
そしてそこで、鬱陶しい奴に出会った。
『い、泉さんおはよう』
『……はよ』
1年生の最初で、席が隣になった男子――宮智一。
とにかく変な奴だった。
話しかけてくる時はきょどってるくせに、一回話し始めたら急に馴れ馴れしくて。
ところどころ口調も変だし、同年代男子のような幼さをあんまり感じない変な奴。
私なんかにずっと構い続けてるのも変だし。
そして。
『見て、また宮が泉さんに絡んでるよ』
『キモいよね』
……そこまで嫌われる要素があるわけでもないのに、執拗に嫌われているのも含めて変な奴だった。
距離が最初に縮まったのは、林間学校の時。
特に友達なんかいなかったから、誘われた智一の班に入って自由行動を共にした。
この時は、別に嫌いでも好きでもなかったから、話しやすいしここで良いや、くらいだったけど。
そして2日目の夜、なんでそんな流れになったのかも覚えてないけれど、キャンプファイヤーを眺めながら、私と智一はお互いの事を少し話した。
『中学の時にさ、まあ色々あって』
『母親はもういなくて、父親もなんていうか……クズなんだよね』
家庭環境が、少し似ていることに親近感を覚えた。
あいつの口が上手いのか、私の口が軽いのか、わからないけれど。
林間学校の初日に、歌っている所を見られてしまったこともあり、気付けば私もポロポロと話してしまっていた。
自身の家庭環境のこと。ギターの事。
目の前で揺らめく篝火を見ながら、だらだらと話す時間が、案外嫌いじゃなかったのも、覚えている。
それからは、そこそこ会話はするようになったと思う。
ずっと変わらずに、本当に変な奴だった。
決定的に関係性が変わったのは、その年の冬のことだった。
私は駅近くの音楽スタジオでバイトをしていたのだが、そこのプロデューサーに声をかけられ、ギターを本気でやるかどうか悩んでいた。
本気でやるなら、バスケ部を辞めなくちゃいけない。そうなったら、母親には否が応でも言わなくちゃいけない。
母親にはバスケ部に入っていることしか言っていなかったし、今までずっと内緒にしてきたから、言うのが怖かった。
夜に私がバイトをしていることは智一も知っていて、私も智一がバイトしているのは知っていたから。
たまたま帰りが一緒になって、悩んでいる私に、あいつが色々と聞いて来たのだ。
……今考えても、ホントおせっかいなやつ。
暗い夜道を歩きながら、また私たちはポツポツと、歩く速度と話す言葉が全然比例しないくらい、無言の時間は長かったけれど。
別にそれも、嫌ではなかったし。
『う~ん……泉さんのファン1号としてはギター頑張って欲しいってのが、俺の無責任な気持ちではあるんだけど』
何がファン1号だ。
たまたま私が発声練習をしているところを、盗み見ただけのクセに、なんて。
話しが長くなりそうだったので、私達は公園のベンチに座った。
かなり大きめな池が中心にある、自然豊かな公園のベンチ。
冬だったこともあって、外は暗くて。
等間隔に並んでいる街灯だけが光源だったことを、よく覚えている。
『よし、じゃあ決めた』
そう言ってアイツが取り出したのは、財布。
中から100円玉を1枚、取り出した。
『俺が今からこの100円玉投げるから、表だったらギター続ける、裏だったら諦めてバスケ部の活動だけにする』
『は、は?!いやそんな運任せ決められるわけ――』
『いいから』
思わず立ち上がりそうになったのを、手で制される。
その表情は、あまりにも真剣で。思わず気圧されてしまう。
『こういうのは、ハッキリ決めちゃった方があとあと後悔しないから』
『そんなこと……!』
『良い?覚悟を決めて。表だったらギター、裏だったらバスケ』
こんな運任せになるのなんて絶対に嫌だったけど。
言われて、少し思ったりもしたのだ。
確かに私は誰かにこうして背中を押してもらうことが必要だったのかもしれない、と。
どっちに転がっても、従う。
そう決めて、彼の手の内を見た。
『いくよ』
真剣な表情のままの智一。
親指で、100円玉を上に弾いた。
本当にこんなことで決めてしまって良いのだろうかという困惑と、緊張がくるくる回るコインと共に揺らめいて。
ぱしん、と起用に智一が、右手の甲の上に、コインを着地させ、それを左手で覆いかぶせた。
生唾を飲み込む。
見たいけど、見たくない。
その瞬間は、すごく長く感じたのを今でも覚えている。
智一が、左手をゆっくりと離した。
右手の上に置かれた100円玉は、綺麗に表を向いていた。
それを見て私は――
『今、どう思った?』
『え?』
言われて、気づく。今自分が、どう思ったのか。
私は今智一の投げたコインが表を向いていたことに、心から安心していた。良かった、って、思っていた。
