第2章:政府の崩壊と「臨時首都」への逃避
2030年10月12日、午前7時過ぎ。東京への核攻撃からわずか数十分が経過したに過ぎなかったが、日本の国家中枢は既に致命的なダメージを受けていた。首相官邸は瓦礫と化し、内閣総理大臣は即死。官房長官もまた、爆心地近くで指揮を執っていたため、重傷を負って意識不明の重体となっていた。この事実は、断片的ながらも、奇跡的に機能していた一部の緊急通信回線を通じて、辛うじて地方の重要拠点へと伝達された。
この未曽有の事態において、国家の指揮系統は完全に麻痺した。閣僚の多くも安否不明、あるいは重傷を負っており、残された者たちは、自らが何をすべきか、どこに指示を仰ぐべきかを判断できないまま、混乱の中にいた。辛うじて連絡が取れた数名の閣僚と、かろうじて生き残った官僚たちが、崩壊した霞が関を離れ、緊急避難拠点へと向かう。それは、もはや「撤退」というよりは、まるで敗走のような混乱ぶりであった。彼らの多くは、スーツに煤をつけ、顔には疲労と絶望の色を深く刻んでいた。
「総理は……総理はご無事なのか!?」
「官房長官は!?誰か、官房長官の安否を確認しろ!」
怒号にも似た叫びが飛び交うが、明確な答えはどこからも返ってこない。情報が途絶し、外部との連絡が取れない中、誰もがパニックに陥り、次に何が起こるか分からない恐怖に震えていた。
午前10時。政府機能の維持を目指し、名古屋市への臨時政府機構移転が決定された。東京から脱出できた数名の閣僚と、なんとか集められた官僚たちが、新幹線も道路も麻痺した状況下で、ヘリコプターや自衛隊の車両を使い、必死の思いで名古屋へと向かった。彼らがたどり着いた名古屋の緊急対策本部は、もともと大規模災害を想定して設けられていた場所ではあったが、日本の首都が壊滅するという事態は、その想定をはるかに超えていた。
会議室は慌ただしく、次々と持ち込まれる情報の断片に、誰もが頭を抱えた。東京の被害状況は想像を絶し、死亡者数は増え続け、負傷者と行方不明者の数は把握できないほど膨れ上がっていた。電力、水道、通信といったライフラインは完全に停止し、都市機能はゼロ。さらに、東京23区内では、時間とともに放射線量が上昇しているという報告が次々と寄せられた。
臨時政府は、形だけは発足したものの、機能不全は明らかだった。情報が錯綜し、指揮系統は確立されないまま、意思決定は遅々として進まない。最も喫緊の課題である、放射能汚染地域からの避難者の受け入れ問題一つをとっても、受け入れ先の自治体との調整は進まず、物資の配給も滞った。食料や医療物資は圧倒的に不足しており、現場からの悲痛な叫びが、臨時政府の無力感を浮き彫りにした。
「名古屋で、東京の避難民を全て受け入れるのは不可能だ!」
「物資が足りない!特に医薬品と水が壊滅的に不足している!」
「治安が悪化している!暴徒化した集団が略奪を始めたという報告も入っている!」
怒鳴り声が飛び交う中、閣僚たちは顔を見合わせるしかなかった。彼らは、これまで経験したことのない、国家存亡の危機に直面していた。
国民の精神的支柱である皇室の安否もまた、国民に計り知れない不安を与えていた。皇居は爆風により一部損壊し、宮殿の一部が炎上したという報が入ったものの、天皇皇后両陛下の安否は不明のままだった。皇居内の避難壕へ移送されたという情報もあったが、その確認は取れていなかった。伝統と権威の象徴が危機に瀕していることは、日本という国家の精神的な基盤が揺らいでいることを示唆していた。国民の心には、これまで経験したことのない、深い絶望と虚無感が広がっていた。
東京からの避難者たちの苦難は、筆舌に尽くしがたいものだった。推定1,200万人の首都圏避難者のうち、約60万人もの人々が、公共交通機関が完全に停止したため、徒歩での脱出を余儀なくされた。彼らは、家財道具をほとんど持たず、わずかな食料と水を抱え、あるいは何も持たずに、ただひたすら西へと歩いた。
東名高速道路は、車で完全に埋め尽くされていた。しかし、ガソリンが枯渇したため、ほとんどの車は乗り捨てられ、巨大な駐車場のようになっていた。人々は、アスファルトの上を、足の裏に豆を作りながら、疲労困憊で歩き続けた。子供を背負い、あるいは手を取り、老いた親の肩を支え、彼らは黙々と歩いた。
道路脇では、脱水症状や疲労で倒れる人々が続出し、適切な医療を受けられないまま息を引き取る者も少なくなかった。食料や水の不足は深刻で、人々は僅かな食料を分け合い、喉の渇きを潤すために、道端に溜まった汚れた水を飲むことも厭わなかった。
「もう歩けない…」
幼い子が母親の足元にへたり込み、泣き出した。母親は、疲労困憊の体で子供を抱き上げ、しかし、どこへ向かえば良いのか、何の希望もないまま、ただ前へと進み続けた。
避難の途上では、社会の秩序が崩壊していく様が明らかになった。物資を奪い合う略奪行為が横行し、武装した集団による暴力事件も報告された。人々は、互いに警戒し合い、疑心暗鬼に陥っていた。警察機能は麻痺しており、自衛隊の多くは被災地の救援活動に割かれていたため、治安維持はほとんど手つかずの状態だった。
放射能汚染は、人々に新たな、そして見えない恐怖をもたらした。核攻撃から数時間後には、東京23区内で放射線量が急激に上昇し始め、1週間後には1000mSv/日を超える区域が出現した。黒い雨――放射性降下物が降り注ぎ、地面を、建物を、そして人々の体を汚染した。
