1.我が家の日常
初めまして、もしくはお久しぶりです。
お楽しみいただけたら嬉しいです。
「~~♪」
「お嬢様、何を作っておいでですか?」
今日は多忙なお兄様に時間を空けてもらって、やっと取り付けてもらった約束があった。とても楽しみにしていた約束だったのだけれど、今朝の緊急の呼び出しでお兄様たちは家を飛び出して行ってしまった。
私とて貴族、この地を預かる者の子として生きているのだから、緊急の呼び出しは何をおいても駆けださねばならないものだと理解している。
けれど、約束のために空けていた時間が、手持無沙汰になってしまったのも事実。それでしたらと身支度を整えてからキッチンへ向かうことにした。
必要な材料を準備して、パタパタと粉をふるっている時に声をかけてきたのは、アンバーの瞳を楽しそうに細めた人物。
「お父様たちが帰って来た時のために、ケーキを焼こうかと思って」
「それならば、お手伝いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんよ! ルターが一緒なら心強いわ」
きっとそう言ってくれると思っていたし、ルターも私の返事を分かっていたのでしょう。ささっと自分のエプロンを用意して隣に立ってくれた。
何かあった時のためにと簡単な調理を学んだ時、楽しくなってそのまま趣味の一環となったお菓子作り。今では家族でのお茶会で皆が楽しんでくれるようになったのだから、続けていて良かったと思えるようになった。
それでも、私の隣でお手伝いと呼ぶには手際が良すぎるルターの腕には、まだまだ及ばないのだけれど。いつか、肩を並べられるくらいにはなれるかしら。
「それは、大変にありがたいお言葉を頂戴してしまいましたね」
ふふ、と二人で微笑みあってからケーキを作ることに専念する。お父様とお兄様たちが向かったのだから、量が多くても食べきってくれるはず。
「~♪~~♪」
「お嬢様は、とても楽しそうに歌いますな」
「あ、ごめんなさい! こんな時に……」
呼び出しで飛び出していったのは、お父様とお兄様たちだけではない。この地にいる人たちも同じように向かって行っただろう。もはや日常だと思えるくらいに慣れているとはいえ、戻ってくるまでは不安な人だっているはずだ。ルターとケーキを作れることが嬉しくてつい口ずさんでしまったけれど、今のは私が悪い。
「いいえ。不思議ですが、お嬢様の歌を聞いていると不安な気持ちが和らいでいくようなのです。他の者も、そう申しておりましたよ」
「本当に?」
「ええ。ですから、お止めにならずともよろしいのですよ」
「ありがとう。ルター」
まさか、自分が思いのままに口ずさんでいることにそれほどの評価をもらっているとは思いもしていなかった。ルターの事だからリップサービスという可能性もあるけれど、なんだか胸の奥がムズムズするし気恥ずかしいしで、きゅっと口を閉じてしまう。
それからしばらく無言が続き、ボウルを押さえてもらってカシャカシャと生地を混ぜていると、わあっと歓声が上がった。ルターと二人、作業を中断して出迎えるために玄関へと急ぐ。
「おかえりなさいませ! お父様、お兄様!」
一仕事終えたのに、いつもと変わらず服の着崩れもないお父様と、少しだけくたびれた様子のお兄様たち。エプロンは外して、汚れていないことを確認してからキッチンを離れたのだけど、少しだけ怪訝な顔をされてしまった。けれど、それは一瞬で、すぐにいつものように笑顔を見せてくれたのでほっと息を吐く。
「ドルチェ、お迎えありがとう。これを仕舞って来てくれるかい?」
「構いませんけれど……ロラントお兄様、今日はお使いにならなかったのですか?」
すっと手渡されたのは、ロラントお兄様の愛用の品。使った後は大切に手入れをしているのに、今日の呼び出しでは使わなかったのでしょうか。
考えても答えの出ない疑問に、正解をくれたのはもう一人のお兄様。
「ドルチェと約束があったから、手入れに時間を割きたくなかったんだろ。その辺からさっと調達してたもんな」
「フェル兄さん!」
恥ずかしそうに声を荒げたロラントお兄様だったけれど、その言葉を否定することはなく。私と同じように、ロラントお兄様も今日の時間を楽しみにしていてくれたのだと十分に伝わってきた。
ネイビーの髪から覗く耳はほんのりと赤く染まっているから、間違いなく本心だと分かる。分かるのだけど、ちょっとだけ悪戯心が湧いてきてしまった。