智一が、コインを財布にしまう。
『今、「良かった」って思ったなら、やっぱり泉さんは、ギターをやるべきだと、俺は思うよ』
『――!』
いつあいつを好きになったか、と聞かれたら、きっとこの時だった、と今なら思う。
ようやく、智一の狙いが分かって。
優しく笑う智一の表情を、ちゃんと見る事ができなかった。
『バカじゃないの』
『え~!結構良い案だと思ったんだけど!』
目から何かが溢れそうになる前に、慌ててベンチから立った。
帰る方向へ向けて、早足で歩きだす。
『待ってよお~!』
さっきまでとはうって変わって、のんきなその声を背に。
マフラーを首元深くに巻いた。
――全然、寒くなんかないのに。
それからもたくさん、智一と話をした。
学校でギターの事を話せるのは、智一しかいなくて。
沢山相談に乗ってもらったし時には手伝ってもらった。
ちゃんと、あいつに歌を聴いてもらった。
やっぱり、好きだってこれが好きになるってことなんだって初めて知って。
付き合いたい、彼女になりたいって、初めて思った。
私にとっての、初恋。
けど、あいつの事を好きな女は他にもいた。
意外とモテるのが、ムカつく。
けど、負けないとも思っていた。
私はあいつから……容姿も気に入ってもらってたし。
積み重ねた時間も、確かにあったから。
そして、卒業式の日。
『――彼氏になってよ』
伝えなきゃいけないのに恥ずかしくて、それでも勇気を振り絞って告白した。
きっと、顔は真っ赤だったと思う。
私の、初めての告白。
結果は――。
『――ごめん。俺はやっぱり、付き合えない』
智一に、私はフられた。
心が張り裂けそうで、初めての恋で、初めての失恋で。
私はその後一人ずっと、泣き続けた。
「――さん、泉さん!」
「……?」
意識が覚醒する。
私が横たわっていたのは、保健室のベッド。
慣れ親しんだ、3年間いた高校の、保健室。
「泉さん講堂で倒れてたんですよ。体調はどうですか?」
言われて、保健室の先生の顔を見る。
朧げな記憶、確かな記憶。
『あんたのそういうところ、ホント気に食わない』
『ちょ、待ってよ泉さん!』
昨日、私は林間学校で、確かに智一と会話した。
そしてその、もっと前。
いや、違う……?
本来なら、もっと後。
『今、「良かった」って思ったなら、やっぱり泉さんは、ギターをやるべきだと、俺は思うよ』
『――!』
あの光景を、忘れるわけがない。
あいつが、私にとって大事な人になった、記憶。
頭の中を、ゆっくり、ゆっくりと整理する。
そして、私の脳はようやく1つの結論に辿り着いた。
「……今って、何年ですか?」
「え?」
変な話だとは思う。
だけど、ある種の確信があった。
今、私が置かれている状況の。
「2022年の4月28日だけど……」
やっぱり。
ちょうど3年前に、タイムスリップしてきている。
「……うおぇ」
「ちょっと、大丈夫?!」
猛烈な吐き気がした。
今ならわかる、篠本紗奈が、私になんで「覚えてる?」って聞いてきたのかも。
篠本紗奈が、なんであんなに智一を気に入っていたのかも。
あいつも、私と同じなんだ。
そして、昨日までの記憶もあった。
それは、せっかく私にたくさん話しかけてきてくれていた智一を、邪険に扱い続ける私。
最悪の気分だった。
何をしているんだ。なんで4月からやり直せなかったんだ。
せっかくの、印象を変えるチャンスだったというのに。
篠本紗奈は、きっと最初4月からやり直している。だから最初に、あんなことを聞いて来たのだ。
ベッドから立ち上がって、歩き始める。
「ちょ、ちょっと大丈夫なの?」
「……平気です」
保健室を出て、外へ。
眩しい太陽が、目の前に現れる。
いつもなら煩わしくてたまらない太陽も、鬱屈な気持ちを塗り替えるためには、そう悪くないものに思えた。
スタートが遅れたことは痛い。けれど、まずはこの状況を喜ぼう。
思考がだんだんと追い付いていく。
宮智一にフられて、立ち直れないほどに傷ついたこと、人生で初めてあんなに泣いたこと。
そして、今が、そのリベンジチャンスなんだ、ということ。
ああ、でもそうだ。
あと、もうひとつ。嬉しかったこととすれば。
「あは。なんだ、やっぱり簡単なことだったんだ」
ようやくわかった。なんでこの時間軸の昨日、私が智一の言葉に、あんなにムカついてしまったのか。
自己犠牲を厭わないアイツに、ムカついた理由。
私は、何度生まれ変わっても、何度繰り返しても。
「あんたの事を好きになる運命だからだ」
湧き上がった感情。
思い出した記憶。
春の快晴の下に、私の口元は三日月のように曲がり。
にっこりと笑う。
――私の、2周目の高校生活が始まった。