2.兄との手合わせ
「お父様、お兄様お待たせ……あら?」
着替え終わって自室から庭に向かう前に、焼けたケーキの振り分けをルターにお願いしたから、少し時間がかかってしまった。
すでに体だって温まっているだろうに待たせてしまったことが申し訳なくて、着いて早々に頭を下げようとすると、予想よりも一人少ないことに目を瞬かせる。
「ああ、早かったねドルチェ。父上なら報告書を仕上げてくると言っていたよ」
「そうでしたか」
別れる前を思い出せば、いるともいないとも言っていませんでしたので、私の思い込みだったのでしょう。残念だと顔に出してしまった私に、そっと声をかけてくれたのは、グリーンの瞳を優しく細めたお兄様たち。
「そう気を落とすことはない。お前のケーキを心待ちにしている様子だったから、適当な時間で切り上げてくるだろう」
「俺達は父上と共によく外に出るから、慰めにはならないだろうけど。気持ちは分かるよ、ドルチェ」
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
フェルヴェお兄様とロラントお兄様は、カラーリングこそ同じだけれど体格も性格も全然違う。けれど、お二人とも同じくらい言葉に温かさがこもっているのだ。
元々はロラントお兄様だけとのお約束だったのが、フェルヴェお兄様にも見てもらえるようになったのだから、この機会を活かさなければ。
「それなら、父上からこの時間の事をよく報告するようにと言付かってきたが、代わりにドルチェが話せばいい」
「フェル兄さんにしてはいい考えですね」
「ほう。俺の事をそんな風に思っていたとはな。ロラント、後でじっくり語ろうではないか。もちろん、こいつでな」
ポンポン、とフェルヴェお兄様が叩いて示したのは、自分の腰。そこにあるのはフェルヴェお兄様愛用の逸品。弁が立つロラントお兄様とやりあうのは、こちらの方が手っ取り早いと笑っているけれど、フェルヴェお兄様がそうだからこそ自分が上手くならざるを得なかった。そう苦笑いをしていたロラントお兄様の事を、フェルヴェお兄様はご存じなのでしょうか。
額を押さえてやれやれとばかりにゆるく首を振っているロラントお兄様の様子を見るに、うまい具合に聞こえないふりをしているのでしょう。
「それより、まずはドルチェとロラントがやるのだろう? 審判は俺が務めよう」
フェルヴェお兄様の声でハッとしてロラントお兄様と向き合った。すでに愛用の品を手に持っているロラントお兄様は穏やかな顔をしているけれど、即座に動き出せる体勢を取っている。
そうだ、もう始まっているのだから集中しないと。ふうと深く息を吐いてから、ロラントお兄様と向き合った。
「よろしくお願いいたします。フェルヴェお兄様」
「こちらこそよろしく。ドルチェ、手は抜かない事」
「では……始め!」
フェルヴェお兄様の合図が聞こえるかどうか、スラリと鞘から抜かれたレイピアが私に向けられる。今日の目標は、自分の髪の毛を邪魔だと思えることなくロラントお兄様とやりあうこと。レイピアを避けるべくしゃがんだ動きに合わせて、結んでいないキャラメル色の髪が視界の端でふんわりと舞ったけれど、肩に戻ってくる前に私も腰からダガーを抜く。
至近距離で予備動作もなく振り上げた軌道は、ロラントお兄様の首筋を狙ったもの。けれど、それもロラントお兄様には見抜かれていたようで、左手で抜いた鞘でいとも簡単に弾かれてしまった。
「今日は髪を結んでいないと思ったけれど、理由があったんだね」
「初手でそこまで思い至るのですね……!」
これが、お父様だったら経験の差。フェルヴェお兄様だと何となく、という言葉にできないものになる。けれどロラントお兄様の場合は、相手の立ち振る舞いから何手もの行動を予測して、それにどう対処するのかまで考えているのだ。私が考えを巡らせても、それすらも読まれている。
「最近はずっと髪を上げていただろう? いつもと違うのだから、何かあって当然じゃないか。
いいのかい、結ばなくて?」
「ええ、結びません。戦うのは、髪の毛を結んでいる時だけとは限らないのですから」
「いい心がけだ」
ふっと満足そうに笑ったロラントお兄様が、レイピアの先をすっと地面に向ける。鞘に手を添えたまま膝を曲げ、少しだけ前に重心を傾けた。
どう向かってこられても対応できるように、私もダガーを構える。ロラントお兄様が少しだけ微笑んだように見えたのは、正解とでも言いたかったのかそれとも、余裕の表れでしょうか。