被曝を避けるため、人々は可能な限り地下に身を隠そうとしたが、地下もまた安全ではなかった。地下鉄や地下街に避難していた人々の中には、爆発時の圧力波や地盤の崩壊によって命を落とした者も多く、生き残った者も、密閉された空間で高濃度の放射線に晒され続けていた。
避難所にたどり着いた人々の中からも、放射線病の症状を訴える者が増え始めた。脱毛、嘔吐、下痢、高熱、そして体中のあざ。身体は日に日に衰弱し、生きる希望を失っていく。医療機関は崩壊し、治療薬も医者も看護師も圧倒的に不足していたため、多くの被曝者が、適切な治療を受けられないまま死んでいった。
自衛隊と米軍の「空白の数時間」は、日本の危機をさらに深刻なものにした。
防衛省地下司令部は損壊し、一部の通信は途絶。混乱の中で、残された自衛官たちは懸命に指揮を執ろうとしたが、情報不足と指揮系統の混乱により、その活動は限定的だった。彼らは、目の前で展開される未曽有の惨状に、自らの無力感と怒りを感じていた。
「東京が…!東京がこんなことに…!」
自衛隊員の一人が、絶望的な声で呟いた。しかし、彼らに立ち止まっている暇はなかった。救援活動、避難誘導、そして、まだ見ぬ敵からの新たな攻撃への警戒。彼らは、日本の最後の砦として、疲弊した体と精神で任務を遂行し続けた。
在日米軍横田基地や横須賀基地は、核攻撃を受けて即座に防衛フェーズに移行し、核兵器の搭載が可能ないくつかの戦略爆撃機は滑走路で待機状態に入った。しかし、米国大統領は、核報復命令を即座に承認せず、ホワイトハウスで緊急国家安全保障会議(NSC)を招集し、対応を協議し始めた。
「報復はエスカレーションを生むだけだ!」
「しかし、日本を見捨てるわけにはいかない!同盟の信頼が失われる!」
NSCの会議室では、激しい議論が交わされていた。国防総省や統合参謀本部からは、即座の報復を求める声が上がる一方で、国務省やCIAからは、北朝鮮への核報復が、中国やロシアを巻き込んだ核戦争へと発展する可能性を強く警告する声が上がった。米国は、同盟国である日本への報復の義務と、世界全体を核の灰燼から守る責任との間で、板挟みとなっていた。最終的に、大統領は報復判断を留保し、情報収集と状況の安定化を優先する決定を下した。この米国の「躊躇」は、日本国民に深い失望と絶望をもたらすことになった。
国際社会の反応は、日本の悲劇をさらに際立たせた。
核攻撃の報を受けて、国連安全保障理事会が緊急招集された。国連事務総長は、今回の攻撃を「人類に対する許されざる犯罪」として強く非難し、北朝鮮に対する厳重な制裁決議を求めた。しかし、中国とロシアは、北朝鮮への核報復に反対し、制裁決議に拒否権を行使した。両国は、朝鮮半島の安定を理由に、北朝鮮への過度な圧力を避けるべきだと主張し、報復の連鎖が地域全体の不安定化を招くと警告した。
日本の外務大臣は、オンラインでの緊急会見で、国際社会に支援を求め、北朝鮮への厳しい対応を訴えた。しかし、その声は、国際政治の冷徹な現実の中でかき消されていった。国際社会は、日本の被害を対岸の火事として捉えつつも、その経済的影響の大きさに驚愕し、自国の経済への影響を懸念するばかりだった。
米国、NATO諸国、そしてオーストラリアは、緊急会合を開き、反撃準備態勢に入った。しかし、彼らは核報復の連鎖、すなわち世界的な核戦争のリスクを強く懸念しており、具体的な軍事行動には踏み切れないでいた。彼らは、日本の惨状に同情を示しつつも、自国の安全保障を優先し、核の連鎖を避ける道を模索した。日本の孤立は、このとき、誰の目にも明らかとなった。
日本株式市場は、攻撃直後から閉鎖された。世界経済は、この未曽有の事態にパニックに陥り、ブラックマンデー以上の混乱が世界中の市場を襲った。原油価格は高騰し、株式市場は軒並み暴落。サプライチェーンは寸断され、世界中の企業が混乱に巻き込まれた。
各国では、核シェルターの不足や、国民保護体制の脆弱性が議論沸騰した。スイスやイスラエルのような核シェルターの普及率が高い国が注目され、各国政府は急いで国民への情報提供と、シェルター整備の検討に乗り出した。そして、日本国内では、この惨劇を受けて、これまでタブーとされてきた「日本の核保有」に関する議論が噴出し始めた。
「もし日本が核を持っていたら、こんなことにはならなかったはずだ!」
「自衛のためには、核兵器を持つしかない!」
テレビやインターネット(かろうじて繋がる海外回線を通じて)では、このような議論が交わされ、国民の多くは、安全保障に対するこれまでの考え方を見直さざるを得なくなった。
核攻撃から48時間。東京は、生き残った人々にとって、もはや故郷ではなかった。それは、放射能に汚染された死の街となり、終わりの見えない地獄の始まりを告げる場所となった。
生き残った人々は、西へ、西へと歩き続けた。彼らは、過去を振り返る余裕もなく、ただひたすら、かすかな希望を求めて歩いた。しかし、彼らの心には、永遠に消えることのない、核の炎の傷跡が刻み込まれた。そして、この悲劇は、日本という国家のあり方を根底から揺るがし、世界全体にも、核兵器という終わりのない問いを突きつけることになったのだ。