SIDE コンラッド2
「屋敷を追い出されるでしょう。お嬢様はなにもかも捨てなければならなくなる」
「私は……」
「後悔するでしょう。すべてを捨てたことを。そうならないって言えますか?」
言えるわけがない。俺のために、すべてを捨てるなど。
平民と貴族の身分の差は、天と地ほどある。ベルティエ家は古くから続く由緒正しき家だ。その辺の下っ端貴族とは違う。俺が貴族の末端に入れたのは、そのベルティエ家の存在あってこそだ。騎士になり、騎士団長からも目を掛けてもらった。ベルティエ家の旦那様の許しを得て、身分をいただいた。
それらを裏切り、息女を奪うなんて、大きな罪だ。
その裏切りの中、逃げなければならない。逃走する間は働けず、貧乏に苦しむかもしれない。そんな状況を作った俺を、シャルリーヌ様は恨むかもしれない。道は苦しく険しいのだ。貴族の令嬢が、耐えられる道ではない。
だから、諦めると言われれば、それで自分も諦めなければならない。
「捨てるわ」
シャルリーヌ様は、よどむことのない澄んだ声音で、はっきりと口にした。
「コンラッドと一緒にいたい。だから、捨てるわ!」
「お嬢様は、平民がどんなものかわかっていないんです」
「わからないわ。だからなに!? あなたと離れて、別の男性に抱かれるのよ!? あなたは耐えられるの!? 私が誰かと結婚しても、仕方がないと言うの? 平民がなによ。やってみなくちゃわからないじゃない」
「やってダメだったら、どうするんです」
「そうしたら、その時また考えるわ。ただ違うのは、あなたも一緒にいるってことよ。あなたも一緒に、考えてくれる立場になっているってことよ? お嬢様と、騎士ではなく、夫婦として、考えるのよ!」
その混じりのない清廉な言葉に、涙しそうになった。
俺の目を逸らすことなく見つめて、そんなことを告げるのだ。少しも揺らがず、俺の側にいたいと言ってくれるのだ。
「後悔してほしくないのに」
「どっちにしろ後悔するなら、選びたい方を選ぶわ!」
「シャルリーヌ様」
なんてお強い人なのだろう。シャルリーヌ様はおとなしそうに見えて思った以上に頑固で、強気で、一度決めたら突き進む強固な精神がある。
弱気になっているのは俺だ。そんな責任取れるのか? 連れていって守れるのか? 情けない真似をして嫌われたりしないのか? いつもそんなことを考えている。
後悔させない。後悔したくない。
「ついてきてください。俺と一緒に」
「コンラッド……」
彼女は決めた。あとは俺が行動するだけだ。
「お、お嬢様」
今日現れたのは、冷ややかな視線を向けてくる、姉の方、クロディーヌ様だ。
すべて聞いたのだろう。殺されるかもしれない。なんなら急所を狙ってくるかもしれない。クロディーヌ様ならやる。
無言の視線が痛い。しかしこれを避けてはダメだ。俺は睨み返す、わけではなく、その視線をなんとか受け止めていた。情けないが、シャルリーヌ様の次に、この方に弱い。頭が上がらない方だ。
「怒ってますか」
「怒ってないわ。焚き付けたのは私の方だし」
「焚き付けた?」
「私、婚約破棄狙ってるの」
「知ってます。聞きました」
それがなにか関係あるだろうか。首を傾げそうになると、クロディーヌ様は俺に冷眼を向けるのはやめて、剣を取り出した。打ち合って話そうという気だ。どさくさに紛れて、本気で切ってきそうな気もする。
「あのクソ男、いえ、人のこと言えませんが、クソとの婚約は、俺もさっさと破棄した方が良いと思います」
「当然よ。あんなクソ男」
美人な令嬢がクソを口にする。これは俺の影響に違いない。たまに出る平民言葉がお嬢様たちに影響を。申し訳ない。
「それで、シャルリーヌはエヴァと結婚しなさいよ。我慢して。なんて言えないでしょ」
