8.その報せは突然に
「お客様、ですか?」
朝食を終えて、各自で自分の仕事をこなすための時間。いつもよりも使用人たちが慌ただしく動いているなと思っていたら、フェルヴェお兄様からその理由を告げられた。
そのような予定があった事を聞きそびれていたのだろうかと首を傾げていると、ぽんと頭に手が添えられた。
「ドルチェ、言葉は正しく使わなければいけないよ」
「え、はい。申し訳ございません……?」
正しく、とロラントお兄様が仰るのはお客様、の部分だろう。そうでなかったらどう呼べばいいのかが分からなくて言葉尻が疑問形になってしまったけれど、特に訂正されることはなかった。
どう言えばいいのだろうかと正解を聞こうとした私に、気にするなと声をかけてくれたのはフェルヴェお兄様だった。
「そう言うな、ロラント。ドルチェが生まれてからこの地に視察など来たことはないのだから」
「フェルヴェお兄様、視察と仰いましたか?」
「……ああ、そうだ。この前、ニアマトにちょっかいをかけようとした貴族を覚えているか」
「すぐにお帰りになった方でしたよね。お父様とフェルヴェお兄様から手土産もあったとお聞きしていますが」
我が領に視察が入るのであったら、確かにお客様ではないだろう。滞在中は屋敷を使ってもらうことになるから、ある意味ではお客様なのかもしれないけれど。だから、朝から使用人たちがバタバタしているのかと納得する。
でも、この前王都から隣国に向かった貴族の方は、我が領に泊まることを拒んでいたはずだ。だからこそ、今回視察でやってくるのは別の人なのだと分かった。そうでなければ屋敷を整えている意味がなくなってしまう。
「そうだ、そいつが王都に戻るなり国王に進言したんだそうだ。プレシフ家は物資の援助も補給もないのに、民があんなに平穏に暮らしているのはおかしいとな。
こちらから再三申請を出しているのを無視しているのが国王の方だと知らないのだろう」
辺境伯であり、国境の守護を賜っているのだからそれなりに国の予算は割かれているべきだ。お金がすべてとは言わないけれど、お金がなければ兵たちの装備や民の食料は賄えないのだから。その予算が年々少なくなっていることにロラントお兄様を始め、書類を任されている方々が頭を悩ませているのを知っている。
お母様のレース編みや私の刺繍だって、令嬢としての嗜みというよりはニアマト王国に売るための商品である。それでも不自由をさせてしまう兵たちも、民も皆が協力してくれているから平穏に過ごせているというのに、そのような進言をなさっただなんて。
「お母様がこちらにお戻りになる際に、どれだけ荷物を持ってきてくださっているのかもですか」
「知らない、いや知ろうとしていないのではないかな。なにせ、辺境から出てくれば王都は全て目新しいものに見えるだろうと笑っていたようなのでね」
年に二回、社交シーズンに王都に向かうお母様はたくさんの馬車と共に帰ってくる。それは、こちらでは手に入れるのが難しい物をたくさん仕入れてくれるからだ。もちろん、我が領にだって行商人はやってくる。けれど、王都で買うよりも高いのは当然だ。王都を出てからここに来るまでの運搬費だって乗ってくるのだから。
そんな事情もあるのを知らずに、自分の物は最低限しか買わずに、あとは領のためにとたくさんの買い物をなさってくれているお母様の事をそのように言っているのか。
「ロラントお兄様、怒っていらっしゃいますか」
「役目を果たそうとしている母上を、貴族としての責務を放棄している者が嘲笑っていると知った俺が、怒らないとでも?」
「当然の事を質問してしまいました。どうぞ、ご容赦くださいませ」
ロラントお兄様は怒ったときに無表情になって言葉も平坦になる。そうして怒られるのはなかなかに怖いそうだ。見たことのない姿だったから、あまりピンとこなかったけれど確かにこのロラントお兄様に怒られたら、もう二度と見たくないと思うだろう。
執務にはあまり関わっていない私ですら怒りを覚えたのだから、お兄様たちが怒るのは当たり前。それを想像できなかった事は、素直に頭を下げる。
「……話を戻すぞ。その貴族からの言葉を聞いて、他にも声が上がったようでな。おそらく、あと数日もしないうちに王都から誰かしら立場のある者が派遣されてくるだろう」
他にも、というのはお父様を辺境伯から降ろしたい方だろうか。それとも、耳障りの良い言葉だけを囁いて王の信頼を得ようと思っている方だろうか。どちらにしても、そうでなくても、我が家にとってはあまり良い感情を持っていない方であることに違いはなさそうだけれど。
