3-1.虎の威を借る狐
それは、ある弱者の記憶──。
眼下に広がるは、煌々と輝く街。
わぁ、きれいだ。
そんな感情も刹那的。
地に落ち、いくつもの足に踏まれる。
泥にまみれ踏み固められ、道の端で無様に解ける。
そこで意識は途切れた。
眼下に広がるは、白波立つ荒海。
いやだ、こわい。
恐怖と絶望の中で、意識が途切れる。
眼下に広がるは、純白の大地。
まだ、いいか。
時折、誰かに踏まれ、動物の糞尿を浴びる。
それでも、春まで生き永らえた。
そんなことを何千回も繰り返すうち、意識は自我へと変化。
しにたくない。ずっと、いきていたい。
最初はささやかな願いだった。
純粋だった願いは、次第にどす黒い怨念へと変わった。
こいつさえいなければ。そうだ、こいつに成り代わればいい。
負の感情が重なった奔流は、主人を容易く飲み込んだ。
何度でも再生する、不滅の体。
思うがままの、殺生与奪の権利。
全てを支配する美貌。
願いを叶えた瞬間、失うことを恐れた。
生き続けるため、地の果てさえも凍った世界にしてしまえ。
犠牲など知るものか。
そうやって、欲望のままに走り続けた。
醜悪な夢の先に待つのは、回帰──消滅だとも知らずに。
※
いまだ、シキは動かない。
勝鬨を上げることなく、ただ空を見上げた。
今、心にあるのは空白感。ぽっかりと、穴が空いたような虚無。
嵐とともに勇利は去った。この世から、完全にいなくなってしまった。
立ち尽くすシキの背後で、淡い光が立ち昇る。
スニエークから弾き出した、氷の球体が発生源だ。
光の中から、一人の女が現れた。Aラインの白いドレスは、花嫁を思わせる。
女の顔を見た瞬間、シキは一歩下がった。
絹を思わせる白髪に、水色の目。その顔は、スニエークと瓜二つ。
「私の名は、クリュス・ティグリス」と、女が言う。
「助けてくれて、ありがとう」
スニエークのような、高飛車な口調ではない。
「そして、心から謝罪します。……ずっと、内側から見ていました」
しおらしく、白いまつ毛が伏せられた。
「……あんたのせいじゃない。ただ──」
少し経って、シキは首を振った。
「教えてほしい。スニエークとは何者だ?」
「……彼女は、私の眷属です」
クリュスは、スニエークが消滅した場所へ振り返る。
「あれは夏の終わり。休眠期の最中だった私は、一瞬で乗っ取られてしまったのです」
「眠っていた場所が、ヴェーチェル山だった」
シキの呟きに、クリュスは頷く。
「抵抗した際、居合わせた人間たちを殺してしまった。以降、暴虐の限りを尽くしました。私は、いかなる罰も受けるつもりです」
弱々しい声とともに、うつむいた時。
「その件に関して、一言いいかな?」
男の声とともに、シキの胸から光が溢れる。
現れたのは灰色のローブを纏った、T字杖を持つ老人。
「アネモス様」と、クリュスは瞠目した。
「ひとまず叱っておこうか。眷属に乗っ取られるなど、言語道断である」
「仰る通り、返す言葉もありません」
「しかし、いい勉強になった。無垢な眷属であっても、主人に牙を向けることがあると」
一歩踏み出し、アネモスは手を伸ばす。
「クリュス。私にとってお前は我が子同然。罰は与えられぬ」
「……ありがとう、ございます」
無罪を言い渡された罪人のように、クリュスは目を閉じた。
「静かな場所で休むといい」と、シキは微笑む。
「本当にありがとう。また、どこかで」
晴れやかな笑顔を浮かべ、クリュスは光へ。
球体に変化し、天へと昇る。次第に光は弱まり、残像を残し消えた。
「シキ、ありがとう」
T字杖のグリップをさすり、アネモスは目を細めた。
「お前に託して正解だった。……いや、お前と勇利。だな」
「あいつ、挨拶もなしに消えやがった。……何も言えなかった」
「お前さん、どこまでも嫌われていたんだな」
「やかましい」と、シキは鼻を鳴らす。
「心配はいらん。お前の気持ちは、勇利に届いているさ。それより、まだ戦いは終わっとらん」
ローブの裾を揺らし、アネモスは歩き出す。
「勇利の望みは、仇討ちだけではなかっただろう?」
「そうだな。まだやることがあった」
「では行くのだ。そろそろ、フロガが苛立っているだろう」
アネモスの言葉に、シキは苦笑した。
腕を組み呪いの言葉を呟く、総司令の姿を思い浮かべたのだろう。
頷くと、アネモスは球体へと戻る。
澄み切った朝の空気を引き連れ、シキは広間をあとにした。