三歩は離れていただろう距離を一瞬で詰めたロラントお兄様のレイピア、その切っ先を逸らすようにダガーを当てる。細いはずのレイピアが重くて、思わず声が漏れたがぐっと腕に力をこめて押し流す。
しなやかさを失っているわけではない攻撃をどうにか凌いで、空いているように見える脇腹めがけてダガーを振るう。けれど、優雅にダンスをするようなターンで避けられて、ロラントお兄様の服に触れることすら許されなかった。
「そんな単調な軌道は、俺じゃなくても弾かれてしまうよ!」
「お兄様だから言えるのです!」
髪の毛がふわりふわりと舞っているが、それ以上にレイピアが次から次へと迫ってくる。捌くことで精一杯な私は、お兄様の名前を呼べていないことも、自分の髪の毛があれだけ舞っていたのにほとんど切られていないことにも気付けなかった。
「これならっ!」
ロラントお兄様の手が一瞬緩んだ隙に、今日のために練習していたナイフを投げる。膝をついて腰を落とした体勢から投げたにしてはスピードが出せたと思ったのに、カンカンッと響く高い音が弾かれたのだと教えてくれた。
「ドルチェ、困ったらナイフに頼るのは悪い癖だって前にも教えたよね?」
「ええ。ですから、こうしてみたのです!」
弾かれたのは、おそらく二本。さっとロラントお兄様の後ろに視線を走らせれば、地面に落ちているものが三本と審判であるフェルヴェお兄様の寄りかかっている木に刺さっているのが一本見えた。
木に刺さっているものは遠いけれど、やれなかったことはないので、両手をぐっと引っ張った。
「これは!?」
非力な私でも簡単に扱えるナイフ、そのなかでも投げるために薄く軽く作ってもらった物だから、殺傷力には期待していない。ただ、相手の余裕を奪える隙が作れれば上等だ。
投げたナイフには、柄に細くて見えにくい糸を巻きつけてある。その糸は私の手に繋がっている。つまり、思い切り引っ張った糸につられるように、ナイフは私の手元に戻ってくる。
それでもそこまでの勢いはなかったのか、ロラントお兄様の足首辺りを軽く掠める程度にしか浮き上がらなかったけれど。
「こんなもの、切ってしまえば終わりだろう!」
ロラントお兄様の言葉で、木に刺さったままだったナイフをまじまじと見ているフェルヴェお兄様。細く透明な線を見つけるために私はそれなりの時間をかけて鍛錬をしたのに、まるでそこにあるのが違う色で見えているかのような正確さで切られてしまった糸。
そちらに気を取られているわずかな間でダガーを振るってみたけれど、ほとんどを流されてしまった。
「さて、ドルチェ。足掻くかい?」
「いいえ。今回用意した手は、これだけでしたもの。私の負けですわ」
ピタッと首筋に当てられたレイピアは、すでに鞘に収まっている。万が一にでも傷つけたらいけないと思ってくれているロラントお兄様の優しさが、少しどころではなく痛い。髪の毛、下ろしていて良かったのかもしれない。手合わせとしては視界でちらついて集中力が欠けてしまったけれど、今は泣きそうな顔を隠してもらえるのだから。
「負けたといえど、ドルチェのアイディアも悪くはなかったな。問題は、精度か」
「そうですね。一瞬ひやりとはしましたから。ドルチェのナイフ投げの腕があってこその策にはなりますが……」
「ああ、遠距離が得意な者に話してみてもいいだろう」
せめてこの場で涙をこぼさないよう俯いている間に、私の頭の上ではお兄様たちの会話がぽんぽんと交わされている。
練習した時間の割に上手くは出来なかったと思っていたのだけれど、お兄様たちはそう考えてはいなかったようだ。こぼれることなく引っ込んだ涙は、もう私の目に気配すらない。
「そういうわけだから、ドルチェ。後で父上も交えて相談をさせてくれないだろうか」
「構いませんわ。遠距離が得意な方には、私の訓練にもお手伝いいただきましたので、後ほどお名前もお伝えします」
「それは助かる」
慰めるように優しく頭を撫でてくれたのは、フェルヴェお兄様。反対側から肩を叩いてくれたのはロラントお兄様。
厳しくも優しいお兄様たちに守られている私は未熟だ。だけど、まだ強くなれる。そう思える間は、涙をこぼす必要はないのだと、私を支えてくれる温かさが教えてくれた。
他の令嬢と違うことは理解しているけれど、辺境伯を父に持つドルチェにとっては、これが日常。