第1章:黒い閃光、東京壊滅
2030年10月12日、午前6時16分27秒。その時刻は、日本の歴史に永遠に刻み込まれることになった。一瞬の閃光が東京の夜明けを切り裂き、その直後、地を揺るがす轟音が全てを呑み込んだ。新宿、丸の内、そして東京湾。三つの場所で同時に発生したその爆発は、熱と光と爆風の津波となって、眠りから覚めきらない首都を蹂躙した。
新宿副都心の空が、まず燃えた。都庁ビルの直上で炸裂した核弾頭は、500キロトンという想像を絶する破壊力を解き放ち、その中心温度は瞬時に1,200万℃を超えた。鋼鉄の超高層ビル群は、まるで砂で作られた城のように、一瞬にして蒸発し、存在そのものが消滅した。爆心地から半径1.5キロメートル圏内は、全てが文字通り「蒸発」し、地面には巨大なクレーターが、焼けただれた傷跡のように残された。その領域にいた約20万人以上の人々は、声を発する間もなく、その場で炭と化すか、あるいは原子レベルにまで分解された。彼らは、もはや遺体として残ることも許されない、絶対的な死を迎えたのだ。
爆風は、時速数千キロメートルで周囲へと広がり、コンクリートとガラスの破片を、まるで散弾銃の鉛玉のようにばら撒いた。半径3キロメートル圏内では、鉄骨構造のビルが根元からへし折れ、瞬時に倒壊した。新宿駅の巨大な構造物は、その強靭な躯体をもってしても抗しきれず、まるで積み木細工のように崩れ落ちた。地下に張り巡らされた複雑な地下鉄大江戸線、新宿駅構内では、地盤が圧力波によって瞬時に崩壊し、早朝にもかかわらず避難を求めて集まっていた通勤客や、地下街で夜を明かしたホームレスたちが、押し潰される形で壊滅した。彼らが最後に見たものは、天井から降り注ぐ土砂と、一瞬の閃光、そして漆黒の闇だったろう。
地上では、倒壊したビルから噴き出すガス管や、破断した電線が次々と引火し、猛烈な火災が発生した。爆風で破壊された窓ガラスが炎を巻き込み、巨大な火炎旋風が巻き起こった。新宿御苑の緑は瞬く間に黒焦げとなり、代々木や中野坂上周辺の住宅街は、あっという間に火の海と化した。炎は酸素を求めてうねり、地獄の業火となって全てを焼き尽くしていった。
ほぼ同時に、東京駅丸の内エリアにも、もう一つの閃光が走った。推定300キロトンの核弾頭は、日本の心臓部である政治・経済の中枢を直撃した。国会議事堂、首相官邸、そして霞が関の中央省庁群は、まるで紙細工のように爆風で吹き飛ばされ、その構造体を保つことさえできなかった。爆風は皇居にも及び、歴史ある宮殿の一部が損壊し、静寂なずの御苑にまで炎が迫った。約3000名以上の官僚たちが、朝早くから執務に当たっていたが、そのほとんどが瞬時に命を落とした。日本の官僚機構は、まさに中枢を失い、機能不全に陥った。
地下では、JR山手線、中央線、そして東海道新幹線が、轟音と共に緊急停止した。しかし、圧力波は地下深くのトンネルにも容赦なく押し寄せ、真空波となって乗客の肺を破裂させた。車内の人々は、外の地獄を知る由もなく、苦しむ間もなく圧死した。彼らの身体は、まるで風船が破裂したように変形し、列車内は阿鼻叫喚の血の海と化した。東京メトロ丸ノ内線も同様で、大手町や東京駅の駅構内は、瓦礫と化したコンクリートの塊と、人間の死体で埋め尽くされた。
そして、東京湾・豊洲市場沖。もう一つの300キロトン弾頭が、海面で起爆した。巨大な水柱が数キロメートルもの高さまで立ち上り、凄まじい水蒸気爆発を引き起こした。同時に、爆発によって海水中の塩素ガスが巻き上げられ、半径5キロメートル圏内は、瞬時に化学熱傷と即死のゾーンと化した。湾岸地域に建ち並ぶ高層タワーマンション群は、その巨大な躯体をもってしても津波のような爆風に耐えきれず、根元からへし折れて、まるで崩壊するドミノのように次々と倒壊した。20万人以上の居住者たちが、この日、一瞬にして命を奪われた。
