3-1.傀儡の巣窟から
静まり返った、憲兵局の一室。
書類から目を離し、アインは時計を見た。時刻は午後八時を回っている。
意識を移すと、集中力が切れてしまった。書類を放り、アインは瞼を押さえる。
こめかみと目の奥が、鼓動に合わせて痛んだ。
簒奪の事実はその日のうちに、国中を駆け巡った。
外遊に出ていた首相が帰国し、閣僚と議員たちが議事堂に集結。
しかし、すべてが手遅れだった。
すでに、ビエールの師団が入り込んでいた。
武力行使をちらつかせ、行政・立法・司法を黙らせた。
憲兵局にも、多くの兵が送り込まれた。
アインは警護官の任を解かれ、警護課も解体。
皮肉にもビエール傘下の憲兵として、デモ鎮圧に駆り出されている。
あれから一週間。抑圧されてはいるが、国内は落ち着いている。
しかし、連行される兄妹の背が、アインの脳裏から離れない。
今日は寝よう。と書類を片付け始めた。その時だった。
扉を叩く音に、アインは動きを止めた。
こんな時間に誰だろうと、首をかしげる。
「入っていい?」
扉越しに聞こえたのは、気の抜けた声。返事を待たずに扉が開く。
カーキ色の詰襟に身を包んだ、男が入室した。
その姿から、ビエール兵だと確信できる。
赤みがかった茶髪に、大きな目が印象的だ。
「アイン・フェヒターさんだよな? 迎えに来たんだけど」
「誰だ」
長身が迫り、アインは身構えた。
「質問はあとにしてくれ。時間ないから。最近は泊まりがけらしいな。荷物、あるなら持ってきて。外で待ってる」
「ちょっと──」
「急いでね」
言葉とは裏腹に、動作や口調は緩慢だ。
質問を一切受け付けず、男は廊下へ出た。
「……何なんだ?」
我に返ったアインは、独りごちた。
だが、ここで考えあぐねていても仕方がない。
男の指示通りに、仮眠室からトランクを持ち出す。
簒奪後、夜間に呼び出されることが増えた。
いちいち出勤するのも面倒なので、現在は仮眠室で寝起きしている。
アインが家に帰るのは、洗濯やゴミ出しといった、家事を済ませる時だけだ。
最後に机の引き出しを開けた。手に取ったのは憲兵バッジ。
全てを奪われたアインが、まだ持っている矜持の証。
電気を消し、男が待つ廊下へ出た。
「俺はビエール兵として、あんたを家まで送る。俺の言ってる意味、わかる?」
壁にもたれていた男が、声を潜めた。
アインは無言で頷く。疑問を浮かべるも、口には出さなかった。
「行こう」と、男が歩き出す。
二人分の足音が、廊下に反響した。
アインはふと、緊張していると自覚した。心拍数が上がり、手のひらが汗ばんでいる。
無機質な廊下を歩いていると、気が遠くなるような錯覚に陥る。
だが、足を止めてはいけない。
この男について行けば道が開くと、第六感が訴えている。
廊下を早足で抜け、エントランスへ出た。車寄せには一台の軍用車。
アインは助手席に座り、サイドミラーに映る憲兵局を見た。
治安維持の砦は陥落し、今は傀儡が蠢く巣窟でしかない。
ここから抜け出すことを渇望していた。
しかし──。
いざ現実に直面すると、歓喜よりも不安が心を支配している。
「そんな顔するな。『家に帰る』だけだろ?」
ハンドルを握る男が、声を上げた。
視線の先には検問。
アインの顔を見るなり、兵士は胡乱な目つきになった。
男はサイドブレーキを上げ、流暢なザミルザーニ語を発する。
通行許可証と身分証を提示した。
何度か頷くと、兵士はバリケードを開けた。すぐに車が動き出す。
角を曲がり、検問の灯りが見えなくなった。
アインは大きなため息とともに、ヘッドレスに頭を預けた。
「ドキドキしたか? もしかして、派手な脱出劇でも期待した?」
茶化すように男が笑う。
「どういうつもりだ? 君は何者だ!?」
呼吸を整え、アインは語気を強めた。
つい十五分前まで、憲兵局にいた。兄妹の身を案じ、己の非力さを呪っていた。
当然、事情が飲み込めていない。
「落ち着けって。質問に答えるから。な?」
「……名前は?」
渋々、アインは正面を向いた。
「アウル。ラストネームはない」
夜目が効かない鳥とは違い、夜行性の猛禽類。
本名とは思えないが、アインは詮索を止めた。
「あんたはアイン・フェヒター。フェヒター家って、大金持ちなんだろ?」
「家も財産も接収された。今はただの没落貴族さ」
自嘲気味に、アインは笑う。
「君が私に接触した理由は、何となくわかる。……君は何者だ?」
核心に触れる言葉に、アウルの整えられた眉が動く。
「傭兵」
「……ん?」
「だから、傭兵だって」
傭兵とは、自国の軍に属さない兵士。
現在は『民間軍事会社』の名で活動している。
「……だとすると、雇い主がいるはずだ」
顎に手を当て、アインは鋭い目つきになった。
「鋭いね。俺の独断だとか思わないの?」
「こんな国難に個人が動くわけがないだろう。それとも君は傭兵じゃなく、慈善活動家か?」
「あんた、冗談とか言うんだ?」
皮肉に反し、アウルは大ウケしたらしい。ハンドルを叩き大爆笑。
茶色の目が、フクロウの如く見開かれる。
「依頼者はレーヴェ・ネイガウスって女の子。あんた、よく知ってるだろ?」