昂・一
昂・一
立ち昇っていく朝日から逃げるかのように、男が走っている。すでに息は切れ、大きく吸い込もうという意欲すらない。口は開け放たれ、からからに乾いた喉の奥から異音が聞こえる。いつ倒れてもおかしくないが、それでも光を失っていない眼光に、男を支える強い使命感が垣間見える。
道の左右は人の手で大きく拓かれている。けれどもまだ表層を均し、倒木や巨石を除いただけで、土中は手付かずで、作物を植えられる段階にない。
獅鳳の北の境を出た所にある、このデマムン幹国の故地は、かつては森が多く緑豊かであったが、大災害を境に土地の力は損なわれ、荒地と化している。
ただ表層を均して作物を植えても、豊かな実りをもたらしてくれる農地にはならない。見よう見まねで、土中に植物などを混ぜ込み、養分豊かな土壌を作ろうと試行錯誤してきた。
すぐに成果が出るものではなく、失敗の連続だった。それでも、民は諦めずこの地を耕し続けている。投げ出したくなることは数多いが、それでも我慢している。同じ格好で苦労している仲間達の中に、この開拓を始めた者の子が混じっている事を思えば、まだ頑張れるというものだった。
今日もまた朝早くから民は作業している。そこへ駆けて来た男は、ふらふらとしながらも歩みを止めない。
誰かを探しているのか、ぎょろりとした眼を巡らせるが、皆散らばって作業している上に、同じような野良着の為、すぐに見つけられない。そうこうする内に、足を踏み出そうとして石に躓き、あえなく倒れこんだ。
半身を起すのがやっとであったが、大きく息を吸い込み、男は一人の名を叫んだ。
呼び求めたのは、リウ・鵬。この獅鳳の邦司である。
「一大事でございます。なにとぞ、お応えを―――」
喉が裂けようと、届くまで声を上げ続けてやる。そんな気概すら感じられる男の懸命な呼びかけに、反応があった。
同時に遠くの丘の上から、一人の若い男が駆け下りて来た。山颪のように颯爽として、長い足で地を蹴り、軽やかに駆けて来る。最後は大きく跳躍し、見事男の側に着地した。長身を折って屈み込んだが、汗も掻いておらず、息の乱れすら無かった。
「リウさま……」と、男は擦れかけた声で名を呼んだ。「畏れ多いことです。私がそこまで、参りましたものを」
「邦の一大事なのでしょう。私が行かなくてどうしますか」
その力強い声を聞き、男の眦に安堵の涙が滲む。それから感情に身を任してしまいそうになるが、その前に、はっとした顔になった。
「私は、アデオから参りました」
「そんな南から……。もしや、夜を通して、走って来たのですか」
男はぶるぶると震えながら頷いた。
「私の事など……。とにかく、邦司さまが、ここにおられると聞いて……」
「申し訳ない。司館を空けていました。それで、一体何が?」
「九辛が、出ました。やつらが、町を襲ったのです」
何事かと集まりつつあった民の中から、苦しげな声が漏れた。使いの男の必死な様子から、誰も話を疑う者はいなかった。
噂の九辛がついに来たかと、リウの顔も微かに歪んだ。
「すぐにいらして下さい。皆が、お待ちでございます」
リウは頷く。そして、立ち上がろうとする。
「それはどうかだかなァ」 と、その背に棘のある声がかけられた。集まった民の中にいた老人だった。「何が、皆がお待ち、だ。昂民なぞ、誰も待っておらんじゃろうが」
リウは笑みを取り戻し、どういうことですか、と返した。
「邦司として、この事態を見過ごす事は出来ません」
「それよ、それ。身を伴わぬ、名ばかりの邦の主など、誰が来て欲しいと思うものか」
「爺さん。無礼だぞ」 と、周囲の者達が諌めようとするが、老人は取り合わない。
「事実じゃろうが。邦司など、何もできん飾りじゃ。できるのは、働きたくない民を焚き付けて、共に農作業をすることぐらいか」
おい、と皆が気色ばんだ。
「リウさまは、我らにこの地を与えてくれるために、一緒に苦労して下さっているのだぞ。恩知らずの物言いを止めろ」
老人は、ひどく可笑しい事を聞いたような顔をした。
「与えてくれる、だと? ヒヒっ。どうかな、分からんぞ」
「爺、いい加減にしろ。これ以上暴言を吐くなら、ここを追い出すぞ」 と、本気で押し出そうという様子を見せた。その剣幕に怯まず、返って興奮して老人は声を上げる。
「本当に与えてくれるのかどうか、分からんじゃないか。どうして信じられる? こいつは、あの男の孫なのだぞ。信じて付いて行けば、また奪われるのだぞ」
場がしんとなった。
