第4話 旅のはじまり
二年次の前期授業が始まる前に、写生旅行は決行されることになった。集合場所の池袋駅は慣れていなかったので、少し早めに来ていたのだが、意外と構内も分かりやすく、迷わずに集合場所へと辿りついた。
「あ、永用くん、おはよう」
「おはよう、みんな早いね」
女性陣は三人で調整していたのか、すでに待ち合わせ場所に来ていた。少し照れはあったものの、努めて明るく挨拶を返す。
「ナガヨー君、おはよう」
次の瞬間、背後から男らしく明朗な声が響いた。巧が後ろから肩に手を回してきた。
「――どうした、巧にそう言われるのは入学式以来だな」
女生徒三人に合わせたのか、後ろから現れた巧が珍しく私のことを苗字で呼んだ。巧は私のことを入学早々に気に入り、初日に下の名前で呼び始めたのである。
「お前と秩父に行けるのが、嬉しいのかもな。俺、あんまり東京から出たことないし」
巧は巧なりに気を使ったのか、彼は私の耳元でそんなことを囁いた。正直これだけの美女たちを前に旅の主目的のように表現されて妙な気持ちになったが、彼なりの緊張緩和の手段と思うことにした。
「おいおい、どうした、二人でそんなにイチャついて」
後から現れた潤一郎が私と巧の状態を指してそう言ったが、どうやら女子の反応を見ていると誤解されている気がしないでもない。
「ああ、そういや『ラビュー』が運行開始したばかりで、さすがに六人まとまった席がとれなくてさ。二人遠くになってしまうんだが、だれかこっちでもいいか?」
特急に乗り込む前に潤一郎が確認する。私は、この手の選択肢があると、つい癖で少数の方を選んでしまう質であったため、ろくに考えずに離れた席を志願してしまった。
「あ、それなら俺もだな」
巧はさも当然のように私の横の席を希望したものの、さすがに潤一郎に止められていた。
「私、となりいいかな。永用君と話してみたかったんだよね」
小雪から、思わぬ提案があった、まさか彼女がそのようなことを言うとは意外だった。
「さ、西元寺さんが、いや、私は大歓迎ですが」
僥倖に、ついしどろもどろになる……いや、まさに願ったりかなったりというものだった。
小雪に窓側の座席を譲り、私はラビューの黄色い座席に丁寧に座った。座り心地は最高なのだろうが、体中が謎の浮遊感につつまれて正直判別が付かなかった。
この特急の特徴の一つに、今までの車両にない大きな窓が存在する。この巨大な窓から切り取る都市や秩父の風景などが、ラビューの魅力なのだろうが、この状況では、それは小雪の美しさを引き立てる背景として存在しているようにさえ見えた。
小雪の美貌は、この時から圧倒的であった。日本画を専攻しているからというわけではないが、彼女の容姿は日本画の美女を彷彿とさせるものがあった。ひたすらに白い肌に黒く長い髪、先日巧と潤一郎の間で上村松園の話が出たが、その姿はどちらかと言えば、松園と並び称される鏑木清方の女性像のように静謐な色気に満ちていた。彼女はただ、そこに座るだけで美を作り出した。
(やばい、緊張してきた」)
私は、心の中で静かに呟いた。彼女の美しさを美人画に例えたものの、ここに立体として存在していることを考えると、その醸し出す緊張感は、陶芸の優品を見ている時に近いものもあった。かつて巧達と、茨城の陶芸美術館に行った時と同じ感覚を思い出した。
陶芸家の板谷波山の傑作を見た時、あまりに均整がとれたその対称の美しさに、見惚れる感覚より、緊張が勝ったことがあるが、当時の私は、まさしく波山に対峙したのと同じ心境に至った。
「楽しみだね、秩父。私、地元が横浜だから、あんまり山に行ったことがなくて」
小雪はそのくっきりとした双眸で私を見つめ、等身大の言葉を紡いだ。ある種冷たさや鋭さを感じる美貌に対し、その声は可愛らしく良く通るものだった。
「横浜、いいところの出身だね。あれ……、ということは今横浜駅から秩父まで乗り入れしているから、もしかして直接行けたの?」
小雪が話題を切り出してくれたことで、こうして普通の会話が始められた。多分に緊張こそしたものの、それほど誤ったコミュニケーションはせず、話を続けることができた。途中、気になって巧達四人が座っている席に視線を向けたが、巧は彼なりに気を遣っているようで、四人も談笑していた。
「やっぱり、高岸君が気になる?」
小雪がこちらを覗き込んで言った。私は自分の頬が熱くなったことに気づいたが、何とか平静を取り繕った。
「……ああ、彼はまず間違いなく天才なんだが、多少危ういところがあるからね。まあルックスは見ての通り良いし、本質的には善人だから、彼を支えてくれる女性が現れるのもそう遠くはないと思うんだけど」
私は、憧れの女性を前にして、親友を一人の男として褒め讃えた。そこには一切の他意はなく、自然と言葉が口を衝いた。
「そう、でも結局ああいうタイプって、永用君や辻君みたいな友達を大事にして、あんまり女子に興味なさそうじゃない?」
小雪もまた、私と同じように四人掛けの方を見て、彼女なりの意見を述べた。
「まあ、そりゃ私や潤一郎さんと仲は良いけど、普通に女の子にも関心はあると思うよ。ただ、確かに女性と話すより、彼は画を描くのが好きだよね」
実際、私と小雪が眺めているうちに、巧は少ない手荷物からクロッキー帳を取り出し、他の三人と談笑しながらも車内の写生を始めた。彼が会話に集中するのは稀なことであり、何か少しでも描きたいものがあると、誰がいても画を描き始める習性があった。完全に手を止めるのは、せいぜい私と潤一郎がいて共に騒いでいる時くらいだろう。
「本当だね……」
巧の様子を見た小雪が唖然とする。私は初めて見る彼女の表情に新鮮さを感じながらも、小さく頷いた。
「女子の中じゃ、高岸君がどんな誘いも断るから、永用君と付き合っているって話が出ていたくらいだけど……」
小雪は持参したペットボトルを開けながら、さらっと衝撃的な発言をした。
「……同性愛を否定するわけじゃないけど、巧も私も恋愛対象は女性かな。まあ、彼といると心地いいし、熱量につられて私の絵の方もどんどん上達するから、ありがたくはあるんだけど」
小雪、というか同級生の女性陣の思わぬ意見に動揺を隠しつつ、私は正直な意見を述べた。
「そう、それなら安心かも」
少しだけ水を飲んだあと、彼女が静かに微笑んだ。その表情と言葉の意味をしばらく考えたが、トイレのために席を立った潤一郎が話かけてきたこともあり、自分にとって都合の良い思考は中断することになった。