4.辺境伯の娘
偵察部隊の方には、ロラントお兄様から労いの言葉がかけられた。それにフェルヴェお兄様からも一言添えられたのが嬉しかったのだろうか。お父様に直接報告した時は緊張しただろうが、今はわずかに表情を緩めている。この部屋に入って来た時とは違う意味で紅潮した頬を押さえながら、部屋を退出していった。
きっと、彼はこれからまた有益な情報を掴んで帰ってきてくれるだろう。そして、それは部隊全体にもいい方向へ作用するはずだ。フェルヴェお兄様の部隊や、ロラントお兄様が任されている部隊に所属していても、お父様に憧れている人がほとんどなのだから。
そのなかに、お兄様たちも含まれているけれど。一番近くにいるからこそ、一番容赦ないしごきを受けているお兄様たちを羨ましいと思っている人だっているほどだ。
「ドルチェ、また腕を上げたな。うまかった」
「……ありがとうございます、お父様。私はキッチンの片づけに向かいますね」
「ああ。ルターが大半を済ませているだろうが、自分の事は最後まで自分でやらねばな」
お兄様たちは私が退出するのを引き留めたのに、お父様は私がこの場にいる間に話を進めるつもりはないらしい。ならば、とまだ肩に置かれているお兄様たちの手をそっと取って、今度こそ立ち上がる。引き留める手は、伸びてこなかった。
「ああ、ドルチェ待ちなさい」
「お父様?」
綺麗になった食器をカートにまとめ、そのまま部屋を出ようとしたときにお父様から声がかかった。てっきり私が退出するまで静かなままかと思っていたので、意図が読めずに首を傾げてしまう。
「レジェーナから早馬があった。最低限の社交はこなしたから、今日には戻ってくるそうだ」
「お母様が? 予定よりもずいぶんとお早いお戻りですね」
この国は三方を険しい山脈に囲まれているからか、他の国との交流は少なく、自国の中だけである程度完結させる事柄が多い。唯一隣国へと通じている国境を守っているのが私のお父様であり、辺境伯を賜っている。
そんな私達が王都に行く機会は少ない。考えれば当たり前だ。隣国へ通じるこの領地を賜っているというのは国の守護を任されているようなものなのだから、そう簡単に留守にするわけにはいかない。
その中で、他の貴族や有力者とのつながりをどう作るか。社交はその手段のひとつであるけれど、大部分を占めている。
王都の社交シーズンに合わせてお母様が領地を発ったのは、たったひと月前。戻って来られる予定はもうひと月後だったと思ったのだけれど。
「そうなのだ。だから、ケーキをまた焼いてくれないか。俺達だけで食べたと知られたら後が怖いからな」
「ああ、母上なら間違いなく怒るだろうな」
「怒られるだけならまだ、いいでしょう。最後の社交がどうだったかによっては……」
「ロラント、言うな。本当になった時が怖い」
お母様の様子を想像したのか、ぶるりと身を震わせたのはお父様。フェルヴェお兄様は真顔だけど指を組んだこぶしが若干揺れているし、ロラントお兄様は現実を見たくないとでもいうように目を伏せている。
男性が多い我が家において、お母様はお兄様たちよりも私を大切にしてくれている。同性が少ないからという気遣いもあるのだろうが、単純にお母様が趣味を話せる相手がいないというのもあるのだと思う。
「ドルチェ、さっきと同じくらいの量を頼めるか。食事の後、皆で楽しもう」
「分かりました。今ならまだ夕食の準備の邪魔にはならないでしょうし、私は失礼しますね」
お母様がいない間にお菓子を振る舞うことは問題ではない。けれど、それが今日さっきだと知られたら話は別だ。早馬まで出してくれたお母様のためだと説明すれば、キッチンの皆もきっと分かってくれるはず。
予定よりも早くお母様に会えるのが嬉しいことに違いはないので、急ぎ足にならないようにと思いながらも、カートを押す手に力が入った。
「ドルチェ様、どうなさいました?」
「夕食の準備があるのに、ごめんなさい。今朝と同じ分くらいのケーキを焼きたいのだけど、キッチンを借りれるかしら?」
小さな声で歌っていたはずだったのに、気が付けば作業をしていても聞こえるくらいの声量になっていたようだ。カラカラと軽い振動を伝えてくるカートを押すのが思いのほか楽しくて、気分が舞い上がってしまったのだろう。
キッチンの中で下ごしらえをしているはずのコックが、ようこそとばかりに扉を開いて待っていてくれた。準備の手を止めてしまったことが申し訳ないし恥ずかしいしで、気付いてすぐに歌うのを止めてカートから食器を落とさない程度に足を速めたけど。
「ああ、さっき聞きましたよ。奥様がお戻りになるんですよね。向こうに、材料と奥様のお好きなドライフルーツも用意してあります」
「忙しい時間にありがとう。これを片付けたら使わせてもらいます」
「あ、それなら僕が引き受けます。今はやることが何もなくて」
器用にカートを操って、自分の前にあるシンクへと持って行ってしまったのは、ちょっと前に入った見習いだったはずだ。今は下ごしらえで一番手が必要な時間のはずなのに、やることが何もないとはいったいどうしてだろうか。
