6.隣国との関係は
前半は、とある兵の視点から。
「夜警明けなのに、随分とご機嫌じゃないか」
出勤と交代の兵たちが入り乱れて、ざわざわと騒がしい時間帯。夜通し見張りを担当した者は、何かあってもなくても自分の眠気を振り払うかのように少しだけ話す声が大きくなるのだが、今日は珍しくそれがない。
どうしたのだろうかと思っていたら、目の前を見知った顔が横切ったので思わず手を伸ばしてしまった。
「ああ、先輩おはようございます。昨日は穏やかな夜でしたよー。それに、久しぶりに聞けたんです、あれ」
にんまり、そう形容するのがぴったりの笑みを浮かべた後輩は、夜警明けのこの時間だと目を閉じているのではないかと思うくらい、眠気に負けていたというのに。
あれというのが何を意味しているのか分からない兵は、この地にいない。そしてそれを楽しみにしていない兵も。
いくら隣国との関係が当主のおかげで良好だといっても、いつこの地が戦場になるのかは分からない。自国の王が領土の拡大を夢想している今、命令が下らないとは言い切れないから。そんな完全に気を休めることのできない日々での、数少ない癒し。
「昨日は、奥様がお戻りになったんだったっけな。……いい夜だったじゃないか」
「そうなんですよ。俺、夜警が多いからタイミング逃してたんですよね。いやあ、これからもう一仕事あるけど、気持ちよく寝れそうです」
「立ちながら寝るんじゃないぞ。お前ならやりかねないからな」
社交で王都に出向かれていた奥様が戻ってこられたのが、昨日。昼前に早馬で今日中に戻ってくるとは伝達があったけれど、夕食に間に合う時間に戻ってくるとは思っていなかった者がほとんど。ま、俺もその中の一人なんだけどさ。
共に駆けてきた馬は、ロラント様が調教師と一緒に見たけれど、特別疲労が溜まっているというほどでもなかったようだし。奥様の乗馬の腕を見せつけられたような気分になって、訓練に熱が入った者が半分、弟子入りしようと世迷言を呟いていたのがそのさらに半分。残りは、さすがだなあという感想しか抱けなかった。
自分たちだって鍛錬を怠っているつもりはないけれど、この辺境を預かる一家とは超えられない壁がある。その高い壁に挑戦しようという気持ちを持つことは止めないけれど、早々に現実を認めた方が楽になる場合だってある。
「寝たくもなるでしょうよ。王に気に入られたいからって、度胸試しのように隣国に向かう貴族のお守りなんて」
「お前たち」
やってられないと全身で表わしている後輩に頷きかけて、そっとかけられた声に冗談抜きで肩が跳ねた。
恐る恐る振り返ると、俺達よりも重い分しっかりした造りの鎧を身に着けているのに涼しい顔をしている男性。
「フェルヴェ様!?」
「声が大きい。聞いたのが俺でよかったな。その貴族だったら物理的に首が飛んでるぞ」
辺境伯の長男、フェルヴェ様。ご当主からのしごきを一番長いこと受けているからか、俺たちの中に混じっていても違和感のない立ち振る舞いだけど、こういう時の姿を見ると、ああ、自分たちとは違うんだなあと思い知る。何て言えばいいのかな、上に立つ時に当然として求められる振る舞いが、自然にできる方。
自分の首筋を指でピッと横に動かしただけだったのに、俺もおそらく後輩も同じ想像をした。自分の首と胴体がお別れする姿だ。
そうして俺たちが青い顔をしている事に、フェルヴェ様はふっとわずかに表情を崩して笑う。
「もうすぐ来る。整列して準備しろ」
「はい!」
やっぱり俺なんかじゃとてもじゃないけれど、この壁を登れそうにない。
*
「王都からいらっしゃった方は、隣国へ着いたでしょうか」
「我が領に泊まるなど危険だと言い張ったうえに、隣国までの道は兵士に守らせたのです。無事に辿り着いていなければ困ります」
朝、まだ日も登りきらない時間にこの地を出立したのは、王都からいらっしゃった貴族の方。私は顔を存じ上げませんでしたが、お父様とお母様は面識があるご様子でした。出立前にお言葉を交わされていた雰囲気では、良好な関係を築いているとは言い難いものでしたが。
そして、それは今のお母様の言葉からも読み取れるもの。
「ランディ陛下の事ですから、適当にあしらっているのでしょう。逃げ帰ってきたお方を宥める準備でもさせておきましょうか」
「お母様、隣国の……ニアマト王国の陛下とはお名前を呼ぶほどに親しかったのですか?」
レース編みの手を止め、私の顔を見てパチパチと瞬きを繰り返すお母様の顔を見て、自分の質問は誤ったのだと気付いた。気付いたからといって、今更言葉を取り消すことなんて出来るはずもないので、慌てて重ねるように言葉を紡ぐ。
「あの、お父様が密やかに交流を持っているとは教えていただいたのですが、聞かない方が良かったのであれば、どうぞ忘れてくださいませ!」