「フェルヴェお兄様、その話は本当ですか?」
「ああ。本当だとも。この兄が嘘をついたことがあるか?」
「……ございませんわね」
ロラントお兄様と同じ色を持っているフェルヴェお兄様。けれど、そのグリーンの瞳は楽しそうにきらめいている。そういう表情をしている時はロラントお兄様をからかっている時がほとんどなのだけれど。フェルヴェお兄様が私に嘘をついたことは、今まで一度だってない。
「だろう? そうだ、ドルチェ。ロラントとの約束に、俺も混ぜてもらえないだろうか。あの程度では準備運動にしかならん」
「私よりも、ロラントお兄様とお父様に許可を頂きませんと……」
「俺はいいですよ。フェル兄さんには、負け越していますから」
あの程度というのは、緊急の呼び出しの事だろうか。確かに少しくたびれた様子ではあったけれど、ロラントお兄様は自分の手に馴染んだものを使うことなく終わらせてきている。それなら、フェルヴェお兄様だってかなり余裕があったのだろう。なにせ、私達兄妹で一番強いのはフェルヴェお兄様なのだから。
ロラントお兄様は、フェルヴェお兄様が混ざることをすんなりと了承していただけた。この間教えてもらった勝敗の数では負けが多かったのが悔しいと言っていたから、ロラントお兄様は丁度いいとでも考えているのだろう。
「フェルヴェとドルチェだけで行うのは、禁止だ。ドルチェとロラントが組んでフェルヴェとやりなさい。それならば許可しよう」
私達の力量を正しく理解しているのは、お父様。だから、お父様からの許可が下りなければフェルヴェお兄様の飛び入りは認められない。
今日の呼び出しでお兄様たちの動きと体力にも余裕があると思ったのか、お父様からは条件付きではあるけれど無事に許可を頂くことが出来た。
「父上、それはさすがに」
「なんだフェルヴェ。お前、弟と妹が組んだ事を負けた言い訳にするつもりか?」
「そんな事は言いません! そして俺が負けると決めるのはよしていただきたい!」
「ほう、ならば父に勝利の報告をすることを忘れるなよ」
少しばかり焦った様子でお父様と向き合ったフェルヴェお兄様は、くるりと綺麗なターンを決めた。こそこそと話していた私達のところへ戻ってきたフェルヴェお兄様を見るお父様の顔に、上手くいったとばかりの笑みが浮かんでいたのは、見間違いではないのでしょう。
「……フェルヴェお兄様、上手く乗せられていませんか?」
「まあ、父上からの許可は無事にいただけましたし……」
呆れたような声のロラントお兄様に言わせれば、フェルヴェお兄様はあまり物事を深く考えないのだとか。確かにどちらかと言えば前に出ることを好むフェルヴェお兄様ですが、考えていないことはない、と思うのですが。
「二人の準備は出来ているだろう。ドルチェはどうだ?」
「すぐに用意いたします。あ、」
お父様に話を振られて思い出したのは、中断していた作業の事。キッチンには混ぜて型に入れようとしていたケーキの生地がそのまま置いてある。さすがにそのままにしておくことは出来ないので時間を頂けるように頼もうとしたところ、任せろとばかりに胸を張ってくれたのは、ルターだった。
「あとは焼くだけですので、私にお任せいただけますか」
「ありがとう、ルター。よろしくお願いします」
結局大変なところを任せる事になってしまったのに、ルターは笑顔で了承してくれた。多めに作ってあるから足りないことはないだろうけれど、ルターに自分の分もきちんと取り分けるように念押ししておきましょう。
「焼くだけ、ということはケーキの類か?」
「そうです。新しいレシピを調べましたので、試してみたくて。後ほど、お味の感想をいただけますか?」
「もちろんだよ。それじゃあ、庭で待っているから準備をしておいで。ああ、これは置いて行っていいよ。フェル兄さんも一緒だったら使わないとね」
ロラントお兄様に言われて、帰ってきて早々に預かったままだったのを、またお兄様の手の中に戻す。当然だけれど、私のところにあるよりも、ロラントお兄様の手の中にある方がしっくり見える。
令嬢として失礼のない程度の速さで、自室に戻って着替えを済ませる。庭に向かいながら談笑しているお兄様たちの声が聞こえてきたけれど、私にはそれに答えられるだけの余裕はなかった。
「さて、我が家の末の姫はどれだけ強くなっているだろうかね」
「こりゃあ、本気出さないとな」