「先ほどのお嬢様の歌を聞いて、なんだかやる気が出てしまって。僕がやれることは全て、もう終わってしまったんですよ」
「まあ、そうだったの。うるさいだけではなかったのね」
「うるさいだなんて、とんでもない! あんな綺麗な歌声を聞けるだけで僕はここに来れて良かったと思っていますよ!」
奥の方で激しく頷いているコック何人かは、見なかったことにしておいて。私の手がカートに伸びるのを自分の体を使って阻止している見習いは、自分が何を言ったのかに思い至ったのだろう。ほんのりと朱色を帯びていた頬は、ハッとした表情を見せたあとにみるみると血の気を失っていく。
「す、すすすいません! 見習いなのにやることがないなんて……!」
あまりの顔色の変化にどうしたのだろうかと思っていたら、肩にポンと誰かから手を置かれた。ふっと見上げた先にいたのは、コック長。ぬっと出てきた顔が険しいから、これはまたいつものように誤解されているのかもしれない。
「ドルチェ様」
「はい、何でしょうかコック長」
「……下ごしらえが思った以上に早く終わって、手が余っているのは本当です。なので、洗い物は彼に任せてください」
目が悪いから目つきが鋭いだけなんだけど、まだ慣れていない見習いからすれば睨まれているようにしか見えないのだろう。コック長が私の後ろに立ってからずっと、肩を縮こまらせている。コック長は新人にとても心を砕いてくれているのだと、大切に育てられていたのだと本人が知れるのは、我が家で一年を過ごしたくらいの頃になる。
何百人という兵士たちに振る舞う食事をほぼ休みなく作らねばならないキッチンは、戦場とはまた違った忙しさがあるために、見習いにつきっきりで指導できる時間があまり取れないからだ。
「コック長が言うのであれば、お願いするわ」
「は、はいぃ! お任せください!」
逃げるようにシンクに向かった見習いは、果たして一年後にまだ我が家にいるだろうか。いて、くれるだろうか。私が強制出来る事ではないとは分かっているし、何度も同じことを思っているけれど。
コック長がふっと口元を緩めたのを横目で見ながら、私はお母様がお戻りになると聞いて用意しておいてくれたドライフルーツがある方へと向かう。
お父様から言われたとおりにケーキを焼くけれど、せっかくこんなに用意してくれたのだから、生地の中にドライフルーツを混ぜこんでもいいかもしれない。
「問題は、フェルヴェお兄様よね。さっきと違うケーキだなんて言い出さないとは限らないし……」
「素直ですからね、フェルヴェ様」
「コック長もそう思う? ロラントお兄様もいるけれど、お母様は誤魔化せないもの」
さっきの見習いの様子や、下ごしらえが終わり夕食を作り始めたキッチン。端っこを借りてうんうん頭を悩ませている私の事も気にかけてくれているコック長は、何か思い出したとばかりに貯蔵庫へ消えていく。
その背中を見送りながらも、ひとまず朝と同じケーキを焼くための準備を始める。慌ただしい声が聞こえ始めたキッチンで、私がこうしてゆっくりケーキを作っていられるのも、コック長が場所を選んでくれたおかげだ。きちんとお礼を言わないと、なんて考えていたら楽しそうな顔をしたコック長が戻ってきた。
「ドルチェ様、これ使いません? ドライフルーツをお酒に漬けてあるんですけど」
「いつの間に用意していたの?」
私の目の前にある、これから刻もうと思っていたドライフルーツは当然ながら乾燥している。けれど、コック長の手の中にあるのはお酒をたっぷりと吸い込んだのか、収穫した時のような瑞々しさを感じられるくらいふっくらと膨らんでいる。
「まあ、ちょっといい酒をもらったんでレジェーナ様と楽しもうかと思って、試しに作ってみたんです。どうせひとつじゃ足りないんでしょう?」
「それは、そうだけど。でも、いいの? コック長が楽しみにしていたんじゃ」
「俺はまた作るからいいですよ。ただ、味見はさせてください。一応、酒なんで」
料理の香りづけに使うくらいは酒精は飛んでしまうからと許されているけれど、お酒に漬け込んでいたのだったら、私は味見が出来ない。私がお酒を飲んでも許される年齢までは、あと一年。体の成長を妨げるから、とどんな席でどんな理由があろうとも、決められた年齢に達する前にお酒を頂くことは我が家では許されない。
幸いにして、私が招待をいただいた席では無理強いするような人はいなかった。お兄様たちはなかなかに大変だったようだ。それでも、破った後に待っているお父様とお母様からのご指導を考えれば、断る方が楽だと思えたそうだけれど。
「それじゃあ、お願いします」
「はい、任されました。終わったら声かけてください。俺は、これから夕食の指示出しますんで」
ひらひらと手を振っているコック長にもう一度お礼を言ってから、腕まくりをした。きっとお母様の乗馬の腕だったら、夕食には余裕で間に合うように帰ってくる。
朝に一度作って手順は頭に入っているから、きっと大丈夫だ。お母様を玄関でお出迎えするために、私は朝よりも急いで手を動かした。