昂・二
昂・二
リウは一人、アデオへと駆けた。今ではアデオとだけ呼ばれるが、本来はアデオ・ゼスタという地名だ。古の四国時代にはこの付近で有名な海戦が行なわれたが、今では大半の者たちが忘れ去り、ただアデオとだけ称している。それは南を意味する古語であるが、その名の通り、アデオは獅鳳の最南端に位置している。
邦と邦の間の輸送などを担う渡士が駆る馬には劣るが、擦れ違った民はみな、リウの走る速さに驚いている。使者がかけた時間よりも大分早く戻れるはずだった。
息を整えつつ走りながら、九辛に襲われたという町に思いを馳せる。惨状を見て、果たして取り乱さずに居られるだろうか。
邦司によっては荒斗への対応が様々で、人によっては断固として拒絶していると聞く。リウも荒斗はいてはならない存在だと認識しており、邦の外で見かけたら護士に知らせ捕縛を手助けする。その場で虐殺する邦もあるらしいが、そこまでは苛烈になれず、その身柄を東獄へ送るよう護士に依頼している。
邦の中に入りこんで来たり、周囲で目に余る迷惑をしたりしない限り、無体な扱いはして来なかったつもりだ。
ただ、やはり同じ血を引く者としての甘さはあり、邦の中でそれらしき者を見ても、見過ごす事があった。屈窟という堕落した者達が屯している場所でも、入り込んだ荒斗がいると思われるが、それらを追求せず、見過ごしてきた。
荒斗は、他では人として扱われない。ただ、そうなったのには生まれの差もあるだろう。ゆえに、多少の同情があり、これが最大限の譲歩だった。
それなのに、である。リウの優しさを甘さと見たのか、周辺の荒斗騒動は途絶えず、そしてこの事態である。やはり荒斗は有害な存在なのだなと、厳しく扱わなかった己の甘さを振り返りつつ、リウは走った。
*
―――どうして、信じられる?
投げかけられた不信が、何度も心の中で再生され、リウの胸を刺す。
また奪われないという保証はあるのかと、言っていた。またお前らの所為で、巻き込まれて酷い目に遭うのではないか。そう拒絶されたのは初めてではなく、これまでも何度もあった。
忸怩たる思いはあるが、それでも邦を纏めるという、祖父から受け継いだ役目は変わらない。内心では憤懣が絶えないけれども、辛抱強く対応してきたつもりだ。全てを受け止め、譲歩を引き出し、妥協点を探ってきた。
そうできたのは、まず、父の教えがある。病で倒れたが、父ラウは最期まで、両方の手を離すなと、説いていた。
人の手が二つあるのは、二方向を結ぶ為だ。目の前の相手を敵として一方的に攻めるためではなく、他の二人を結び合わせ、縁を繋ぐためだ。人はそうして円を為して、援を行い、繋がっていくものだ―――。
それは、あの人がよく言っていた言葉を引き継いだものだった。
遠く日本から流れてきたあの人がいなければ、自分達の今は無かったに違いない。苦境に耐え切れず、父は民を力づくで押さえつけ、やがて虐げてまで黙らせようとしただろう。
あるいは、祖父に倣い、叛旗を翻したかもしれない。そのどちらも堕ちず、今の関係まで快復できたのは、父が和を望んだからだ。そして、一人が耐える事で大多数の平穏を得られるのだと説いた、あの人のおかげだ。
闘うな、とあの人は怖いまでに厳しい顔をして言った。
感情に流され、争うことは容易である。闘争心が掻き立てられ、興奮もする。だが、結局は、どこかが酷く傷付いて終わるだけだ。一時的に、多少の得るものはあっても、何も生み出さない。ただ何かが減るだけなのだ。
特にお前は、闘ってはならん―――。
お前が闘えば、その相手は只では済まされん。一方的で、最悪の結末しか待っていないのだ―――。
あの人は、まるで懇願するように、リウの眼を見て言った。そこに溢れ出して来そうなほど深い哀しみを見て、リウは首を縦に振った。
あの時、あの人は何を見ていたのか。どんな未来が想像できていたのか。友であるラウを見ていれば、どんな事が起きてしまうか分かると言っていたが、それは今でも謎だった。
あの人の教えは守ってきた。
正しかった。争わない事が、相手を、そしてリウ自身を生かし、少しでも好意的な関係が作れるようになっていた。少なくとも、互いを削りあうという険悪な関係にだけはならないで済んでいた。
今の自分があるのは、あの人のおかげだとリウは思っている。あの人がいて、大切な助言をくれたから、今がある。
会って御礼がしたい。あの人は、今どうしているだろうか。恩人である乃木進助のことを思いながら、リウはただ風のように走った。