5-3.グッバイ・ハロー
竜人自治区を出立し、六時間が経過。
穏やかな清流を横目に、一行は開けた場所へ出た。
馬車から降り、兄妹は天を仰ぐ。木々の間から見えるのは、青空に伸びる尖塔。
あの塔からの景色は筆舌に尽くしがたい。
臙脂色の屋根にベージュの城壁。ゴシック様式かつメルヘンチックな佇まい。
ついに、エーヴィヒカイト城が姿を現した。
「……すごく、久しぶりに感じる」
感慨深そうに、シュッツェは独りごちた。
「ようやく、スタート地点に立てましたね」
各々が荷物を持ったあと、ラトが言う。水色の目に浮かぶのは、惜別の光。
「本当にありがとうございます」
一歩踏み出し、シュッツェは両手を伸ばす。
「またお会いしましょう」
固い握手を交わし、ラトは大きく頷いた。
「お元気で」と声を震わせる、レーヴェの目にも涙。
「あなたも、ありがとう」
丸太を思わせるペルシュロンの首を、労うように撫でた。
一拍置いて、ラトはアインを見た。
「ご兄妹を頼んだぞ」
「任せてください」
アインの目が真っ直ぐに祖父を見つめる。二人は長い抱擁を交わした。
「また、ゆっくり話そう」
涙を堪えるように、ラトは強く目を瞑る。
「お元気で」
兄妹を先頭に、一行は歩き出した。
「お気をつけて」
いくつもの背を見送る、ラトの頬に涙が伝った。
※
「ところで。なんで裏口からなんだ?」
苔むした門を前に、アウルは首をかしげた。
「正門まで行くには、川や谷を迂回する必要があるんだ」
シュッツェは、背後の川を指差す。
「今さらだけどさ。見張りとかいないの?」
その言葉とは裏腹に、ネロは声を潜めない。
「心配はいらない」と、ケラヴノの声。
発信源はフィラメント電球からだ。
「ビエール兵は撤退し、城は放棄されている。ただ──」
「だ、誰だ!?」
声を遮り、怒号が上がった。門の向こう側──庭木の裏に人がいる。
「出てこい!」
飛び出した老夫がスコップを振り上げた。
しかし、シュッツェの顔を見るなり手が止まる。
「クラウスおじさん……」
強張った笑みを浮かべ、シュッツェは老夫の名を呼んだ。
「あなた! どうしたの!?」
続けて眼鏡の女が、農作業小屋から飛び出した。
老夫の妻だろう。同じく目を剥いて立ち尽くす。
「ハンナさん!」と、レーヴェが笑った。
「シュッツェおぼっちゃま。レーヴェお嬢さま……」
上擦った声とともに、クラウスは脱帽した。
「あぁ神よ! 感謝します!」
門前まで駆け、鉄格子の扉にしがみついた。
「……ここには、管理人の老夫婦がいる」と、ケラヴノの補足。
言葉を遮られ、不機嫌になったらしい。
クローネがまだ平和だった頃。
クラウスとハンナは、城の管理とガイドを務めていた。
つまり、幼少期の兄妹を知る者でもある。
錆びた音を立て、門が開く。同時に、クラウスが膝を落とした。
「いつお戻りになるかと、待ちわびておりました」
目を充血させ、嗚咽を漏らした。
「突然いなくなって、ごめんなさい」
土で汚れるのも構わず、シュッツェも膝をつく。
「何をおっしゃいます。むしろ、私たちは手を差し伸べることができなかった」
取った軍手を握りしめ、クラウスは何度も首を振る。
「とにかく、中へお入りください」
袖で涙を拭い、ハンナは門扉を全開にした。
ビエール兵の撤退により、日常が戻ったのだろう。
除草された花壇に、色とりどりのパンジーとビオラ。
綺麗に剪定されたコニファーの列が、整然と並ぶ。
「お話は伺っていましたが、まさか裏口からいらっしゃるなんて」
「遠回りになっちゃうからね。そうだ──」
廊下を歩く途中で、シュッツェはクラウスを見た。
「俺たちが逃げたあと、酷い目には遭わなかった?」
「事情聴取は受けましたが、暴力はありませんでした」
杞憂を吹き飛ばすように、クラウスは笑う。
一行は、エントランスホールへ出た。
シュッツェの目に映るのは逃亡時の幻影。
ビエール兵に変装し、階段を降りて正面から出た。
「すぐに、出立されるのでしょう?」
残念そうに、ハンナが視線を落とす。
「うん。一刻も早く、アオレオーレに行かないと」
手料理を堪能し、夫婦と語らいたかったはずだ。
湧き上がる欲求を抑え、シュッツェは頷く。
「ですよね。……そうだ」
思い出したように、ハンナは両手を叩いた。
「お渡ししたいものがあります。あなた、先に案内していてちょうだい」
早口で言うとスカートの裾を掴み、階段を駆け上がって行った。
「もう若くないのに」と、クラウスは苦笑い。
「さぁ、迎えがお待ちです」
扉の取手を引くと、隙間から光が差し込む。
正面には一人の女。背筋を伸ばしつつ、肩が緩む。
左手を腿に添え、右手は顔の前へ。直立不動の見事な敬礼だ。
黒いショートボブに気の強そうな黒い目。
アインが言っていた、置き去りにした仲間──シュテル・バッハ。
「シュテル……」
泣き出しそうな顔で、レーヴェがその名を呼んだ。