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美少年

作者: 桐葉

 私がその夜見た風景は、それはそれは見事なもので、私はしばらく見とれていたのでありました。横にはまだ小さい妹がおりましたが、「いま見たものを、おまえもみたか」と聞くと、「しらない」と答えたのでした。

 次の日、学校に行っても誰もその話をしませんでした。その話をすると皆、口をそろえて「ゆみこちゃん、夢でも見たんじゃない」と言うのです。そんなはずはありません。私は確かに、この目で、はっきりと見ました。その、今更こう、口に出して言うと恥ずかしいのですが、私がこのうえなく感動したのはひとりの美少年であります。生まれてこのかた、恋をしたことはありません。誰かを本気で、愛した経験もございません。ただ、ひとりたたずむその美少年はため息がでるほど綺麗で、私の脳髄に何かがででーんと駆け抜けました。まるで、クラスで一番早い太田君の五十メートル走のように。私の恋のスタートは疾走感にあふれていたのです。まさに絶好調なスタートを切りました。


 次の日の学校で、友達のありさちゃんに「ねえ、あなたは恋をしたことがある?」と聞くと、あるわ、と答えたので、「どんなものかしら」と尋ねました。

「そうね、晴れの日の雷に似ているかしら。」

「雷?」

「ええ。いままで何も気にしていなかったあの人が、いきなりぱっと輝いて、今日は晴れねって気づくと同時に雷が落ちてきて、痛ってなるの。」

わかるきがするわ、とだけ答えて、私の体験は言わないことにしました。太田君の説明も面倒くさかったし、私とあの美少年だけの秘密にしておきたかったからです。算術の授業の時間、私は彼の似顔絵をノートの端っこにかきました。先生や同級生に見られてはたいへん、と背中を丸めて大切に描きました。似ても似つかなかったけど、彼の輝きが一層わかるように、と星のマークをちりばめておきました。

「小谷さん、聞いていますか」

ああ、びっくりした。先生に見られたかと思った。

「聞いていますわ。答えは2です。」

先生ったら、急に話しかけるのが好きなんですもの。

「それならよかった。前向いて聞いとけよ。」

「わかりましたわ」

 私は学校では、とても真面目で騒ぎ立てず、教室の隅で本ばかり読んでいる、優等生でした。

まったく手のかからない良い子でした。たしかにそういう風に見えていたはずです。でも実際には全く違うことを考えていたこともありました。空想の得意な子です、と保護者面談で両親はよく言います。勉強はそれほどではありませんが、と父親が苦笑しながら付け加えるのでした。

 私がその夜見た美少年は、船のところで働いている少年のようでした。私はお稽古事のあとで、妹が迎えに来てくれ、二人並んで港を歩いているところで彼を見たのでした。彼は港に座っていました。時折跳ねる魚に目を向けるわけでもなく、綺麗なお月様に目を見張るわけでもなく、ただ、見えるか見えないかわからない、水平線を眺めておりました。私はその少年の雰囲気の美しさに眩暈を覚えました。今までどうして気づかなかったのかしら、と思いましたが、電灯がなくて暗闇に紛れてしまっていただけでしょう。私にとってこの発見を月明かりのせいにするのは、あまりにも恥ずかしいことでした。この港には最近、電灯が取り付けられたのです。野良犬がうろつくとかのうわさが出たのですから。母親が夜は危ないと言って私に護身用の短刀をもたせたのです。なんだか大人になったような気持ちでした。

次の日はひとりで通りかかりました。やっぱりそこに少年は座っていました。すると、

「この海の水は、もしかしたら汚い。」

とふいに少年が声を出しました。吸い込まれてしまいそうなどんよりと暗い海をぼうっと見つめる少年の声は見た目よりも低い声で、もしかしたら同じくらいの年なのかもしれないわ、と思う反面、何をいっているのかしら、とも思いました。もしかしたら汚い、ですって。と、私にはなんだかよくわかりませんでした。その少年は夜にならないとやってきませんので、次の日の朝、海をのぞいてみました。するとビニール袋が浮いており、それを魚がぱくっと食べました。ここのところ、東京の港には、ビニール袋だの、酒の空き缶だの、酔っ払いたちのゴミ捨て場となっています。私はそれを悲しく思っていました。ふと例の少年のことを思い出しました。彼は海が汚いとつぶやいて、苦し気な表情でぼんやりしていたことを。彼は、もしかして魚なのかもしれないと思いました。ビニール袋を誤って飲み込み、空き缶のフタで視力を奪われた魚なのかもしれない。そういば、彼はきらきら輝いて見えたわ、あれはもしかしたら鱗なのかも、そう思ったのでした。そこでわたしは、大海原を気持ちよさそうに泳ぐ彼の姿を想像しました。私の想像の中では彼は半魚人で、顔は美しいままでした。彼のおおらかな姿に惹かれ、小さな魚たちは彼の腹にくっついて泳ぎます。やがてその想像は道を歩く足が空き缶に当たったことにより止まりました。カン、と乾いた音がして、その空き缶は一回転、二回転。空き缶は少年の足で止まりました。朝はいないはずなのに、いつ来たのでしょうか。私の知らない間に彼はここにきていたのです。今なら名前を聞ける気がしました。

