第7話 運命
「――いやあ、しかしこれも運命かあ」
とあるギャラリーからの帰路、珍しく巧が悲観的な言葉を叫んだ。彼の滑舌が良いため、マスク越しでも悲痛さがよく伝わってきた。
私が恋愛に悩んでいる時、巧が苦悩していたのは、画家としてもっと切実な問題であった。高岸巧はその恐るべき技量をもって、大学入学から二年も要さず、画家として名が売れはじめていた。その日もまた、著名なコレクターが彼の絵を購入すべく、ギャラリーにて商談の予定があったのだが、コレクターが急に発熱し、取引が中止になってしまったのであった。
マスク不足や全国一斉休校等、すでに世の中は大きく変化していたが、自分たちの身にこのような影響があると、また別の実感があった。単純にギャラリーを見ようと付いてきた私と潤一郎は、何とか巧を宥めながら、いつものアメ横の飲み屋へとたどり着いた。
「いや参ったなあ、まさかコロナでこんなことになるとは……」
乾杯のあと、最初の一杯を流し込んだ潤一郎は、巧の身に起きた不幸に心底同情した様子を見せた。
「そうだね、やっぱり危険な感染症というのが改めてわかったよ……でも、とりあえず今日は飲もうか。ここの支払いは、私と潤一郎が出すから」
親友がこれから会う予定だった人がコロナに感染したことで、私はこの感染症の危険性を再認識した。飲み屋もいつもより空いており、皆強制されなくても、外出を自粛しているようである。
巧も私も二〇歳の誕生日を迎えており、三人で堂々と酒を飲みかわすことができるようになっていた。酒を呑みつつ、外的な要因とはいえ、珍しく挫折の苦しみを味わう巧を二人で慰めると、巧は次第にいつもの調子を取り戻していった。いや、取り戻そうとしていたようだった。
将来どういう画家になりたいか等、青臭い夢を語る夜になったが、巧はすでに画家としてのスタートを明確に切っており、なおかつ、今日会う予定だったコレクターに購入されれば、更なる飛躍が確約されていただけに、慣れない酒を飲むことも、理想を曝け出すのも止まらなかった。
巧は、彼にしてはめずらしく泥酔してしまったため、とりあえずここから一番近い潤一郎のアパートに向かうことにした。普段彼は足元が覚束なくなるまで飲むことはないのだが、やはりこの日の出来事はだいぶ堪えたらしい。
「まったく、飲みすぎだぜ、巧ちゃん」
潤一郎の長身痩躯が、筋肉質の巧を背負って曲がる。潤一郎は巧を同情してか、甲斐甲斐しく面倒をみた。しばらくして私が彼を背負うのを替わったが、やはり鍛えられた巧は重たかった。
「……捨ておいてくれ、今日は少しがっかりした」
潤一郎から私の背中に移った直後、らしからぬ弱弱しい声で巧が呟いた。三月半ばとはいえ、この日の最低気温は2度程度だった。人を、ましてや友を置いていけるわけもない。
「こんなに酔っ払った君を置いていったら、凍えてしまうだろう」
私は、ただでさえあまり人の言う事を聞かない巧に、子供に言い聞かせるように囁いた。
「それで構わない、……疲れた」
ほとんど初めてに近い、高岸巧の弱音を聞いた気がした。私と潤一郎はお互いの顔を見合わせた。日本芸術界の宝をこんなことで失わせるわけにはいかないだろう。
「いくぞ天才、お前をここに置いていったら僕が教授陣に殺されてしまうよ。それに、時に人生挫折するのは良い財産になるもんだ。まあ、お前は知らないかもしれないが」
潤一郎は、私の背中で寝入ってしまった巧に優しく声をかけた。
その日は何とか帰宅した私たちだったが、実際コロナというものは、世界中の多くの人間に対してそうだったように、以降、私たちの生活にも多大な影響を及ぼした。ありとあらゆる展覧会や音楽会が中止となり、芸術は不要不急のものと扱われる状況にあったあの学内の空気というのは、やはり体験せねばわからないだろう。
だが、社会の混乱によってその頭角を現す人間というのは一定数いるのも事実で、結果的に言えば高岸巧もその一人であった。この日、コロナの影響で辛酸を舐めた高岸巧は、一年と少し後、コロナの影響で行われたオンラインアートフェスで出展作品を海外のアートディーラーに一括購入され、学内では一躍時の人となった。
高岸巧のような真の天才、潤一郎が言うところの『化け物』は、やはりどんな逆境にも負けないらしい。私と潤一郎は大学生活の色々な場面で停滞を感じていたが、巧だけはどんどんと先に進んでいったような気がする。私は、本業である美術はともかくとしてプライベートが予想していた通りダメだった。小雪との関係も劇的なことなく自然消滅的に終わってしまい、きちんとした破局というのを経験しなかったことに虚しさを覚えたほどだ。