「王城からの視察となると、それなりの立場があるはず。父上はニアマト王国の陛下に事情を説明するため、向かっています。母上は民たちへの説明に。
俺たちは兵士たちへ説明に向かうので、ドルチェは客人用の部屋を整えてほしい」
「ルターも共に行くが、屋敷の全てに目を行き届かせるには少々時間が足りなくてな。お前の力を借りられると、とても助かるんだが」
こちらに一切の情報を与えないままに視察にいらっしゃるというのは、抜き打ちで日頃の様子を見て判断したいという意思表示なのでしょう。けれど、それをはいそうですかと受け入れてしまうといろいろと弊害が出てしまう。主に、隣国との関係性について。
ニアマト王国の兵士たちも、我が領で警備に就いてくれている兵たちも、そのあたりには理解があるからお父様とお母様の説明があれば大丈夫でしょう。むしろ、話を聞いた後だからかもしれないけれど、ニアマト王国のランディ陛下からは労りの言葉を頂けると思う。不自然にならない程度には襲撃を装った訓練をするでしょうし。
そんな状況で、私が出来ることは屋敷の中にしかない。お兄様たちの提案は、最もだ。
「分かりました。私で役に立てるのであれば。その、視察にいらっしゃるのはどのような方なのでしょうか」
「それが、まだ何もわからないんだ。ロラントの部隊の一人が、王城でそのような動きがあると掴んですぐに連絡をくれたからな」
「おかげでこちらもすぐに動けたのですが、詳細は続報を待っている状態ですね」
ロラントお兄様の部隊は、情報収集を主に担ってくれている。今回も、大変すばらしい働きをしてくれた。
視察にいらっしゃるのがお一人なのか複数なのか、その情報まで欲しかったところだけれど、欲張ってはいけない。事前に情報があるだけで私達はとても助かっているのだから。
「そうだったのですね。では、どのような方でもいいような内装にしておきます」
「ああ、よろしく頼む」
「俺達も終わったら手伝うからね」
そうしてお兄様たちとは別れて、私は足早にルターの元へと向かう。きっとどこかで指示を出しているのだと思ったし人の気配が集まっていたから、まずは使用人たちの休憩スペースへ行こう。
予想通りそこにはルターを始め、非番で休日であるはずの使用人たちまで集まっていた。
「お嬢様、どうしてこちらに!」
「呼んでくだされば良かったのに」
「ごめんなさいね、突然お邪魔してしまって。でも、私が出向く方が早いと思ったから」
いつもの日常に仕事が飛び込んでくるのはしょっちゅうだけど、今回ばかりは時間も人でも足りないはずだ。私が顔を見せたとたん、わずかに安心したような顔をしたルターが深々と頭を下げた。
「お手を煩わせてしまうこと、先にお詫び申し上げます。ですが、ドルチェ様がいらっしゃるのであれば出来ることが増えますゆえに、申し送りを少々変更する時間をいただけませんか」
「もちろんよ。私だってプレシフ家の一員です。皆で屋敷を磨き上げましょう」
それから、コック長含めて数名は食材の補充に向かい、メイドたちと一緒に客室に風を通していく。何人いらっしゃるのかも、性別も年齢も分からないので、内装はシンプルに。長く滞在されるのであれば、初日に好みを確認してから別の部屋を案内出来るように手はずを整える。
民は少々不安を覚えている様子だったようだけれど、基本的には我が家に滞在し、領を見て回るときには先ぶれを出すということで落ち着いた。
農地の納屋に、こっそりと武器を置いてあったりするし、隠した方がいいものだってあるからだ。
「結局、王都から伝令はなかったのですね」
「ああ。ロラントの部隊から報告を聞く限り、視察に来るのは一人だけだそうだからな。書状でも持たされているのかもしれん」
そわそわと領の入り口で待っているのは我が家の全員。少し離れて様子を見守るのは、フェルヴェお兄様の部隊で一等足が速い方。視察に来た方の姿を確認して、その身分を確かめた段階で屋敷に待機している人たちに伝えてもらわなければならないからだ。
「お父様、どうやらいらっしゃったようです」
「そうか。思ったよりも早かったな」
普段だったら朝食を終えて、一日にやる仕事を振り分けている時間。そういえばこの時間に視察の方が来ると聞いたのだったと苦笑いをしていると、向こうの人影がこちらに気付いたのか規則的だった足音が、わずかに揺れる。
「ようこそ、プレシフ領へ。歓迎いたしますぞ、使者殿」
お父様の不敵な笑みを見て、今度こそ体を大きく揺らしたのは、小柄な青年。
その人は、光の下でもその色を主張するアンバーの髪と、コーランド王家の色である紅を瞳に宿していた。