爆発はそれだけに留まらなかった。東京湾沿岸に林立する火力発電所、巨大なガスタンク、そして物流ターミナルが次々と誘爆し、大規模な爆発が連鎖した。タンクから噴き出す液化天然ガスや石油が引火し、湾全体が燃え盛る炎に包まれた。海面は燃え上がり、水面には黒煙が立ち込め、真っ赤に燃える東京湾は、やがて人々から「赤い湾岸」と呼ばれるようになる。その光景は、地獄の業火が東京湾を舐め尽くすかのような、まさに終末的なものであった。
着弾からわずか数分。東京は、もはや東京ではなかった。
爆心地から遠く離れた地域でも、その影響は甚大だった。広範囲にわたる停電が発生し、通信網は完全に麻痺した。携帯電話は繋がらず、テレビもラジオも沈黙した。情報が寸断された中で、人々はただ混乱し、恐怖に怯えた。
午前6時30分、米インド太平洋軍と自衛隊の早期警戒衛星が発したミサイル発射情報が、ようやく断片的に外部に伝わり始めた。しかし、それはもはや手遅れの報せだった。迎撃は試みられた。12発のミサイル中、9発はイージス艦とPAC-3、SM-3ブロックIIAによって辛うじて迎撃された。しかし、3発の核弾頭は、飽和攻撃という戦術によって、日本の防衛網をすり抜けてしまったのだ。その迎撃失敗の報は、日本政府中枢が壊滅状態に陥る中で、ほとんど機能しないまま消え去った。
生き残った人々は、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図の中にいた。
新宿の地下鉄構内から、奇跡的に這い上がってきた数名の生存者がいた。彼らは真っ黒な顔で、しかし生気が宿る目で、目の前に広がる光景を茫然と見つめた。都庁があった場所には、巨大なクレーターが口を開け、その縁からは未だ炎が立ち上っていた。周囲のビル群は見る影もなく崩れ落ち、瓦礫の山と化していた。彼らは、爆心地から飛んできた熱風と、降り注ぐガラスとコンクリートの破片に吹き飛ばされ、一瞬にして意識を失った。気が付けば、身体は瓦礫に埋もれ、肺は粉塵と爆発の臭いで満たされていた。
「助けて!誰か、誰かいないの…!」
か細い声が、瓦礫の山から聞こえる。しかし、その声は、すぐに燃え盛る炎の音と、遠くで聞こえる建物の崩壊音にかき消された。
東京駅付近では、出勤途中のサラリーマンや、駅周辺で朝食をとろうとしていた観光客が、爆風に吹き飛ばされ、吹き荒れる炎の中に飲み込まれていった。爆心地に近い場所では、もはや遺体として残る者も少なく、地面には焦げ付いた痕跡と、微かに残る血痕が、そこに人間が存在した証しとして残された。
豊洲では、高層マンションの残骸から、かろうじて生き残った居住者たちが、まるで幽霊のように瓦礫の隙間から這い出てきた。彼らは、目の前に広がる「赤い湾岸」の光景に、言葉を失った。湾全体が炎に包まれ、黒煙が空へと立ち上っていた。有毒な塩素ガスの臭いが鼻を突き、彼らの喉を焼いた。呼吸をするたびに肺が痛み、皮膚は熱傷で真っ赤に腫れ上がっていた。
「父さん…母さん…どこにいるの…」
幼い子供の声が、燃え盛る炎の音に混じって聞こえる。しかし、その声に答える者はいない。
着弾から数時間後、被害の全貌が少しずつ明らかになり始めた。初日だけで、即死者数は約45万人。負傷者(重症含む)は約120万人。行方不明者は約30万人にも上り、その多くは地下鉄や地下街で閉じ込められ、助かる見込みはほとんどなかった。都心部の電力、水道、通信といったインフラは完全に全滅し、半径10キロメートル圏内は、もはや人間の住める場所ではなかった。
