第3章:放射能の呪いと「赤い湾岸」の現実
2030年10月19日。東京への核攻撃からちょうど一週間が経過していた。東京上空に立ち上った巨大なキノコ雲は消え去ったが、その後に残されたのは、目に見えない、しかし確実に命を蝕む「死の灰」だった。北東から吹く風に乗って、放射性降下物は容赦なく千葉、茨城、そして東北南部へと拡散していった。それはまるで、東京の悲劇が周辺地域へと伝染していくかのような、静かで、しかし確実な侵食だった。
東京23区内は、もはや人間の住める場所ではなかった。放射線量は、着弾直後から上昇し続け、この一週間で、場所によっては1000mSv/日を超える区域も出現した。これは、短時間で致死量に達するレベルであり、文字通り「死の街」と化していた。建物は崩壊し、道路は寸断され、至るところに黒焦げの遺体が散乱していた。生き残った人々がわずかに残るシェルターや地下室に身を潜めていたが、彼らもまた、いつまで耐えられるか分からなかった。
最も見るも無残な光景は、「赤い湾岸」と呼ばれ始めた東京湾だった。海面は燃え盛った石油と化学物質で真っ黒に濁り、至るところで小型の爆発が散発的に起こっていた。炎上した火力発電所やガスタンクの残骸は、不気味なシルエットを晒し、溶け落ちた鉄骨やコンクリートが、その日の惨状を物語っていた。
湾岸地域に建ち並んでいた高層タワーマンション群は、そのほとんどが基礎から引き剥がされるように倒壊し、瓦礫の山と化していた。かつてきらびやかな夜景を作り出していたガラスと鋼鉄の壁は、いまや放射能を帯びた錆色の骸と化し、海には黒焦げの家財道具や、人間の尊厳を奪われた遺体が漂っていた。
「赤い湾岸」は、単なる焼け野原ではなかった。それは、有害物質と放射性物質が混じり合った、生命を拒絶する場所だった。汚染された海水は、湾岸の生態系を破壊し尽くし、無数の魚や鳥が打ち上げられていた。その死骸からは、異臭が立ち上り、生き残ったカラスが群がり、不気味な鳴き声を上げていた。人々は、その光景を直視することすらできなかった。
土壌汚染と水系汚染は、東京を流れる荒川、多摩川、そして利根川の下流域で深刻化していた。核爆発によって巻き上げられた土砂や、降り注いだ放射性降下物が、河川へと流れ込み、水を汚染していた。かつて生命を育んでいた河川は、いまや毒の川と化し、その水を口にすれば、死を意味した。生き残った人々が、喉の渇きに耐えかねて汚染された水を飲み、体調を崩し、放射線病の症状を悪化させていく。水や食料の調達は、日を追うごとに困難を極めていた。
放射線被曝者たちの苦痛は、筆舌に尽くしがたいものだった。政府が発表した被曝避難者の数は50万人を超えたが、それはあくまで把握できた数に過ぎず、実際にはもっと多くの人々が被曝していた。
彼らの身体は、放射線の呪いによって蝕まれていった。髪の毛は束になって抜け落ち、体中には紫色のあざが浮かび上がり、皮膚は爛れた。吐き気と下痢は止まらず、高熱にうなされ、意識は朦朧とした。免疫力が低下した体は、わずかな細菌にも侵され、口内炎や肺炎が蔓延した。彼らは、人間としての尊厳を失い、苦しみの中で死を待つしかなかった。
「痛い…痛い…もうやめて…」
簡易的な避難所に設けられた医療スペースから、子供のうめき声が聞こえる。しかし、医薬品は枯渇し、医療従事者も疲弊しきっていた。医師や看護師の多くも被曝しており、満足な治療を施すことすらできなかった。彼らは、目の前で命が失われていくのを、ただ見ていることしかできなかったのだ。
「もうダメだ…」
医師の一人が、震える手で患者の脈を測り、静かに首を横に振った。彼は、この一週間で、何百人もの命が自分の目の前で消えていくのを見てきた。彼自身もまた、放射線の影響で体調を崩しており、いつまで持ちこたえられるか分からなかった。
避難所では、集団感染が頻発した。劣悪な衛生状態、栄養不足、そして極度のストレスが、人々の抵抗力を奪った。わずかな風邪も肺炎へと悪化し、多くの人々が、核爆発ではなく、放射線病とそれに伴う合併症で命を落としていった。生き残った人々もまた、放射線による後遺症に一生苦しむことになる。彼らの未来は、常に病と隣り合わせだった。
