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第3話 小旅行の企画

 さすがに不用意に挑発した結果、一人の日本人に倒されたということを、彼らが日本の警察に言うことはなかったようだ。


 この事件は立件されることなく終わったが、私と潤一郎は、巧の天賦の才をつまらない事件で損なわせたくないとの共通の意識を持つようになった。これ以降、二人とも巧に対し、時折保護者のように振舞うようになったのである。


 飲み屋での諍いから、一月後くらいのことだろうか、長期休暇中、制作やアルバイトの間を縫って、三人で東京国立博物館の特別展を見に行った時のことだ。一緒に展示を見に行っても、やはり各々見るペースというのは違うもので、巧は一番館内から出てくるのが遅かった。


 私たちが外のベンチでしばらく休憩していると、巧が駆け寄ってきて、


「なあなあ、お二人さん、秩父にスケッチ旅行に行かないか」


広大な博物館の作品を散々熟覧したというのに、疲れを感じさせずに現れた巧は、開口一番にそんなことを言った。


「まあた、この子はワガママ言って……お父さんに頼んでみなさい、どうせ休みの日は家で寝ているんですから」


 既に、潤一郎は、巧をどのように扱っていいかを熟知していた。


「お父さん、土日はゆっくり休みたいなあ。ほら、お母さんが毎日安月給って怒るから、平日はずっと残業しているだろう」


 私も潤一郎に合わせて、普通の家庭を想像して演技をしてみる。


「いらん、いらん、そういうの、要らないから」


 巧はぶんぶんと手を振り、こちら側の茶番には乗らず、国立博物館の噴水の前で、如何に自分の計画が素晴らしいかを語った。


 先ほど天皇陛下の即位記念三〇周年の展示を見た際、会場で『秩父宮』に関する話をしている客がいた気がするが、そこからきっかけを得たのだろうか……


「秩父か、あ、お前『ラビュー』に乗りたいだけだろう。妹島和世のファンだものな」


 初めに巧の真意を推理したのは潤一郎だった。巧は世界的な建築家、妹島和世のファンだった。よく彼女の作品がある金沢や茨城県の日立に旅行したいと言っていた。西武鉄道のラビューは建築家によって手掛けられた珍しい特急形電車であり、彼からすれば興味の対象であるのは間違いなかった。


「ん、まあそれもあるが、たまには君たちと親睦を深めたくてね……」


 嘯く巧に対して、潤一郎は訝しんだが、結局私も潤一郎もそれほど余裕のある生活をしているわけではなく、日帰りの小旅行といえども金銭面での躊躇があった。


「いや、なんならこの前の賞金もあるし、奢ってもいいぜ、どうしても秩父に行きたくなっちゃってさ」


 巧は本当に純粋に『秩父』という土地に惹かれているようであったが、さすがに彼がその実力でつかみ取ったコンクールの賞金で遊興をする気にはなれなかった。


「いや、巧、さすがにそれは悪いよ」


「そうそう、そりゃお前はこれからどんどん賞金の類は貰えるだろうが、そういうのは賞の主催者の意に反することだぜ、それは巧の成長、次なる作品のために使わないと」


 私の言葉のあとを潤一郎が補足する、確かに私が言いたかったのもそういうことだ。巧は他者の意を察するということは苦手だった。


「まあそうか、たしかに以前日帰り旅行のことを女子に話したら、私たちにも声をかけてって言われていたし、面倒といえば面倒だったんだよなあ。仕方ない、一人で……」


「ちょっと待て」


 潤一郎がベンチから勢いよく立ち上がり、巧の肩に手を置いた。


「相変わらず説明が足りないなあ、巧君……、もう一度順を追って説明してくれないか」


 潤一郎の醸し出す迫力に、巧が珍しく気圧されたようで、彼は渋々とだが語り始めた。巧からしてみれば、私と潤一郎とスケッチのための小旅行に行くのは決定事項であったらしく(なお、私たちにその時点まで説明はない)、長期休暇の予定を女子に問われた時、そう説明していたらしい。


 となれば巧目当ての女子たちがその機会を逃すはずもなく、その時は男女交えたグループでスケッチ旅行に行こうと約束したとのことであった。


 潤一郎の表情が、様々な感情に従い変化する。だが、最終的には満面の笑顔に変わり、彼は優しい眼差しで巧を見つめた。


「うーん、巧君、やはり偉大な芸術家たるもの、どんな約束や依頼でも、一度決めたら守るべきなんじゃあないかな。ほら、お前の好きな上村松園も、『青眉抄』でそう書いていただろう」


「そうか? 適当なヤツのが多くないか? 松園にしたって、あれはどちらかと言えば、皇后を二十年以上待たせてしまったことを後悔している内容だろう……あ、でもまあ結局、他の依頼との兼ね合いで遅れたっていう理由だったか」


 上村松園は、清廉な美人画を得意とした日本画家である。彼女には、大正天皇の皇后、貞明皇后の御用命を受けながらも、妥協を許さない制作姿勢に加え、他の依頼との競合等を理由に、実に御用命から二十年以上の歳月を経て、御用画を完成させたという逸話があった。


 潤一郎は巧が認める画家のエピソードを引用してまで、女子との小旅行に行きたいようだった。とはいえ、私も潤一郎と同じく、その企画には興味があった。金銭面の余裕はないものの、巧のように超然と自分の芸術のみを追究できるほどの境地には至っていない。実家では禁じられていたが、年相応に女性と交流したい思いがあった。


「わかったよ、まあ潤一郎にはよく世話になっているし」


 巧は彼にしてはしおらしい動作でスマホを操作した、ものの数分ですぐに私たちと出かける面子は出揃ったとのことだった。


「桑島と、水野、あとは日本画の西元寺が来るって」


「え、西元寺さんが――」


 無感動にスマホの画面を眺めながら女性参加者を読み上げた巧に対して、潤一郎は驚嘆の声を上げた。私もおそらく潤一郎と同じ反応をしていただろう。


 西元寺小雪〈さいげんじこゆき〉は、芸術を学ぶ大学において妙な話ではあるものの、その類まれな美貌で有名な学生だった。


 彼女とは昨年の九月の学内のイベントまで面識はなかっただが、日本画専攻の生徒でとてつもない美人、あるいは女優のような美人がいるというのは油画専攻生の中でも噂になっていた。とはいえ、私の目には都会の女の子というのはほとんど洗練された、女優のような女性に見えたので、ついぞ相対するまで、噂の美女が一体誰を指すのかが解らなかったのである。


 だが、実際に真正面から彼女を見たとき、噂が真実を伝えていたこと、いや、おもしろおかしく肥大化したその噂でさえ、彼女の容貌の美しさを表すのに不足があったことを知った。


 あまり他者との会話で緊張する方ではないのだが、私はこの時、巧の作品を最初に見た瞬間のように固まってしまったのを覚えている。


「桑島さん、水野さん、西元寺さんと秩父か、それは楽しそうだね」


 私は一切の感情を包み隠さず、二人に告げた。潤一郎は満足そうに微笑み、巧もまた、私の同意を得たことで、あの邪気のない笑みを浮かべた。


 こうして、我々の秩父行が決まったのである。正直実家からの仕送りがほぼない中、その提案は我が生活を脅かすものであったが、仲の良い二人に加え、憧れの西元寺小雪や女子と遊びにいけるというのは素直に嬉しかった。

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