「あの、その空き缶ごめんなさい、ところでその、お名前は」

実に不自然な構文になってしまいましたが、やっとお話らしいお話ができました。うれしくなって、少年の顔をじいっと見ることができたのですが、少年の顔が美しいのと、先ほどまで彼の本当の姿は魚なのではないかと思っていたことが恥ずかしくて、私はすぐに目をそらしてしまいました。一瞬、少年の顔が曇った気がしました。

「名前をきかれたのは初めてだ」

彼はそっとつぶやきました。はじめて、と私は心の中でつぶやきなおしました。ああ、はじめてというのはなんて響きが良いのでしょう、彼にはじめて名前をきいたのは私なのだ、という嬉しさとその陰にある背徳感に、胸がどきどきしました。このむねのどきどきに押しつぶされそうで、足がふらふらしました。なんだか目もちかちかしています。がりっと歯ぎしりをした瞬間、なぜか泣きたくなりました。

「そう、お名前は」

「本当の名前は嫌いなんだ、なんか違うのをつけてほしい」

「まあ、それでは遠慮なく、」

と、うれしい気持ちをひたすらに隠すいたいけな少女は、少し首を傾げた後、

「カレイ、はどうかしら」

と言いました。

「カレイ?それは加齢のこと?僕がふけているっていうのかい」

だとしたら間違いはないね、僕らはまちがいなく年を取る、と彼は続けてつぶやきました。

「いいえ、ちがうわ。あなたの姿があまりにも華麗だったのです。その、はじめておあいしたときから。」

実のところは、こんなことは思ってもいませんでした。単純に昨日図鑑で見た魚の名前です。しかし、とうとう私の気持ちを言ってやったぞ、と達成感に満ち溢れました。それは図らずして生まれた偶然だったのですが、近所のコンビニに売っているガリガリ君の塊が、のどを伝っていくような感覚がしましたので、私はのどにぐっと力をいれました。喉の奥のほうで、昨日食べたサーモンの味がしました。一日たったからもう鮭の味しかしなかったけれど。あら、私きのう、歯は磨いたのかしら。

「カレイか。気に入った、ありがとう。」

「どういたしまして、私の名前は」

「いいの、君の名前は」

いきなりさえぎられた私はむっとして

「どうして」

と尋ねました。

「人間の友達はいらないんだ」

こう言う少年の目が、少し暗くなりました。

「やっぱり、やっぱり人間ではないのね」

私は先ほどの予想が当たってとてもうれしかったのです。本当のことをいうと、友達と言われたこともうれしかったのですが。私は優等生であるがためにいままではあまり友達がいませんでした。

「ぼくは人間だよ。さかなになれなかった人間さ。」

それを聞いた私は少し悲しかった反面、言葉を話せるお方でよかったわ、と思っていました。さかなになれなかった人間さ、と最後のほうは小さい声でした。

「そう、」

と私がいうと、彼は急に海をのぞき込み、背中を大きくくねらせ、彼の一番だいすきだったはずの海に彼の胃の中のものをすべて吐き出しはじめました。

「ぼくは海の一部になりたかった」

と、もうひとつ吐きました。

「にんげんって、損してるなあ」

と、残りをすべて吐き切る彼のいうにんげんが、私の知らない、違う言葉のように聞こえました。


ぴしゃん、と魚が一匹跳ねました。鱗が月明かりに照らされて、きらきら光っています。

ぴしゃん、きらきら

ぴしゃん、きらきら

彼のうめき声が、鼻水をすする音が、嗚咽が目の前の「綺麗」を汚している、と気づいたとき、はじめて彼のことが邪魔になりました。


あとから聞いたところによると、その少年は中学二年生であったそうです。その時私は小学六年生でしたから、ずいぶん年上のように感じていました。彼の顔はよく思い出せませんが、月の煌めきだけを、よく覚えています。


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