国家機能の麻痺は続き、警察や消防といった公共サービスはほとんど機能していなかった。東京の各地で、民間ボランティア消防団や、核攻撃を生き残った元自衛官、そして宗教団体などが、自発的に救援活動や治安維持活動を行っていた。
「こっちだ!まだ生きている人がいるかもしれない!」
ボランティア消防団のリーダーが、焼け焦げた建物の中へと入っていく。彼らは、手動ポンプとバケツ、そして熱に強い手袋を使い、小さな火種を消し、瓦礫の下敷きになった人々を捜していた。しかし、大規模な火災はすでに燃え尽き、彼らにできることは限られていた。
元自衛官たちは、かつての経験を活かし、チームを組んで瓦礫の撤去や、生存者の捜索にあたっていた。彼らは、無線機も使えない状況下で、手信号や身振り手振りで連携を取りながら、危険な場所へと足を踏み入れていった。彼らの存在は、混乱の中、わずかな希望の光となっていた。
宗教団体は、食料や水を分け与え、被災者たちの心のケアにあたっていた。彼らは、疲弊しきった人々の話を聞き、祈りを捧げ、わずかながらでも心の安らぎを与えようと努めた。しかし、彼らの善意もまた、この巨大な悲劇の前にはあまりにも無力だった。
都市の一部では、秩序が完全に崩壊し、略奪や暴力が横行する無法地帯と化していた。食料や水、医薬品を求めて、人々は互いに争い、強者が弱者を蹂耙する光景が繰り広げられた。警察機能は麻痺しており、自衛隊の多くは救助活動に追われていたため、このような暴動を鎮圧する力は残されていなかった。
「もう人間じゃない…」
略奪行為を目撃した避難者の一人が、吐き捨てるように言った。極限状態の中で、人間の本性が剥き出しになり、モラルや倫理はどこかへと消え去っていた。
東京を離れられない人々もいた。家族が見つからなかった人々、あるいは故郷への執着を捨てきれない人々が、放射能汚染された「死の街」にとどまっていた。彼らは、瓦礫の隙間や、かろうじて残った建物の地下に身を隠し、わずかな食料と水で飢えをしのいでいた。彼らの目には、生気はなく、ただ虚無が広がっていた。彼らは、東京と共に死ぬことを選んだのかもしれなかった。
「ここは…私の家だから…」
焼け焦げた家の残骸の前で、老女がぽつりと呟いた。彼女の顔には、放射線によってできたあざが広がり、髪はほとんど抜け落ちていた。しかし、彼女はそこを離れようとはしなかった。
国際社会は、日本の惨状を「人道危機」として強く非難し、国連や国際NGOが支援を訴えた。しかし、具体的な支援策は遅々として進まなかった。多くの国が、自国の安全保障を優先し、核報復の連鎖を恐れた。
「日本への支援は急務である!」
国連人道問題調整事務所のトップが、緊急会見で支援を訴える。しかし、国際社会は一枚岩ではなかった。
国連安保理では、北朝鮮への非難決議案が提出されたが、中国とロシアは依然として拒否権を行使し、制裁の強化を阻止した。両国は、北朝鮮への過度な圧力が、朝鮮半島のさらなる不安定化を招くと主張した。国際社会の分断は明らかであり、地政学的な対立が人道支援を阻害している現実が浮き彫りになった。
世界の多くの国々が、日本の悲劇を教訓に、自国の核シェルター整備や防衛体制の強化に乗り出した。特に、核兵器を持つ国々は、核抑止論の限界を突きつけられ、核兵器の保有と使用に関する議論を再燃させた。これまでタブー視されてきた「核の冬」のシナリオが、現実のものとして世界中で語られるようになった。
「もし、次に核が使われたら、世界は終わりだ…」
ある国の首脳が、テレビ会見で疲弊した表情で語った。
核攻撃から一週間。東京は、静かに死んでいった。しかし、その死は、世界に大きな波紋を投げかけた。放射能の呪いは、日本の国土を汚染し、人々の心に深い傷跡を残した。それは、人類が核兵器という怪物と、そして自らの愚かさと、いかに向き合っていくのかを問う、終わりのない問いの始まりでもあった。
東京の悲劇は、単なる一都市の壊滅ではなかった。それは、人類がこれまで築き上げてきた文明の脆弱性と、核兵器という存在がもたらす究極の破壊力を、まざまざと見せつけるものだった。
生き残った人々は、この放射能汚染された灰色の世界で、どのように生きていくのか。そして、国際社会は、この悲劇から何を学び、いかなる未来を選択するのか。その答えは、まだ誰も知らなかった。