首都圏全体の避難者は、1,200万人と推定された。そのうち60万人は、公共交通機関が完全に停止したため、徒歩で西へと脱出を試みていた。道路は車で埋め尽くされ、ガソリンはあっという間に枯渇した。人々は車を乗り捨て、家族やわずかな荷物を抱え、ただひたすら西へと歩いた。その中には、混乱に乗じて略奪を働く者や、絶望のあまり自暴自棄となり、暴徒化する者も現れ始めた。秩序は崩壊し、人間の本性が剥き出しになっていった。
日本政府は、壊滅的な打撃を受けていた。首相官邸の崩壊により、総理大臣は死亡し、官房長官は重体で生死の境を彷徨っていた。閣僚の多くも安否不明となり、国家の中枢は機能不全に陥った。防衛省地下司令部(市ヶ谷)も損壊し、一部の通信は途絶。自衛隊は即座に防衛フェーズに移行したが、指揮系統は混乱し、十分な初動対応が取れないでいた。
在日米軍横田基地と横須賀基地は、核攻撃の報を受けて直ちに厳戒態勢に入り、防衛フェーズへ移行した。しかし、米国大統領は、核報復命令を直ちに承認することなく、NSC緊急会議を招集し、対応を協議し始めた。核の報復連鎖を懸念する声が、米軍内部からも上がっていた。日本政府は、断片的な通信回線を通じて、日米安保条約第5条の発動を米国へ要請したが、その回答は即座には得られなかった。日本は、この未曽有の危機の中で、国際社会の中で孤立していくように感じられた。
市民の生活は、たった数時間で完全に崩壊した。
テレビは砂嵐しか映さず、インターネットも機能しない。情報源は、かろうじて電波を拾える一部のAMラジオと、わずかに繋がるSNSだけだった。人々は、瓦礫の山となった街の中で、断片的な情報と憶測に怯えながら、家族や友人の安否を確かめようと必死になっていた。
「東京が…終わった…」
誰かが呟いたその言葉は、多くの人々の心を代弁していた。街には、死臭と、燃え盛るものの焦げ付いた臭いが充満し、やがて放射性降下物が降り始めた。それは、まるで世界の終わりを告げるかのような、黒い雨だった。雨は、地面を汚し、人々の顔を黒く染め上げた。放射線被曝への恐怖が、人々の間に広がり始めた。
医療機関は、そのほとんどが壊滅状態に陥っていた。生き残った病院も、負傷者で溢れかえり、医薬品や医療器具が決定的に不足していた。多くの負傷者が、適切な治療を受けられないまま、その場で息を引き取っていった。
都市のいたるところで、自発的に行動する人々が現れた。民間のボランティア消防団が、焼け残ったホースとバケツを手に消火活動にあたり、元自衛官たちが集まって、瓦礫の中から生存者を捜し始めた。宗教団体もまた、食料や水を分け与え、人々に心の安らぎを与えようと奔走した。しかし、彼らの努力は、この巨大な悲劇の前には、あまりにも微力だった。
生き残った人々は、ただひたすら西を目指した。炎上する東京湾を背に、彼らは重い足取りで歩き続けた。その中には、赤ちゃんを抱いた母親、老いた両親の肩を抱く子供、そして、ただ茫然と歩く孤独な人々がいた。彼らの目には、恐怖と絶望、そしてかすかな希望の光が宿っていた。
核攻撃から48時間以内。
「赤い湾岸」は、まるで血のように赤く燃え続け、夜空を不気味に照らしていた。それは、かつて世界有数の大都市であった東京が、一夜にして地獄と化したことを示す、恐ろしい象徴となった。
この未曽有の惨劇は、世界に衝撃を与えた。国連安全保障理事会が緊急招集されたが、中国とロシアは北朝鮮への報復に反対し、拒否権を行使した。米国、NATO、オーストラリアは緊急会合を開き、反撃準備態勢に入ったが、核報復の連鎖を恐れ、具体的な行動には踏み切れないでいた。日本の株式市場は閉鎖され、世界経済はブラックマンデー以上の混乱に陥った。各国では、核シェルター不足が議論沸騰し、日本国内では、この惨劇を受けて、核保有論が噴出し始めた。
この日、東京は死んだ。しかし、それは終わりではなかった。これは、人類が核兵器という怪物と、その後の世界でいかに向き合っていくのかを問う、長い戦いの始まりに過ぎなかった。