6-3.レーヴェの戦い①
階段を下りる音に、レーヴェは振り返る。
シュッツェが監視とともに、散歩へ出たらしい。
「兄は逃げたいと言っていた」と、背後で声がした。
いつの間にか、男が暖炉の前に立っている。
「どうやって……」と、レーヴェは呻く。
たった今、扉を見ていたところだ。
「……兄さまと会ったの?」
暴れ回る動揺を抑え、椅子から立ち上がった。
「いや。兄とは手紙でやり取りする」
男は首を振り、暖炉にもたれる。
「お前が書いた手紙は、竜人自治区の川辺に転がしておいた」
信用するには程遠いが、レーヴェは安堵した。
もちろん、疑問は尽きない。
「どうして、IMOに依頼するの? 同盟国や国連がいるでしょう」
「甘いな」と、男は笑う。
「連中が介入すると思うか? クローネのような弱小国家が消えたところで、世界は何も変わらない」
「よくも、そんなことを……!」
祖国を罵られ、レーヴェは唸る。
よほど悔しかったのか、涙の膜が張っていた。
「お前だって、薄々わかっていただろう?」
「知らないッ……」
レーヴェは、ベッドに座り込んだ。
公女としての矜持はまだ残っているが、灰のように崩れそうだ。
「IMOは隠れ蓑にちょうどいい。兄と囮になってもらう」
「囮?」
聞き捨てならない言葉に、レーヴェの表情が強張った。
「兄を囮にするなんて、ふざけないで。そんなこと──」
「じゃあ死ぬか?」と、男が遮る。
「それか、どっかの有力者か変態に買われて生き地獄を味わうか? ……一国の公女が落ちぶれるさまか。見物だな」
何も言い返せず、レーヴェは拳を作った。落ちた涙がシーツを濡らす。
「……あなたの計画に従う」
この瞬間──。
レーヴェは天使の皮を被った、悪魔の腕に落ちた。
そして、あの日──逃亡へと続く。
※
隙間風にランタンの火が揺らめく。心地のよい、静かな雨だ。
『カニス・エルラー作 エルラー旅行記』を閉じ、レーヴェは窓を見た。
そのうち眠るだろうと本を手に取ったが、一睡もできなかった。
もうじき、迎えが来る。
ベッドから立ち上がり、ドレッサーの前へ。
目元のクマがひどく、頬骨が浮き出ている。鏡に映る顔は、幽霊のようだ。
ドレッサーには、お気に入りの香水。そして、古びた化粧箱。
『大きくなったら、お化粧箱を買いに行こうね』
脳裏に蘇るは、母の言葉。
その約束が、果たされることはなかった。
レーヴェが十二歳の時、交通事故で死んだ。
遺された化粧箱は、母そのもの。
一番下の引き出しに、傷に見せかけた溝が彫られている。
爪を引っ掛けると板が外れ、隠し底が姿を現す。
このナイフで、首を掻っ切ればいい。
しかし、最後の最後まで恐怖が勝った。苦しみながら、惨めに死ぬのは怖いと。
メンテナンスオイルを塗ったままの、新品同然のナイフを手に取る。
宝物だったはずが、レーヴェには恐ろしい物に見えた。
当然だ。ナイフはどうあっても、何かを切る物。
「……もう、あと戻りはできない」
眉間に深いしわを寄せ、レーヴェは目を閉じた。
囮役の兄を確実に逃すため、兄に変装する。
それが、レーヴェに与えられた役目。
ダークブロンドの長髪を纏め、ためらいなく切り落とす。
バサリと、髪はゴミ箱へ。
その瞬間、レーヴェの細い肩が震えた。
自慢の髪を切り落とす行為は、自死にも等しい。
鏡に映るは、兄と瓜二つの顔。幼少期は、よく間違えられたものだ。
逃げるように目を逸らし、手帳をちぎり取る。
『ごめんなさい』
余計なことは書くな。と男に忠告されている。
謝罪の言葉以外、何も書けなかった。
「覚悟はいいか」と、鏡に男が映った。
もう驚きはしない。レーヴェは、振り返ることなく頷く。
「これを着ろ」と、青いシャツが差し出される。
「……兄さまの」
褪せた群青色に、レーヴェは見覚えがあった。
「重ね着でいい。口元はマフラーで隠せ」
指示通り、セーターの上からシャツを着る。
上げ底のブーツを履き、レーヴェは立ち上がった。
「どうやって逃げるの?」
返事の代わりに、男は右手を差し出した。
「掴め」
「え?」
「さっさとしろ」
苛立ち混じりの、急かす声。
その時、外から車のエンジン音。
時計の針が、午前八時を指している。ついに輸送車が来た。
思考を止め、レーヴェは手を取った。刹那、視界がぐにゃりと歪む。
「なにこれっ!?」と、小さな悲鳴が上がった。
目の前に広がるのは、絵の具を薄めたようなマーブル状の世界。
色とりどりのパステルカラーが、不規則に揺らめいている。
現実離れした異様な光景に、恐れを抱く。
レーヴェは、無意識に男の手を握りしめた。
手を引かれ、一歩踏み出す。ビチャ。と湿った土が跳ねた。
聞こえるのは、川のせせらぎと鳥のさえずり。
「ここは……」
レーヴェは、掠れた声で呟いた。
見上げた先には、見覚えのある城の尖塔。
紛れもなく、エーヴィヒカイト城である。
目の前にはレンガの壁。背後にはトウヒの森。
裏庭を出た先の国有林にいると、レーヴェは察した。
その時、怒号が上がった。ともにいた男の声ではない。
それどころか、姿が見当たらない。
怒号の主は裏庭のビエール兵。血走った目がレーヴェを捉える。
コマ送りのように、ゆっくりと、時が進む。
逃げろと、レーヴェの本能が訴えた。とっさにトウヒの森へ。
途端にビエール兵から、いくつもの怒号。
捕まれば死ぬ。逃げろ、逃げろ。
ぬかるんだ地面に足を取られながらも、ひたすら走った。
「いやぁッ!!」と、レーヴェは叫ぶ。
目の前に、何者かが立ち塞がったのだ。
「うるさい、俺だ」と、男は手を差し出した。
「あぁ……」
助けて。とレーヴェの唇が動く。男の手を、今度はためらいなく握った。
ビエール兵が追いついた頃には、二人の姿は消えていた。