ここにいるのは、リウに声をかけられ、新しい土地を得ようとしている者達である。豊輔部の指示に従って農作業していては何も手元に残らない。そのため民の蓄えを作ろうとリウがみなに声をかけた。
しかし、新しい土地といっても、ここは邦の外に当たる。勝手に外に出ていたと日向人に知られれば、取り上げられるのは確実で、悪くすれば罰せられる。それなのに、リウ、そして彼の父親は、率先してこの土地へ皆を導き、そして時間の許す限り共に汗を流した。
そんな恩義あるリウを疑う言葉が出たのだが、みな、すぐに否定の言葉を返せなかった。老人のいうような懸念が、皆の心にあるからだ。
「―――信じられないのは、分かります」
リウは疑われても怒らず、静かに言った。
「それならば、それで構いません。無理にとは、言いません。ですが、私は続けます。そして、皆の理解を得られる日を待ちます」
「邦司さま……」
「そう。邦司とは、邦の民の為に、一番に働く者を言うのです。だから、このような仕事をすることに、私は何ら他意を持ちません」
「リウさま、それは違います。邦司は、昂国に九人しかいない、尊い立場のお方ではありませんか」
「九人しかいないのは、その通りですが、全員が同じ考えとは、限りませんよね?」
「同じではない、のでしょうか」
「ええ。全てが同じ人でないのならば。では、一人くらい、こういう邦司がいても、良いではありませんか」
リウは、優しく微笑んだ。老人も返す言葉もないようで、そっぽを向いた。
ところで、邦司は尊い立場という言葉があったように、邦を統べ、民を導いていく存在である。
そもそも邦とは、倭人が昂人を救済するために設けた保護区である。一応この地は昂民の物、という前提は崩せず、その代表・邦司は昂の血を引く者が勤める。それは今でも変わりない。
だが、実際の所、邦の管理、運営は和昂真府・九幹部から指示が下り、民が実働して、それを邦の支士達が監視している。邦司はお飾りで、実権は無いのである。
獅鳳はさらに、とある事件を機に、その領土を縮小された。豊かな故シシン幹国地帯は取り上げられ、新湊という良港までも失った。
この領地縮小は、リウも無関係ではない。彼の祖父ズウ・鵬が、この失権に大きく関わっているからだ。
モゼンという男が起こそうとした反乱の際、ズウは彼に同調したとされ、乱の終息後、責任を問われた。結果、獅鳳という名は残ったものの、土地を狭められる事になった。そのせいで獅鳳の民の大半が東部へと流れ込み、混乱を呼んだ。
この領土減少は邦司ズウが深く関わった所為だと思われ、民の鵬一族への信頼は霞んだ。
真府からの指示があるので、獅鳳をまとめる立場に依然としてあるというのも、鵬一族への不信を募らせている。五十年経ち、ズウの子、そして孫の代になっても、民がリウを見る目は冷たく、誰もまともに相手をしない。
リウが親身になって声をかけ、ようやく個人として信じてみようかと思った者でさえ、ふとしたことで、疑心が生まれる事がある。そうした変わり身は、リウにとって見慣れたことだった。
「あんたが―――」 と、老人は尚も口を開く。ただ、口調が変わっていた。言わずにはいられないというのは変わらないようだが、嘆きが入っていた。
「―――あんたが、どれだけ頑張ろうとも、奴らタスクイには何も響かん。奴らには儂らは見えておらん。便利に使える邦司という名前は覚えていても、リウ・ホウという名前は、興味のないものだ。行っても何もできん。何もさせてもらえん。それでも、あんたは―――、リウ様は、行かれるのか」
「もしかして、私が苦しんでいると、心配してくれているのですか」
「……いや、そういうわけではないが」
「お優しい。確かに、おっしゃるとおりです。民の代表でありながら、私は無力に等しい」
「ならば」
「だからと言って、止めて良い道理はありません。今は小さく、何も出来ずとも。それでも、立ち向かい続けて、何かを残せれば。私は、そう願っています」
「リウ様……」
老人の目から尖ったものが消えたのを見て、リウは頷き、使者の側に屈み込んだ。
「貴方は、ここで快復するまで待っていなさい」
「リウ様は? まさか、直接お一人で行かれるつもりか」
「急ぎます。私一人で移動した方が早い」
「しかし」
「私が強い男なのは、ご存知でしょう」 と、リウは微笑む。確かにリウは昂国古来の武芸を治めており、それを承知していた使者は納得した。
「南で苦しんでいる者のために、今は行きます。ですが、私は必ず、戻ってきます」
リウは、老人を見据えて言った。
「私は、あなた達を見捨てません」