律儀すぎないだろうか。クロディーヌ様は構えると、遠慮なく剣を振ってきた。令嬢とは思えない速さの剣が、俺の頬ギリギリを通っていく。いつも以上に速さがあって、避けるのに苦労しそうだった。
「お相手の方、エヴァリスト様、なんですね」
「そうよ」
エヴァリスト様は知っている。幼い頃、クロディーヌ様といたずらの限りをつくした協力相手だ。俺が騎士の見習いをし始めた時、クロディーヌ様と一緒に俺の稽古も見てくれた。見てくれるふりをして、落とし穴に落とした凶悪な方だ。顔がよく、真面目そうで、言葉遣いもしっかりした子供だったが、時折悪魔のようないたずらをしてくるのだ。あの時は本当に騙された。
しかし、クロディーヌ様はエヴァリスト様と気が合っていて、彼を好んでいた。
性格は悪くない。当時平民だった俺にも気兼ねがなかった。一緒に遊んでくれるような人だ。しかも対等に相手をしてくれる。ただ悪いことをするにもいつも同じ顔だったので、たちが悪いと思わせるような人だったのは確かだ。
そんな人がクロディーヌ様の好きな方。それを反対する気はない。なんならお似合いだと思う。気の合う同士でいたずら仲間。そして剣の相手でもある方なのだから、似た者同士だろう。
それが、シャルリーヌ様のお相手となった。
「なによ。その顔。ムカつくわね」
「なんでですか」
「かわいそう。みたいな顔しないでよ!」
「してませんよ!」
いや、したかな。正直なところ、自分の気持ちは置いておいて、エヴァリスト様がシャルリーヌ様のお相手であれば、シャルリーヌ様は幸せになるだろう。エヴァリスト様はいたずら好きだが、性根が腐っているわけではない。ハンネスとはまったく違う。同じ盤上に乗せることすら不敬だ。大人になってどうなったか知らないが、子供の頃は誰相手でも同じ態度で、根は真面目だった。繰り返し言うが、いたずら好きなだけで。
そのエヴァリスト様には、クロディーヌ様の方がもっとお似合いだと思うが。エヴァリスト様の悪巧みは、クロディーヌ様の方が相性は良さそうだ。
とはいえ、そのエヴァリスト様が、クロディーヌ様ではなくシャルリーヌ様と婚約した。複雑どころの話ではない。
「気を遣わないでよ。シャルがエヴァと結婚したら、そりゃ荒れるわよ。私だって、妹を恨みそうになるわよ。でもシャルリーヌが私に気を遣うのも腹立つのよ。なんで、望んでない結婚で私に気を遣うの。あの子だって嫌がっているのに!」
剣が振り抜かれて、俺はその剣をいなす。力任せに振ってきたので、地面に当たれば腕を怪我するだろう。それに気付いたクロディーヌ様は剣を休めると、息を大きく吐いて、気持ちを落ち着かせた。
この方の感情の整え方を、俺も見習いたいものだ。もういつもの令嬢の顔になっている。凛とした、氷の中に咲く花のようだ。激情的なのに、それが一瞬で澄み渡る。
「なんとかするわ。なにか考える。あなたもなにか考えなさい。シャルリーヌに手を出した罪は重いわよ」
「う」
やはり知っているか。こちらから伝える気持ちはあったが、さすがにシャルリーヌ様が話す方が早い。
はあ、勝てないな。シャルリーヌ様の一番がクロディーヌ様なんだから、勝てるわけないけれど。
「計画もなにもしてないくせに、手を出すんじゃないわよ。どうせなにも考えてないんでしょ。決意するなら、計画してから決意しなさい」
「すみません」
もうなにも言えない。俺は頭を下げるだけで、反論の余地もなかった。
これからどうするのか、はっきり決まっても、ならばどう進めるつもりなのか、なにも決まっていない。
「責任取ってもらうわよ」
それの意図することはお互いにわかっている。
「もちろんです!」
俺が、彼女を守る。その決心だけは揺るがない。
クロディーヌ様は口元を上げて、再び剣を構えた。