第1楽章 「序奏~ピアノコンサートに舞い込んだ異分子」
挿絵の画像を作成する際には、「AIイラストくん」を使用させて頂きました。
繊細で気品に満ちたグランドピアノの旋律は、アンコール曲であるルートヴィヒ・ヴァン・べートーヴェンの「バガテル第25番」を滑らかに演奏し終え、最後の一音が美しい余韻をホール内に残してくれた。
上品なピンク色のドレスで白い肩を露わにした奏者が、艶やかな黒髪を揺らして優雅に一礼すると、ウェスティホールに詰め掛けた聴客達は、溜め息混じりに拍手を打ち鳴らすのだった。
「素敵よ、ママ…」
私こと笛荷興奈も、そんな聴客の1人だったの。
聴客の注目を一身に集め、ピアノへ真摯に向き合い旋律を奏でる姿も。
演奏を全うして、万雷の拍手を浴びながら一礼する姿も。
どこを取っても美しい。
美貌の天才ピアニストである笛荷千恵子は、私にとって自慢のママだ。
あの美しい旋律のためなら、私はどんな犠牲を払っても惜しくはない。
いいえ、ある意味では既に払っているのだけど。
舞台に幕が降り、通常照明も点灯したホール内。
この瞬間も、関係者の娘としては重要な時なんだ。
お客さん達に注目してみてよ。
帰り支度をしながら、コンサートの感想を囁きあっているでしょ。
演奏の余韻が濃厚に残っているから、新鮮な生の意見を聞けるんだ。
だから私は開演直前になると、自分の周囲の客席をザッとチェックし、面白い感想を言ってくれそうなお客さんに目星をつけるの。
そして終演後の会話に、そっと聞き耳を立てるんだ。
私としては、ママを讃える誉め言葉を聞きたいんだけどね。
今回のコンサートで目を付けたのは、私の右斜め前の席にかけた2人組なの。
ライトブラウンのストレートヘアーを腰まで伸ばした女の子は、私より2歳程年上に見えるから小学5年生位かな。
そして茶髪の女の子の付き添いと思われる、黒いメイド服を身に付けた女子大生位のお姉さん。
あのお姉さんが着ている黒のメイド服、コスプレにしては上等の生地で、デザインも落ち着いているね。
女の子の服も仕立てが上品だし。
良家の御嬢様と、そのお付きのメイドさんかも知れないね。
「笛荷さんの奏でる『エリーゼのために』は、素晴らしい物でしたね。御誘い頂けて感謝致します、登美江さん。」
「御喜び頂けたなら何よりで御座います、英里奈御嬢様。」
どうやら私の読みは正しかったみたい。
英里奈御嬢様、だって。
「滑らかで気品に満ちた旋律が、何処までも続く螺旋階段を想起させて…この登美江、あのピアノの調べを思い出すだけで、胸に甘い疼きが生じてしまいます…」
だけど私としては、件のメイドさんがママの演奏を誉めてくれたから、思わず口元が緩んじゃうの。
あのメイドさん、ママの良きファンになってくれそうだよ。
「笛荷千恵子さんのソロコンサートと、堺電気館の生演奏付きサイレント映画上映会。重複日程なので直前まで検討されていましたが、こちらで正解でしたね、英里奈御嬢様。」
「ええ、登美江さん…堺電気館の上映作品はホラー映画ですし、何より曰く付きのフィルムですから…」
奏者に代わって御礼申し上げますよ、英里奈御嬢様にメイドの登美江さん。
サイレント映画じゃなくて、ママのソロコンサートを御選び頂けて。
そうして数分経ち、ホール内の人影もまばらになった頃。
ママの巧みな演奏や美貌を讃える聴客達の感想を一通り聞いて満足した私も、いそいそと帰り支度をしていたんだ。
-お客さん達、今日もママの演奏を喜んでたよ!
この事実を伝えられる喜びに、私が嬉々として立ち上がった時だったの。
「ん?」
前の方の席に、A4サイズの紙が1枚落ちているの。
血みたいな赤文字と黒マントの男のモノクロ写真がデザインされた紙は、堺電気館で開催されていたサイレント映画上映会のチラシだと一目で分かったよ。
例の御嬢様かメイドさんが、気付かずに落として忘れちゃったんだろうね。
「ふ~ん…『吸血鬼の遺伝子』か。奏者は…加東梢美さんね。」
半ば掠れたような白抜きのフォントで記された「呪われた邦画ホラーの金字塔!」という宣伝文句も、ギョロ目で顎の長い主役俳優の御面相も、何から何まで不気味だった。
だけど捨て置くには忍びなくて、クリアファイルに入れて持ち帰る事にしたの。
と言うのも、「加東梢美さん」という奏者の名前に聞き覚えがあったんだ。
確か3年前、ママが母校である堺音大の講堂でピアノコンサートを開催した時の共演者だったはずだよ。