【SSコン:段ボール】 ヴォルティ・スビト!
——『ピアノの音を響かせる、鍵のかかった誰もいない筈の音楽室』。それはコペンハーゲン解釈のようなもので、僕はいまこの状況に有名な怪談を連想しているものの、部屋に入って観測すれば奏者はそこに居るに違いないのだが——この少し不思議な感覚から醒めたくないと考えるのは、ごく自然な人間の好奇心ゆえだろうか。
美しい音色だった。鍵穴に鍵を挿す音を立てることすら憚られるので、僕は、このまま四度同じ演奏に聴き入って死に絶えるのかもしれない、なんて普段ならば一笑に付すような想像さえした。いつの間にか僕は鞄をそっと下ろしていて、音楽室のドアの横に置かれた段ボール箱に腰掛けている。いつになく味のあるように見える古びた木製のドアが、柔らかな音の薫りを伝えてくれる。僕は勝手に、ピアノの前に座る、黒鍵のように艶めく黒髪を靡かせる少女の姿を思い描く。オーギュスト・ルノワールの画のように柔らかで、しかし少しだけつめたい。そのすらりと長い指は白くしなやかで、鍵盤上を滑るように撫でてゆく。軽やかに、しな垂れかかるように、訴えかけるように。遠い何かを目で追うように……。
やがて、ガッというピアノ椅子の足が床を蹴る音がして、僕はハッとして立ち上がった。そうか、演奏が終わったのか、と余韻に浸る間もなく、『彼女』は動き出す。いや、しかし。音楽室の扉は、内側からは開けられない筈だ。だが。そもそも『彼女』は鍵を僕が持っている状態でこの中にいる。うるさい鼓動の合間に聞こえる、ギィと床が軋む音楽室特有の足音を追う。足音は、ピアノのある位置から左に……つまりこの扉の方に向かって、しかし通り過ぎた。そしてその歩みが止まると、今度は細かな物音が聞こえる。
まさか、窓——? 僕は驚愕した。音楽室は四階にある。壁を伝う? 木に飛び移る? 飛び降りる? 常識的に考えて、僕が想像したような、華奢な少女にはまず不可能に思えた。しかし、僕はまだ、『彼女』を観測していない。僕は扉の前で何も出来ず、ひそかにごくりと唾を呑んだ。そして、己の鼓動が落ち着き、外にいる烏の声がよく聞こえるようになり、下校を促す間延びしたサウンドが響き始めた頃、僕は漸くここにいる本来の目的を果たすために鍵を回す。
音楽室には誰もいなかった。完璧な位置に戻されているピアノ椅子の座面に触れれば、まだ『彼女』の存在が現実か怪奇かを確かめられたかもしれないが、僕はそんなことはどうでもよくなっていた。ちらりと『彼女』の足音が向かったと思われる窓を見れば、クレセントが下を向いている。僕は、放置されたパスケースを回収した後、何となくそれを上向けた。
そのコンサートはどうやら、毎週金曜日、校則で少し部活の終わるのが早い日、その最後の十分以内に行われる。僕は吹奏楽部員という立場を隠れ蓑に、それに通い続けた。
「『エリーゼのために』ぃ?」
「そ。”学校の七不思議”みたいでしょ。弾きそうな人、知らない?」
「さてなあ。ピアノ弾ける奴なんて多くて分かんねえよ。でも、真面目なクラシック奏者つったら、もう那須くらいか? ショパンも弾くアイツが今更『エリーゼのために』なんてわざわざ弾くかは謎だけど」
「那須さんかあ……」
僕は三年の先輩の引退の近づく十月下旬、僕を除いて唯一の男子部員である篠田を頼ってみた。那須さんは身長の低い『女の子』で、僕は話したことがない。小動物みたい、とよく言われる彼女の細腕から紡がれる時に力強いメロディは音楽経験のない生徒にも好評で、彼女のピアノは百パーセント、合唱の伴奏に選ばれる。だから僕は、彼女のピアノのことは知っていた。「……違うね」僕は断じた。『彼女』のピアノは、那須さんの正確無比のメロディではなかった。「なら知らね」と篠田は肩を竦める。本当に覚えがないらしい。まあ、仕方ないとしよう。元々ああやってわざとコソコソと弾いているのだ、すぐに見つかる方が不思議というわけか。
「それよか、お前も早く働け。貴重な男手が固まってサボってたらどやされるぞ!」
「……そういえば、一年生の視線が痛いなあ。そうするよ。じゃあ」
「おう」
吹奏楽部の荷物を動かすのは重労働だ。僕は篠田と違って女子とそこまで腕力は変わらないが、こういうタイミングで頼られるのは男子部員に漏れなく課される宿命のようなものだった。僕は音楽室を目指して階段を上る。
「あ……! 小茂出先輩!」
「ん?」
四階の廊下に出たところで、僕の耳は僕の名前を拾った。「すみません、あの、ここの段ボールってどうすれば……」一年生の彼女たちはオロオロと、廊下に積み上がった段ボール箱たちを身振り手振りで指す。その中には、僕がずっと腰掛けてしまって凹んだものも混ざっていた。先輩として指示すべく早足で寄る。この類の荷物は、ふたつ隣の教室に移動させておくように言われていると伝えれば、勤勉な後輩達はきびきびと動き始めた。僕はそれを手伝うことにした。
山の一部が崩されて、僕は少しだけ残念に思った。僕にとって、長らくここは僕と『彼女』だけのコンサートの会場で、その間これらの配置は一度も変わることがなかったからだ。彼女たちの手際は良くて、僕はそれについていくのに忙しくて感傷に浸る間もなくなった。変わらない時間、変わらない選曲、変わらない場所……、その一つがずれてゆく。——僕は……不安になった。あの日からずっと、扉にすら触れずに僕はあのコンサートに参加してきた。僕はまだ、『彼女』を観測していない。コンサートは、砂上の楼閣だった。なまじ有名な怪談に似ているだけあって、僕はあの状態に一種の儀式的なものを感じている。
僕は、やけに重たく感じる……なんてこともない、例の凹んだ段ボールをその手で持ち上げた。
「——ね、小茂出。今、ここ片付けてんの?」
「……七瀬? そうだよ」
「ふうん」
ふと背後からまた声をかけられて、僕は少し驚いた。七瀬……吹奏楽部で唯一、運動部と兼部している、活発な女子である。良し悪し関係なくよく女の噂のネタになる、ポニーテールを揺らし、健康的に汗を滴らせるパーカショニスト。七瀬は、何だか引っかかる感じの相槌を打って、視線を僕の持つ段ボールにずらした。凹んだのが自分のせいだと知っているから、その視線に少したじろいでしまう。そういえば、僕はこの箱の中身を知らない。「この箱がどうかした?」僕は問うた。七瀬は、少し考えるような仕草をして、言う。
「——その箱、そこに置きっぱなしにしといてくれない?」
「え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。僕の願望が漏れ出たのかと思ったからだ。しかし、違う。今の言葉は、確かに七瀬の口から発せられたものだ。どくん、どくん、と無意味に高鳴った心臓を抑えていると、僕の口が勝手に「いいよ」と快諾する。
「ありがと」
七瀬はそっけなくそう言って早々に通り過ぎ、汗に濡れた髪を束ねていたゴムをしゅるりと解いた。——「あ」と僕の声が零れた。黒鍵のように艶めく黒髪が、窓から入る風に煽られて靡く。
ずきゅん、と、唐突に僕の心臓が一際大きく脈打った。はて、僕は女子に感謝を言われた程度で揺らぐ男ではなかった筈だが——。