隣国との国境にあるこの地には、教師は定住していない。知識のある者が私塾を開いてくれたり、家庭を訪問して必要なことを教えたりはしてくれているから、困ることはないけれど。
お母様が王都に行くのだって、自分たちの知識が誤った方向に進んでいないかを確かめるという側面だってあるのだし。けれど、王都ではおそらく教えてもらわないだろう隣国、ニアマト王国との関係。それは、この地では公然の秘密のようなものだ。
「いいえ、ドルチェにも話してあると思っていたのに伝え損ねているヴィーゴ様に、少々呆れてしまったのよ。
お父様と、お母様が学生時代に先輩と後輩だった話は?」
「聞きました。お母様の乗馬の腕を競ったのが、お父様だったのですよね!」
「ええ、そうよ。そこに、ランディ陛下もいたの。身分を隠して、留学生としてやって来たのには驚いたわ。前王陛下だけはご存じだったようだけど」
お父様もお母様も、お若い頃には王都にて過ごしていたと聞いている。国境にあるこの地を賜ったのは、結婚なさってからだと。
ランディ陛下、とお母様が呼ぶ声は穏やかで、確かに親しかったのだと教えてくれる。
編みかけのレースをテーブルに置いたお母様から手招きを受けて、私も刺繍を置いて傍に座る。ふわりと香るのは、お母様が好んで使っている小さな花から集めた蜜で作った香水の、ほんのりとした甘さ。
「ランディ陛下は、当時交流があまりなかったニアマト王国からの留学生の一人だった。けれど、あっという間に人の輪の中心にいるようになったわ。気さくで、話題にするりと飛び込むのが得意なお方だったのよ」
前王陛下とお父様が学生の時からの友人だとは聞いていたけれど、そこに隣国の陛下まで一緒だったとは。
知らなかったとはいえ、隣国の王子と共に過ごしていたというお父様はすごいお人なのではないだろうか。もちろん、辺境伯を賜っていることだけでも十分に誇れるすごいことだとは分かっているけれど。
「お母様は、どのようにしてランディ陛下と交流を持たれたのですか?」
「私は、偶然というか成り行きでね。いつものように乗馬の勝負を挑んできたあの人の隣に、興味を持ったランディ陛下がいらっしゃったのよ」
懐かしそうに目を細めているお母様は、当時の事を思い出しているのだろう。ふふ、と少しだけ楽しそうに笑う。
「そこがきっかけですか?」
「そうね、私も今思えば大人げなかったと思うわ。けれど、あの頃は若かったし、ギャラリーがいるっていうだけで楽しくなってしまってね。
つい、本気を出してしまったのよ」
お母様の本気、と聞いて私はその場で固まってしまった。本当だったら馬でも三日はかかる王都までの道のりを、お母様は半分で済ませてしまう。それでも、前よりは耐えられなくなったから、余裕を持たせているのだと調教師と話しているのも、聞いたことがある。
我が家で一番馬の扱いには長けていると思っていたけれど、どうやらお母様の乗馬スキルは私の想像をはるかに超えたところにあるらしい。
「も、もちろん後からきちんと手入れをしたわよ!?
気に入ってくれている子だったから、頑張ってくれていたのも分かっていたし……」
私が聞いていたお父様とお母様の馴れ初めは、随分と可愛らしくまとめられていたものだったようだ。
きっと、お母様はぶっちぎりで勝ったのだろう。お父様もあれで負けず嫌いなところがあるから、何度も勝負を挑んでいるうちにお母様とも親しくなっていった、というのがおそらく正解。
そこに、ランディ陛下が混ざっていたのだとしたら、お母様があれだけ親しそうに名前を呼んでいた事にも納得する。
「その馬も、嬉しかったのだと思いますよ。全力で走れる相手に巡り合えたのですから」
「……そうだったら、嬉しいわ。あとでロディックにも伝えてあげてね」
「え、ロディックって馬房の長老ですか?」
「私が卒業してから、十分に走らせる相手に出会えなかったようでね。少し後に引き取ったのよ。当時のようにとは言えないけれど、今でも若い子には負けないと思っているはずよ」
白い毛が艶やかな馬房の長老、のんびりと散歩している姿しか見ていなかったけれど、お母様が王都に出向く際には確かにいなかった。まさか、お母様が手綱を取るのがロディックだったなんて。
今度見せてもらおうと思っているのが通じたのだろうか、お母様の方から今度ロディックに乗るときは教えてくれると約束してくれた。
くすくすと二人で笑いあって、いつの間にかメイドが用意してくれていた紅茶とおやつにお礼を伝えてから口にする。
ニアマト王国の話を聞きたかったけれど、それ以上にお母様の事を知れたことが嬉しい。しばらく他愛ない話をしてから、ふう、と一息入れた私の耳に、お母様の真剣な声が届いた。
「ヴィーゴ様が辺境伯を賜って、少し落ち着いたころかしら。あの方から、密かに手紙が届けられたのは」